【SQ5】4 姉と弟とザリガニと

「申し遅れた。私の名はジュディス・ロザンタール。マリウスの姉だ。弟が世話になっている」

 と、予想以上に丁寧な仕草で頭を下げた女性に、エールも思わず頭を下げ返した。背後でケイナとエスメラルダが困惑している気配をありありと感じる。

 ひとつ呼吸を置き、ジュディスは顔面蒼白で立ち尽くすマリウスに向き直る。

「書き置きひとつ残して出奔とは……お前にしては大それた事をしでかしたものだ。だが捜すなと言われて素直に従う私ではない事など、お前も分かっていただろう。……一体どういうつもりだ?」

「……、……」

「冒険者を軽んじるつもりは無い。だが、お前がわざわざこんな事(・・・・)をする意味が分からない。どうなんだマリウス」

 初めこそ落ち着いていた声が、言葉を重ねるにつれて徐々に険しさを増していく。マリウスはしばし壮絶な表情のまま黙り込んでいた。少し離れた場所で事の成り行きを見守っていたジェネッタが、あ、ニワトリさんにご飯あげないと、と呑気な声で呟いて部屋を出ていく。軽やかな足音が遠ざかって完全に聞こえなくなった頃に、ようやくマリウスの唇が動く。

「ど、」

 ひとつめの音は上擦って掠れていた。息を吸い直し、努めて表情を取り繕って彼は答える。

「どうであろうと、私は今こうしてギルドを組み、迷宮に挑んでいます。姉上が何と仰ろうが屋敷には帰りません」

「……そうはいかない。お前が領内からいなくなる事が何を意味するのか、分かっているのか?」

「ですから例の猛獣騒ぎの件も片づけてから出てきたでしょう。私がおらずとも騎士団は務めを果たします」

 やや語調の強いマリウスの返答にジュディスの眉が盛大にしかめられた。反論に反論を重ねた応酬に終着点は見えない。半ば姉弟喧嘩といっても差し支えないやりとりを横目に、エールは隣にいたエスメラルダの肩をちょんちょんとつついた。振り向いた彼の顔色が妙に悪い事に疑問を覚えつつ、身を屈めて小さな声で話しかける。

「猛獣って、わたしたちがやっつけたマッドドッグの事ですよね」

「あー……うん、あのさ。エールさんは知らないと思うけど……あの森の周りに麦畑とかいっぱいあったの覚えてる?」

「? はい。とっても広くて豊かな農地でしたね」

「あの辺り一帯が「ロザンタール領」だよ……」

 その言葉にエールも閉口した。なるほど、「領」。という事はジュディスの姓を冠した土地が存在しているという事で、すなわち彼女はいわゆる領主の家系に連なる人物であるという事で、つまりその弟であるマリウスもまた、そうであるという事だ。エールはエスメラルダの顔をまじまじと見た。恐らく今の自分の顔にも彼と同じような表情が浮かんでいる筈である。

 そうしている間にいよいよ出てくる言葉も無くなったらしい。ジュディスが疲れの滲む表情で額に手を当て、長い溜息を吐き出す。

「何故だ、マリー……」

 マリウスの肩が揺れた。いたたまれない表情で俯く彼に、姉は苦々しい口調で続ける。

「私はなにもお前の自由を奪いたい訳ではない。騎士として経験を積みたいなら王都でも辺境でもどこへでも伝手を辿ってやるし、見聞を広めたいなら好きな場所へ留学に行かせてやる。何故よりにもよって、世界樹などを……」

「…………」

「マリー」

 返事は無い。終始おろおろとしながら一連の事態を見ていたケイナが、何故か自分の事かのように沈痛な面持ちで耳を伏せた。重苦しい空気が静まり返ったエントランスに満ちている。隣のエスメラルダが小さく咳き込む音を聞きながら、エールも襟元を押さえて喉の奥だけで唸った。こんな状況では仕方ない事かもしれないが、どことない息苦しさすら感じる。

 マリウスは石のように黙ったまま何も言わない。痺れを切らしたジュディスが再び口を開こうとした、その時だった。

「その辺にしときな、お嬢」

 ジュディスの表情が殊更に曇る。エールたちが耳慣れない低い声に驚いて辺りを見回せば、先程ジュディスが出てきた奥の客間からブラニー族らしき人物がひょこひょこと歩いてきているところだった。声からして壮年の男性だろうか、長い前髪で目許を隠したそのブラニーは、ジュディスの傍で足を止めるとそっとマリウスを仰ぎ見た。

