【SQ5】3 襲来
リズが差し出した魚をひったくるように受け取った小猿は、素早く身を翻すと目にも止まらない速さでその場を去っていった。中途半端に手を差し伸べた状態でその場に残されたリズにエールが声をかける。
「これでお猿さんもご飯が食べられますね!」
「うん……」
満足げに頷き、少女はくるりと踵を返して水辺から駆け戻ってくる。その肩越し、水場を挟んだ対岸に位置する狭い道で、巨大な青い芋虫が蠢いているのが見えた。あの芋虫はFOEと呼ばれる強力な魔物の一種である。幸い彼がこちらの存在を気にしている様子は無いが、それもいつまで続くか分からない。今のうちにさっさとこの場を離れるのが吉だろう。
縄張りを巡回でもしているのか同じルートを往復し続ける芋虫に注意を向けつつ、エスメラルダがそれにしても、と切り出す。
「良かったんですか? せっかく釣った魚、あげちゃったけど……」
「まあ、食糧に余裕が無いという訳でもないしな」
マリウスが苦笑する。その隣でエールがそうですよと笑い、両手を握って釣りの構えを取った。
「またわたしが釣りますから! あっ、それとも今食べたかったりしました?」
「いや、今ではないですけど」
「じゃあ食べたくなったら言ってくださいね。ケイナさんも! 前たくさん召し上がってましたものね」
「え? あ、ええと、うん……」
唐突に話を振られたケイナが気圧されたように頷き返す。エールは随分とご機嫌な様子で、釣り竿を水面に向けるかのように構えた両手を振った。どうやら先日何気なく釣り上げた樹海魚の味を褒められて以来、彼女の中では釣りブームが訪れているようだ。食費が浮いて助かると言えばそうなのだが、この様子が続けばそのうち三食焼き魚をいただく羽目になってしまうかもしれない。
「……俺は肉の方が好きかな……」
ケイナのごく控えめな呟きは先を行くエールには聞こえなかったようである。肩を竦めるエスメラルダを見たリズが首を傾げ、不思議そうに男性陣と先頭のエールの背中とを見比べた。
迷宮二階の探索は、至って順調であった。
評議会から課されたミッションをクリアし、無事に正式な冒険者としての活動を開始した『カレイドスコープ』がこの二階に足を踏み入れてから、既に七日が経過している。その間も樹海料理なるものに挑戦したり手負いのイノシシに襲われたり釣りをしているエドガーに遭遇したり先輩冒険者に助言を貰ったりと色々な事があったが、ひとまず今のところは大きなアクシデントも無く探索を続ける事ができている。
そして芋虫の棲息地帯も抜けた今、三階への道はもうすぐそこ……だと、思われたのだが。
「行き止まりだな……」
「ですね……」
辿り着いた先は小さな広間であった。地図を見る限りここが二階の最奥部とみて間違いないだろうが、てっきりあるものだと思っていた上り階段がこの場に存在している様子は無い。目につく範囲を調べてみたが発見できたのは月リンゴの生る木と迷宮の各所で見られたものと似たような石像、そして明らかに人工物らしき佇まいの石壁だけだった。
意味ありげに鎮座する石壁を、エールがむむと唸って睨む。
「絶対にこの壁が怪しいと思うんですけど」
「ここ、何か書いてあるけど……読めませんね」
エスメラルダがそう言いながらなぞった箇所には、確かに何らかの文字列らしきものが刻まれている。しかし暗号のような文字で書かれたその並びから意味を拾う事はできなかった。こうなってしまってはお手上げである。
「どうします? もう一度別の場所を探してみますか?」
「そうするしかないですかね。でも、見落とすような場所があったかな」
「他の冒険者に話を聞いてみるのも良いかもしれないな。あのリリという人にでも……うわ!?」