「坊ちゃんよ、強情は良くないな。そんなに世界樹にこだわるなら、理由くらい教えてくれたって良いだろう?」

「小父上……」

「それとそっちのも。すまんね、見苦しいものを見せてしまって」

 急に話を振られ、傍観者三人――リズは姉弟のやりとりに興味を失ったのか、玄関先の植え込みをぼんやり眺めている――はぶんぶんと首を横に振った。ブラニーの男性は肩を竦めて小さく笑う。

 姉のそれよりも優しい調子で促されてもなお、マリウスはだんまりを決め込んでいた。店の裏でジェネッタがニワトリたちと戯れているのだろうか、遠くから鈴を転がすような笑い声とニワトリの鳴き声が微かに聞こえてくる。幸いにも宿に人の出入りは無かったが、事の成り行きを見守る三人は気が気でなかった。公共の場での修羅場など、できる事ならば経験したくなかった事態だ。

 沈黙は実際の時間よりも随分と長く続いたように感じられた。やがて静寂を振り払うように溜息を響かせたのはジュディスで、俯いていたマリウスの肩はびくりと跳ねる。

「では、こうしよう。アイオリス評議会からミッションなるものが発令されているらしいな。なんでも樹海の強敵を倒し、上層へ進む道を確保せよとの事であるとか」

「お嬢」

「小父上、口を挟まないでください。……本当に冒険者として迷宮探索を続けるつもりなら、そのミッションを完遂してくるがいい。理由を語れないと言うのならば私を納得させるだけの実力を示してみせろ」

「あ……姉上」

「話は以上だ。私は宿へ戻る」

 有無を言わせない口調でそう言い切ると、ジュディスは玄関に向かって歩き出す。その途中、エールたちとすれ違う寸前で彼女はふと足を止めると、僅かに抑えた声で告げた。

「巻き込んですまない。……失礼する」

 ……去っていくアースランの女と、慌ててその後を追うブラニーの男を、一行は呆気に取られたまま見つめた。遠くから聞こえるジェネッタの微かな笑い声と、通りの喧騒だけが辺りに響く。やがて両手で顔を覆ったマリウスが悲痛な呻きと共に膝から崩れ落ちるまで、沈黙ばかりが明るいエントランスを支配していた。


     ◆


 ロザンタール家は比較的新興の貴族であった。元々狭い地域で商いをする商人の家系であったところを、ジュディスとマリウスの曽祖父が事業を拡大させていわゆる成金となり、いつしか現在のロザンタール領一帯に影響力を持つ商家となるまでに成長した。一族の転機は当時の領主一族が不慮の事故により断絶した事件である。こちらは歴史ある貴族の家系ではあったが近年は衰勢著しく、頼りにできるほどの血縁も無い。新たな領主を立てなければならなくなった際、外から遣わされた貴族を拒んだ領民たちが擁立したのが、商家のみならず地主としても成功を収め、また領内で広く顔の知られたロザンタール家だったのである。

 そしてその領主の家系において現在当主を務めているのがジュディスであり、弟のマリウスもまた、領内を守る騎士団の要職に就いた高位の竜騎士である、というわけだった。

「じゃあ僕らと一緒にマッドドッグ退治をしたのも任務の一環で?」

 というエスメラルダの問いに、マリウスは首を横に振った。

「任務ではなかった。領内で農民や旅人が獣に襲われる事件が多発していて、かといって騎士団を動かすには議会の承認が必要で……。これ以上被害が出るのも見過ごせなかったから、個人で動けばある程度は融通が利くと思って」

「それで、わたしを助けたんですか?」

「それは偶然だ。お医者様が薬草採りの事を頼んできたのも偶然で、なんというか、たまたま居合わせた割には都合が良いというか、渡りに船だったんだ」

 と、そこまで言ってマリウスは盛大な溜息を吐く。

「そのしっぺ返しを、今食らっている訳だが」

 そう言ってマリウスは天を仰ぐ。頭上の緑からこぼれ落ちた木漏れ日が彼の表情を斑に照らし、清浄な空気を運ぶ風が一陣、音もなく辺りを吹き抜けていった。

 『カレイドスコープ』が現在探索を行っているのは迷宮の四階だ。先日の出来事のおかげで評議会のミッションを受領せざるを得なくなってしまった一行は、あれから急いで三階の探索を終えて次の階まで上がってきた。というのも第二階層への道が閉鎖されてしまっている現状は評議会にとっても相当の痛手らしく、可能ならばできる限り早くゴーレムを討伐してもらいたい、との事だったのである。新人ギルドにその仕打ちは酷ではないかと思わなくもないが、レムスから直々に頭を下げられてしまってはもう何も言う事はできなかった。『カレイドスコープ』は基本的に押しに弱いギルドなのである。