突如悲鳴を上げて腰を反らせたマリウスに驚いたエールとエスメラルダは思わず武器を取り、そしてすぐに息を吐いて構えを解いた。よく見てみればマリウスの背中にリズが抱きついている。どうやら背後から急に飛びつかれて声が出てしまっただけのようだ。
気恥ずかしさからか僅かに頬を赤くしたマリウスは咎めるような目でリズを見下ろす。
「急にくっつくのはやめてくれ、驚いただろう……どうしたんだ?」
「リンゴ」
そう言ってリズは抱えていた黄色い木の実をマリウスに差し出す。マリウスが受け取れば、少女はもう一つ持っていた月リンゴを一口かじって自身の背後を指さした。
「取ってくれた」
そちらを見てみれば、両腕に月リンゴを抱えたケイナがこちらへ歩いてくるところだった。木登りでもしたのだろうか、耳に葉っぱが一枚引っかかっている。マリウスは受け取ったリンゴを掲げ、彼に微笑んでみせた。
「ありがとう」
ケイナは俯きがちに頷き返し、足早にエールとエスメラルダに近づいてリンゴを配り始める。しばし調査の手を止めて果実の爽やかな甘みを楽しむ一行だったが、小腹を満たしたところで状況が好転する訳でもない。
芯の周りの果肉を極限まで削り取りながら難しい顔で石壁を眺め続けていたエスメラルダに、リズがちょこちょこと近づいていく。彼女は自分の胸より低い位置にあるエスメラルダの頭に遠慮なく寄りかかると、目を瞬かせて石壁を覗き込んだ。重みに耐えかねたエスメラルダがくぐもった呻きと共に非難の声を上げる。
「ちょっとー……やめてってば……」
「『魔法の石壁は樹海の結界なり。ゴーレムに触れれば幻は消えて先への道が開かれるだろう』」
「やっぱり僕の事ぬいぐるみか何かだと思って……え?」
「書いてある」
と、事もなげに石壁を──正確には石壁に刻まれた文字列を指さしたリズを、エスメラルダは目を丸くして見上げた。慌てて駆け寄ってきたマリウスが怪訝そうに少女の示す先を見つめる。
「本当に読めるのか?」
「ほんとの字かくす魔法かかってる。リズ魔法みやぶるの得意」
「まあ! リズさんはすごいですね!」
エッヘンと胸を張るリズをエールが撫で回している間に、マリウスは顎を擦りながら再度石壁に視線を戻す。やはりこの文章が先に進む道を見つけるためのカギになるのだろうか。リズが言っている事が確かなら、ゴーレムがどうとか幻がどうとか書かれているようだが。
ようやくリズの重みから解放されたエスメラルダがマリウスを見上げて問う。
「ゴーレムって何ですか?」
「多分、自律式の魔導兵器の事じゃないかな。石や土で造られていて魔法の力で動く、と何かの本で読んだ気がする」
「石や土……それらしきものというと、」
その時だった。背後から響いた盛大な音にその場の四人は揃って肩を跳ねさせる。なんだなんだと振り返れば、先程までそこにあった筈のものが姿を消している。より正確に言うならば、ちょうど石壁と向かい合う位置に鎮座していた筈の石像が、仰向けになるような形で倒れている。そして中途半端に手を上げた姿勢のままその傍らで固まるケイナ……もはや何が起こったのかは自明であった。彫像のように立ち尽くしたままワナワナ震えるケイナの頭上で、獣の耳がぺたりと伏せている。まるで土下座でもしているかのような伏せ具合である。
「……あっ、階段……」
重苦しい沈黙が辺りを支配する中、エスメラルダがふと声を上げた。つい数秒前まで目の前に立っていた石壁が嘘のように消え失せ、代わりに上階へ続く階段が姿を現している。それに気付いているのかいないのか、ともかく倒れた石像をじっと見つめて絶望的な表情を浮かべ続けていたケイナは、やがてギギギ……という音が聞こえてきそうなぎこちない動きで四人を振り返った。
「お、俺……ちょっとさわっ、触ってみただけで……」
「だ、大丈夫ですよ! ほら壊れた訳じゃありませんし、階段も出てきましたし!」