「本当は私ひとりで解決するべき問題だとは分かっているんだが……すまない」

「それ何回も聞きましたよ」

「そうです、気にしないでください! どちらにせよはやく先に進むためには誰かがゴーレムを倒さないといけない訳ですし、腕試しのようなものと思いましょう。ねっ!」

「え、あ……うん……?」

 常と変わらない明るさで言い切るエールと急に話を振られて曖昧に頷く事しかできないケイナを、マリウスは困った表情で見た。彼がそのまま何も言葉を発しないのを確かめたエスメラルダが、それにしても、と溜息混じりに呟く。

「どうしてお姉さんに黙って家を出たんですか? 僕でも流石に実家の親に連絡くらいはしましたよ」

「それは……」

 マリウスは視線を彷徨わせ、しばし口ごもった。が、エスメラルダの視線に堪えかねたのかやがて観念した様子でうなだれ、弱々しい声で答える。

「絶対に反対されるから……」

「ああ……」

「姉上は怒らせると怖いんだ。でも私は怒られ慣れていないから……そんな事になったら何を言われるかと恐ろしくて恐ろしくて……」

「厳しいお姉さまなんですね。ミッションの件も、なんだかわたしたちを試しているようですし」

「……いいや、姉上はお優しい」

 返った言葉は今までのそれよりもいっそう弱々しくか細い。エールがどういう事かと首を傾げれば、マリウスは深く俯いたまま、微かに震えた声でぽつりとこぼす。

「あのひとは、何故だとは問うても、お前には無理だとは絶対に言わないんだ……」

 さめざめと泣いているようにも、力無く笑っているようにも聞こえる声色だった。他の面々が思わず黙り込めば、辺りには涼やかな水音と微かな木々のざわめきばかりが満ちる。世界樹の封印を司る鎮守の森はいつもと変わらず美しい。迷宮を踏み荒らす冒険者たちの胸の内など、知った事ではないとでもいうかのように。

 沈黙を破ったのは、それまでずっと静かについて来ていたリズだった。彼女は常のごとく無遠慮にマリウスの袖を引くとのんびりとした調子で問う。

「マリーって、マリウスのこと?」

「え?」

 脈絡のない質問に、問いかけられたマリウスは弾かれたように顔を上げてしばし硬直した。が、すぐにその意図を察したらしい。小さく苦笑し、視線を逸らしながら答える。

「ああ……小さい頃のあだ名だよ。今はもう姉上くらいしか呼ばないが……」

「リズも呼んでいい?」

「それは……別に、構わないが」

「やった」

 リズはぴょんと跳ねて喜ぶ。そのままご機嫌な足取りで先頭へ飛び出していく彼女の背をケイナが慌てて追った。残されたマリウスがゆっくりと二人の後に続くのをエールとエスメラルダは渋い顔で見つめ、互いに顔を見合わせてから歩き出す。


     ◆


 迷宮四階は巨大な赤いザリガニが闊歩する空間だ。いわゆるF.O.Eと呼ばれる、迷宮に棲息する魔物の中でも特に強力な種だが、幸いこのザリガニには下階の熊もどきとは違い冒険者を追い回そうという気は無いようである。縄張りをぐるぐると徘徊する甲殻類を横目に水場の狭間を通り抜け、先へと進んでいく。

 あっと声を上げたエールが突然立ち上がったのは、水辺に腰を下ろして休息を取っていた時の事だった。彼女は道中で衛兵に貰った干し魚を口に放り込み、足元に転がっていた小石を拾い上げると、目の前に広がる水面に向かっておもむろに放り投げる。小石は水の上を三度、四度と跳ねると小さな音を立てて沈んでいった。エールは残念そうな声を漏らして再びしゃがみ込む。

「あれえ……もっと薄い方がうまくいくかしら」

「……何してるんですか?」

「あれ、ご存じありませんか? 水切りです!」

「ミズキリ」

 怪訝な表情で復唱するエスメラルダを横目に見てマリウスが苦笑する。

「それ、アースラン特有の遊びらしいぞ」

「そうなんですか!? 水面に石を投げて何回跳ねるか競うんです。楽しいですよ」

「どうやるの?」

 寄ってきたリズに、エールは笑顔で石を渡すとよく跳ぶ投げ方を教え始める。コツは石そのものに回転を加えながら投げる事であるらしい。むん! と振りかぶって言われた通りに投げたリズだったが、着水した石は一度も跳ねずに水底へ沈んでいった。ぱちくりと目を瞬かせたリズは首を傾げて呟く。

「たのしくない」

「そ、そんな……」

「これを投げればいいのか……?」

 興味を失くしたリズがエスメラルダの元へ駆けていくのと同時にケイナがおずおずと拾い上げた石を見て、エールはぐっと親指を上げる。ケイナは水面とエールとを何度か見比べ、リズのそれより格段に力強い構えを取ると、勢いよく腕を振り抜いた。重い風圧が隣に立っていたエールの髪を揺らす。エスメラルダが咄嗟に鞄を抱えて背を丸め、マリウスは重砲をコートの下に隠す。瞬間、すさまじい音と共に水柱が立った。

 降り注ぐ水滴を頭から被りながら、ケイナも先程のリズと同じように首を傾げる。

「本当にこういう遊びなのか?」

「いや……ちょっと違いますけど……」

 やっぱりアースラン以外には難しいんでしょうか……と神妙に呟くエールを見て、ケイナが慌ててもう一度小石を手に取る――瞬間、いまだ衝撃の余韻が残る水面に大きな波が立った。

 呆気に取られる一行の目の前で、水中から浮上してきた影が飛沫を上げながら姿を現す。ザリガニである。ただのザリガニではない。一般アースラン男性と同程度かそれ以上の身の丈を持つ、巨大な赤いザリガニである。その頭部、硬い装甲に覆われた脳天に、ヒビが入っている。その傷を見て脳裏に先程ケイナが叩き込んだ小石が思い浮かぶ。

 きちきちと辺りに鳴り響くのは鋏の音だ。威嚇されている――つまり、敵意を持たれている。

「てっ、敵襲!!」

 弾かれるように立ち上がって盾を構えたマリウスが叫ぶ。エールが剣を抜き、振り下ろされた鋏の一撃を寸前でいなした。攻撃後の隙を突いて例のごとく己のやらかしに青い顔をしたケイナが鋏の根本に刃を走らせる……が、浅い。

「か、硬……っ」

「リズさん! お願いします!」

「はーい」

 呑気な返事と共にリズが棺を弄り始める。刻まれた術式を素人目には一切分からない手順で発動させれば、ぼんやりとした人型の黒い影がどこからともなく躍り出て召喚者の敵へ飛びかかった。死霊の攻撃を受けたザリガニの動きがにわかに鈍る。その間に弾の装填を終えたマリウスが素早く狙いをつけて引き金をひく。破裂音と共に放たれた弾丸はまっすぐに飛んでいき、頭部の殻に走ったヒビを寸分違わず穿った。

 苦痛に悶えるように振り回された鋏をかわし、ケイナが地を蹴って死角へ潜り込む。全身を覆う厚い装甲は斬撃や刺突を容易に通さない。が、完全な防御を誇る装甲も剥いでしまえばそれまでだ。関節の隙間に刀を捻じ込み、力ずくで拡げていく。艶めいた巨体が仰け反った。

「来ます!」

 エールが鋭く叫ぶ。一歩前に出たマリウスが盾を構えた……が、大きく振るわれた鋏と共に放たれた冷気は盾の守りを越えて周囲一帯の空気を瞬く間に凍てつかせる。余波を受けた死霊が掻き消えた。体勢を崩したエールをマリウスが片腕で支えて背後へ下げる。手当てはエスメラルダに任せ、もう一度弾丸を放った。「バラージウォール」だ。牽制を主目的とする散弾は破壊力こそ心許ないが、拡散する弾丸は攻撃の手を鈍らせるには十分な効果を発揮する。先程より幾分か軽い鋏を盾で受け止めつつ隙を作る。

 再召喚を終えたリズが死霊を魔物の懐へ向かわせる。ケイナが剥いだ装甲の隙間にしがみついた死霊は一瞬にしてその身を魔力の塊に変えると、炎と光を放ちながら爆ぜた。炎爆弾の熱に焼かれて強度を失った鋏をケイナが一刀の下に斬り落とす。直後、得物を失って隙だらけになった右方から駆け込んだエールがザリガニの頭部を顎の下から突き上げるように貫いた。

 赤い体が地面に倒れ伏す。しばしもがいていたザリガニがやがて動かなくなった事を確かめ、一行はようやく肩の力を抜いた。剣に付着した魔物の体液を振り落としながらエールが胸に手を当ててほうと息を吐く。

「び、びっくりしたあ……水の中にいたんですね……」

「う……うう……ごめ……」

 ケイナが今にも倒れそうな表情で身を縮める。彼の「やらかし」もいよいよ恒例行事となってきたところだ。誰かがフォローを入れるより先に、リズが切り落とされた鋏を抱えてケイナへぐいと押しつける。