「そうそう、お手柄だぞ! だから元気出してくれ!」
「おやつあげる」
静かな樹海に必死の慰めが響く。しばしどんよりと落ち込んでいたケイナだったが、リズが荷物――背負っている巨大な棺桶だ。リュックサック代わりらしい――から取り出したおやつのクッキーを口に押し込めば、伏せていた耳はぴんと天を向いた。
迷宮第一層は階を上るにつれてそびえ立つ世界樹の根本へ近付いていく構造になっている。世界樹の根本……つまり遥か頭上に茂る枝葉により、日中の日照量が著しく低い地帯だ。これまでは実感しづらかったその事実を、一行は三階に上がってようやくその身をもって理解する。
踏みしめた地面がいやに湿っているように感じられる。辺りは薄暗く、鬱蒼とした屋根をかい潜ってかろうじて地表に届いた日光が所々に柱のように射し込んでいた。すんと鼻を鳴らしたエスメラルダが僅かに眉根を寄せて呟く。
「またちょっと様子が変わった……」
「見たことのない魔物もいるかもしれないな。気を引き締めて進もう」
静かな声で応えながら、マリウスは肩にかけていた重砲に弾を込め直す。腰に携えた剣の位置を調整しながらエールが先頭に立ち、小さく頷いて先行し始めた。隊列を組み、周囲に気を配りながら慎重に進んでいく。
どうやらこの階層にも先程の上り階段と同じような仕掛けが点在しているようだ。ただしこちらは幻を見せる魔法の防壁ではなく、物理的な障壁が行く手を阻んでいる。気の抜けた顔をした石像を押し倒し、道が開けた事を確認したところで、ケイナがいやに不安げな表情ですぐ近くにいたマリウスに声をかけた。
「なんか、変な感じがしないか……?」
「……? 変、とは」
「え、あ、うう……やっぱり気のせいかもしれない……」
しどろもどろになりながら口ごもるケイナだが、その表情は晴れない。マリウスもつられて眉をひそめた。セリアンの感覚はアースランのそれより鋭敏だと聞く。自己主張の少ないケイナがわざわざ言ってきたという事は、恐らく本当に「変」な気配があるのだろう。居心地悪そうに腕を擦る青年に向き直り、告げる。
「また何か感じたら言ってくれ。気をつけるに越した事はない」
ケイナがひとつ頷いたのを確認し、マリウスは彼に隊列の最後尾を任せてエールの隣に並ぶ。少女は傍らに立ったマリウスを見上げるとにこりと笑った。しかしその片手は剣の鞘を握り続けている。
森の中は痛いほどの静謐に満ちている。分かれ道を右へ。例の仕掛けによって閉ざされた扉らしき壁の前を通り抜け直進する。開けた空間の端に扉があるのが見える。振り返って目配せをしたエールに他の面々が首肯し返せば、扉はあっけなく開いた。それぞれ北と東に延びるまっすぐな道が目の前に姿を現す。
「少し見てきます」
常より僅かに低い声でエールが呟いた。彼女が東側の通路に一歩踏み出した瞬間、背後からひゅっと息を呑む音が響く。立った耳を外側に向けて表情を強張らせたケイナがいつになく大きな声を上げる。
「駄っ……目だ! 何かいる!」
「え……」
ほぼ同時だった。ケイナの声に思わず足を止めたエールが振り返る、その瞬間に曲がり角の向こうから顔を出したもの……それは巨大な獣の体躯だった。熊、だろうか。しかし筋肉で膨れ上がった両腕には風切羽のようなものが生えていて、巨木かと思われるほど太い首の上に乗っているのは白く、のっぺりとした……梟にも似た顔だ。
感情の読めない顔が、いちばん近い位置にいたエールを見下ろした。呆然と固まっていた少女が弾かれたように後退する。瞬間、振り下ろされた爪が先程まで彼女が立っていた場所を薙いだ。力ずくで風を斬る暴力的な音。
体勢を立て直したエールが剣を抜いて獣へ向き直る。マリウスが盾を構えて後衛へ叫んだ。
「隙を見て撤退する! 備えろ!!」
最後尾から駆け込んできたケイナが刀を手に獣へ斬りかかる。腕を狙った斬撃は筋肉の鎧を裂くと同時に何枚かの風切羽を叩き落としたが、攻撃の手を止めさせるには至らない。獣が吼えた。形容しがたい甲高い雄叫びと共にぐっと広がった両腕が、抱き締めるかのような動きで勢いよく閉じられる。風圧を盾で受け止めながらマリウスが引き金をひいた。放たれた弾丸が白面に赤い染みを作る。逃走を試みる隙は、無い。
リズが背負っていた棺桶を開く。中から飛び出した黒い影は彼女の武器である「死霊」だ。不気味に蠢く影が獣に纏わりつく。しかし数秒動きを封じたのみで間もなく振り払われた。マリウスが唇を噛む。じりじりと間合いを詰められている。踵を返して扉の向こうに駆け込もうとしたところで、この距離では振り切れるかどうか。
ケイナの刺突にエールが追随する。淡い魔法の燐光が灯った一閃は、直撃と同時に迸る火炎を辺りに散らした。生物の一部が焼け焦げる酷い匂いが漂う。反撃の爪は寸でのところで回避した。しかし腕に生えた羽根にまで意識が回っていなかったらしい。顔を守ろうと咄嗟に掲げた腕に裂傷が走る。前衛の陰に張りつくように控えていたエスメラルダがすかさず薬草術を行使する。魔法で増幅されたハーブの効能はすぐさま傷を癒した。礼を言うのもそこそこにエールは乱れた呼吸を整えながら背後に問う。
「エスメラルダさん! スモークはありますか!?」
「一回分しかない! いま投げても無駄になるかもっ……!」
言い切る前に、攻撃の余波で折れた枝葉がエスメラルダの頭上に落ちてくる。飛び込んできたケイナが彼の首根っこを掴んで回避するが、その一瞬の間に前衛に空いた穴を獣は見逃さなかった。エールは一度距離を置いて隙を窺っていたところだった。マリウスは重砲に弾を込め直していた。エスメラルダを連れて着地したばかりのケイナは体勢を立て直せない。細い体躯のリズは言わずもがなだ。まっすぐに突っ込んでくる巨体に対応できる者は、いない。
空白の思考の中で誰もが無意識に終焉を覚悟した刹那だった。獣の背で涼やかな光を放つ何かが爆ぜる。聞くに堪えない悲鳴が上がった。突然の事驚きの声すら出ない一行の耳に、知らない声が届く。
「オイ、こっちだ、こっち! 走れッ!!」
まず動いたのはマリウスだった。エールの肩を押して促し、リズの手首を引くと踵を返して北へ駆けだす。はっとしたケイナがエスメラルダを抱え、リズが落とした棺桶を拾い上げてその後を追った。獣はいくらかの間を置いてこちらを追ってきた。足下から響く重量感に恐怖を掻き立てられながらも、走る。
通路の端には知らない冒険者が立っていた。両腕に拳甲を装備したアースランの男は、大きく手を振って『カレイドスコープ』を誘導する。
「扉まで突っ切れ!」
彼の言う通り、曲がり角の先には扉があるようだった。半開きになったそれの向こうでもう一人、こちらも知らない冒険者が手を招いている。深くは考えないままに全力で駆け抜ける。殿(しんがり)は拳甲の男が務めた。血を垂らしながら追ってくる獣を扉の向こうに置き去りにし、追撃が無い事を確認したところで、一行はようやく安堵の息を吐く。拳甲の男が快活に笑って『カレイドスコープ』を見回した。
「いやあ間に合って良かった良かった。お前らこの辺り初めてか? あいつには手出さない方がいいぜ」
「えー、あー……ありがとうございます。助かりました……」
マリウスが頭を下げれば、男は良いって良いってと掌をひらひらさせる。
「オレはジャン。で、こっちがステファン。ギルドの名前は……あー何だっけか?」
「『ヴォルドゥニュイ』です。どうぞ、よろしくお願いします」
長身長髪のルナリアの男が微笑みながら言葉を継ぐ。彼の右手に装着された金属製の機器を見たリズが、あーと気の抜けた声を上げた。
「魔法使い」
「そう言うと語弊があるのでウォーロックと呼んでほしいですね。これ食べます?」
と、言いながらステファンが差し出したのは、弁当箱らしき器に詰め込まれた小麦色のふわふわとした物体だ。上にかかっている赤いものはベリーのソースか何かだろうか。リズが目を輝かせて手を伸ばすのをエスメラルダが諫めようとしたが、その時には既にふわふわとしたものは少女の口の中に消えていた。渋い表情で固まるエスメラルダを見てステファンは肩を竦め、自身もふわふわを一欠片つまみ上げて口に運ぶ。
「そう警戒しなくても。ただのパンケーキですよ。まあ私の手作りなので味の保証はありませんが」
「おいしい!」
「それはどうも。貴方たちもよろしければどうぞ」
そう促され、他の四人もおずおずといった様子でパンケーキだという物体を一口食べる。味わってみれば確かに美味しい。素朴な生地の風味に甘いベリーソースの酸味が程よく調和している。
唐突なおやつの時間を楽しみつつ、改めて互いに自己紹介を行う。『ヴォルドゥニュイ』はジャンとステファンの二人だけで構成されたギルドなのだという。一般的に冒険者は五人パーティーでの探索が推奨されているというのは知っての通りだが、実際にはそれより少ない人数で探索を行っている者も数多く存在している。どうやら彼らもそのうちの一組であるようだ。
「でも、お二人で探索なさっているならそんなに余裕も無いはずですよね? どうしてわたしたちを助けてくださったんですか?」
エールが問えば、ジャンは手元に残っていたパンケーキの欠片を口に放り込んで肩を竦める。
「いやまあ、困ってたっぽかったし? あとほら、アレだよ。袖……袖が触れ合うと……なんとかって言うじゃん?」
「この人いつもこの調子なんですよ。困りますよねえ」
呆れを滲ませた声でそう言うステファンにも、悪意や害意らしきものは見られない。どうやら本当に『カレイドスコープ』のピンチに偶然通りかかり、善意で助けてくれただけであるらしい。エスメラルダが盛大に息を吐いて肩の力を抜く。
「てっきり法外な謝礼とか要求されるのかと……」
「要求しても良いんですけどね。……冗談ですよ冗談」
ステファンがにこやかに笑い、思わず一歩退いたエスメラルダにひらりと手を振る。が、彼はふとその手を止めると顎に手を当てて何事か考え込む様子を見せた。エールとリズとケイナが首を傾げ、マリウスとエスメラルダが良くない予感に身構える。
「……そうですねえ。もし礼をする気があるなら、評議会で話を聞いてきてくれませんか?」
「評議会?」
「色々ありまして。ああでも、念のため言っておきますが強制する訳ではありませんよ。貴方たちが無理をしなくても、時間が経てば解決する問題ではありますし」
「あーアレかあ。確かになー。誰かやってくれりゃ助かるな~って感じだもんな」
ジャンもうんうんと頷いて同意するが、『カレイドスコープ』からしてみればまったく要領を得ない。頭上に無数のハテナマークを浮かべる五人にとにかく評議会に行ってみてくださいと再度念を押し、ステファンはパンケーキが詰め込まれていた弁当箱を荷物にしまい込んで立ち上がる。
「言い忘れていましたが、あの魔物は視界に入った獲物をまっすぐ追いかけてくるので、こちらもまっすぐ距離を取り続ければ撒けますよ」
「うそ、マジ? オレ初めて知ったわ」
「貴方その調子でよく他のギルド助けようなんて言えましたね。……では私たちはこれで」
「え、あっハイ。さようなら……」
にこやかに手を振って去っていく二人を、『カレイドスコープ』は訳も分からないままに見送った。辺りが急激に静まり返る。湿った静寂で満ちた森の中に取り残された一行は顔を見合わせ、そして誰からともなく頷き合うとそっと荷物からアリアドネの糸を取り出した。
「……『ルナリアの結界を解け』?」
「大仰に言ってはいるけれど、実際は魔物の討伐任務と同じものと思ってくれて構わないよ」
ミッションを発令した本人にそう言われても、一行の表情は晴れなかった。受け取った資料をまじまじと眺め、内容を詳しく確認する。
迷宮を脱出した『カレイドスコープ』は、ひとまず『ヴォルドゥニュイ』の二人に言われたとおりアイオリス評議会へと向かった。あのような遠回しな物言いをされてしまっては一体何があるのか気になって仕方がないし、そもそも危機的状況から救ってもらっておいて頼みを無視するというのもばつが悪い。話とやらの内容はともあれ、とりあえず聞くだけ聞きに行ってみよう……という訳で、やって来たはいいのだが。
「ええと。つまり……このゴーレムというものを倒さないと、迷宮の五階から先には進めないと?」
「平たく言えば、そうなるね」
穏やかな口調でエールの問いに答えるのは評議会を取り仕切る四大種族の代表のひとり、アースラン王族のレムスだ。当初は高貴な身分の彼が冒険者たちと世間話をする姿に面食らったものだが、今となってはすっかり慣れたものである。
苦笑にも似た曖昧な笑みを浮かべ、レムスは続ける。
「実を言うと、迷宮の五階から先に進む道も既に見つかってはいるんだ。ルナリアの術師が張った結界も随分弱まっていて、誰にでも解けるようなものしか残っていない」
君たちにもいくつか覚えがあるだろう、と問われて思い出すのは、三階へ繋がる階段を隠していたあの石壁の仕掛けだ。不自然に思われた仕掛けも、古代の大戦が再び繰り返されないようにという意図で設置されたものが長い時を経て弱まり、ケイナのひと押しで解けてしまう程度の封印と化してしまった……というなら、何となく納得がいく。
「だが、封印の守護者……ゴーレムは未だ健在でね。何度倒しても再生し、迷宮を侵そうとする者の行く手を阻むんだ。もっとも、こちらも以前と比べると随分と弱体化しているようだけど」
「これってミッションを受けたギルドだけで倒さなきゃいけないんですか? 他の冒険者と協力したりは?」
「そうだね……事前に協力する旨を申し出てくれれば構わないけれど。でもお勧めはしないかな。評議会から出せる褒賞の額は限られているからね」
「うーん、確かにお金が絡むとなると……」
「このミッションは、認定試験とは違って必ず受けなければいけないというものではない。もちろん引き受けてくれれば助かるけれど、無理に挑んで君たちに取り返しのつかない事が起こってしまってはいけないからね」
レムスの表情は気遣わしげだ。それも当然だろう、『カレイドスコープ』はついこの間までメンバー探しにも苦労していたようなぺーぺーの新人だ。いきなり強敵の討伐を任されるには経験をはじめとした様々なものが足りていない。
後ろで興味なさげに調度品の彫刻を眺めていたリズが、マリウスの袖を軽く引く。どうやらお疲れであるらしい。マリウスは困った表情で頬を掻くと、ミッションの内容と評議会の押印がなされた紙をレムスに返した。
「もう少し考えさせていただきます」
「うん、よく考えて決めるといい」
資料を受け取ったレムスの表情は穏やかだ。恐らく彼も『カレイドスコープ』がミッションを受けるとは思っていなかったのだろう。そのまま軽く会釈して評議会の建物を出た一行は、各々どこか疲れた顔で伸びをした。やはり、結論を先伸ばしにして正解だった。魔物に追い回されて疲れているような状態で進退に関わるような決断をしてしまえば、後々必ず後悔する。
「もう宿に帰りましょう。僕お腹減りましたよ……」
「そうですねえ。晩ご飯は何にしましょうか」
「ケイナがお肉たべたいって」
「ええ!? い、いやその」
「あれ、もしかしてお魚よりお肉がお好きなんですか? なあんだ、わたしお魚が好きだと勘違いしちゃってました!」
「あ、えーと……うん。魚も食べるけど……肉の方が好きかな……」
どこか安心したような表情で応えるケイナを横目に見て、マリウスはほっと胸を撫で下ろした。どうやらこれでしばらく樹海魚ばかりが並ぶ食卓は避けられそうだ。
評議会からジェネッタの宿まではそう離れていない。他愛ない会話を繰り返しているうちに、いつの間にかもう一本通りを抜ければ辿り着くというところまで来ていた。近所の飲食店から漂ってくるいい匂いに空腹がいっそう強まるのを感じながら最後の角を曲がる……と、そこで五人は道路の端に見慣れないものがある事に気付いた。馬車である。それも多くの冒険者たちが乗り合わせてアイオリスまでやって来るような安い馬車ではなく、身なりの整った御者が操る、貴人が移動に使うような馬車だ。冒険者の宿には似つかわしくないそれが、何故かジェネッタの宿の目の前に停まっている。
「何なんだろう、あれ……?」
「さあ……」
「お客さまが来ているのかもしれませんね。お邪魔になってもいけませんし、静かに入りましょう」
エールがそう言って真っ先に玄関扉に手をかける。いつもより慎重な手つきで戸を押して室内に入れば、いつになく慌てた様子でエントランスをうろつくジェネッタの姿が目に入った。頭上の長い耳を忙しなく揺らして何事か唸りながら歩き回っていた看板娘は、エールの存在に気付くとああーっと声を上げて彼女の元へ飛んでくる。
「お客さん! やっとお帰りですか! ウチずっと待ってたんですよう! それはもう、耳をながーくして!」
「ええと、どうしたんですか……?」
「お客さんたちにお客さんがいらっしゃってるんです。……あ! お客さんっていうのはここに泊まってらっしゃる方ではなくて、えーと、お客さんに会いに来られた方って意味です」
お客さん。エールは目を丸くしてすぐ後ろにいたエスメラルダを見た。もしや、先程の馬車の主の事だろうか? 次いで更に後ろにいたケイナとリズにも視線をやるが、どちらもまったく身に覚えがないという顔をしている。それはそうだろう。貴人の知り合いなどそうそういるものではない――そう思いながら最後尾のマリウスに目を向けたところで、エールは思わず目を瞬かせた。普段から色の白い竜騎士の頬が、何故か殊更に色を失っている。
「あの、マリウスさん。大丈夫ですか? お顔の色が……」
「――あ! お客さあん! 『カレイドスコープ』さんが帰ってこられましたよ~!」
エールの問いはジェネッタの明るい声で掻き消された。正面に向き直ってみれば、エントランスの奥から見知らぬアースラン女性がひとり、こちらに向かって歩いてくるのが見える。やはりそれなりに高い身分にある者らしく、傍目に見ても上等なドレスを纏っているのが分かった。その顔に見覚えは無い。
高い踵を鳴らしながら一歩一歩踏みしめるように歩いてきた女性は、通り過ぎざまにジェネッタに会釈をするとそっと足を止めた。玄関先で立ち尽くす五人を見回し、静かに口を開く。
「こんなところに居たとはな。随分捜したぞ――マリウス」
え、と思ったエールが振り向くと、他の三人も同じように後ろに立つ彼へ視線を送っていた。いよいよ血の気の失せきった顔で棒立ちになっていたマリウスは、ごくりと喉を鳴らすと出ないものを無理やり絞り出すかのような様子で震える唇を開く。
「あ……姉上……」
驚きの声すらなかった。張り詰めたような沈黙の中、もう一度女性に目をやる。整ったかんばせが怒りか呆れか、もしくはそのどちらでもない感情で僅かに歪んでいる。彼女の腰まで伸びた艶やかな髪は、よくよく見てみれば確かにマリウスのそれと似た色をしていた。
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