「見て。かっこいい」

「え……? そうかな……」

「鋏が格好良いかはともかく、高く売れそうではあるね。F.O.Eの鋏なわけだし」

 鋏の表面を拳で叩きながらエスメラルダが言う。ケイナは所在無げに視線を彷徨わせ、ぺたんと耳を伏せた。重砲と銃弾の確認を終えたマリウスが彼の様子を気にしつつもザリガニの死骸にナイフを入れて使い物になりそうな素材を剥ぎ始めた。頭頂部にヒビこそ入ってしまっているが、上半身を覆う装甲は軽くて頑丈なようであるし、装備品の原料か何かに使えそうだ。エスメラルダの言う通り、きっと高く売れるだろう。

 ……それにしても、どうして戦闘となるとこう上手くいくのだろう。ケイナも不器用なわりに刀の扱いを間違えているところは見た事が無いし、普段何を考えているのかよく分からないリズも戦闘中は先程のような機転の利いた判断を下す事がままあるし、これが才能というやつだろうか。

 と、そこまで考えてマリウスは溜息をひとつ吐いた。引き剝がした甲殻を抱え、ぽつりと呟く。

「私も頑張らないとな……」

「はい! 頑張りましょうね!」

「うおお!?」

 唐突な同意に思わず仰け反る。バランスを崩して転びかけたのを寸前で堪えて振り返れば、そこにいるのは満面の笑みを浮かべたエールだ。

「このFOEも倒せましたし、きっとゴーレム討伐もなんとかなりますよ。このまま突き進んで、マリウスさんのお姉さまにわたしたちの実力をお見せしちゃいましょう。わたしも気合い入れて戦います!」

「あ、ああ……ありがとう……?」

 ふんす! と鼻息荒く意気込むエールにいったいどうしてそんなに張り切っているのかと首を傾げつつ、マリウスは改めて戦利品を抱え直すと立ち上がった。倒した魔物の側に居続けるのはよろしくない。血肉の匂いにつられて新たな魔物がやって来る前に移動すべきだろう。

 ぷりぷりとした中身が剥き出しになったザリガニの成れの果てを水辺の際に寄せ、一行は荷物をまとめてその場を去っていく。ゴーレムがいるという五階まで、恐らくあと少しだ。


     ◆


 高台に位置する上等な宿の一室で、ジュディスはベッドに腰かけたまま窓の外をじっと眺めていた。ガラスの向こうには鮮やかな赤い屋根が立ち並ぶ美しい景色が広がっているが、彼女の目に映るはそれらではなく、家々の隙間を縫うように這う巨大な世界樹の根だ。この街のあらゆる事物は世界樹を中心に造られている。ともすれば邪魔にも思えるあの根すら、住居の骨子や橋梁の土台として利用されているのだ。他の土地で生活していれば恐らく一生目にする事のない風景だろう。それ自体には素直に感動せざるを得ない……が。

 はあ、と息をひとつ吐いて立ち上がる。窓を開ければ涼やかな風が部屋を吹き渡った。緑の匂いが濃い。眼下の通りを冒険者らしき集団が歩いているのが見える。今頃弟たちも、彼らのように探索へ向かっているのだろうか。危険な魔物が蔓延る迷宮で自らを血に濡らし歩いているのだろうか。そう考えると思わず眉間にシワが寄るのを感じた。悪い衝動が湧き上がる。

 はっとして窓を閉めたその瞬間、ジュディスの足下から黒い霧が噴き出した。渦を巻いて自身を取り囲むそれを彼女は鬱陶しげに振り払う。瞬く間に霧散して消えていく黒を睨みつけながら、もう一度窓の外へ目をやった。

 ジュディスは世界樹の迷宮が好きではない。否、好き嫌い以前にもっと本能的な感覚が、あの大樹への曖昧な嫌悪感を意識させる。迷宮を進んで上を目指すなど正気ではない――マリウスをあの場所に行かせてはならない。

 感じるのだ。遙か天を衝く幹の向こうに、今しがた己から湧き出した「悪いもの」と同じなにかを。

 だが、冒険者たちは危険を冒して世界樹へと向かっていく。先人たちの屍を踏み越えて、死の恐怖に怯えながらも。未踏の迷宮の向こう側にある何かを……権力か、知恵か、武力か、富か、はたまたそのいずれでもない価値あるものを求めて。

「……お前の望みは何なんだ、マリー……」

 呟く声に応えるものはいない。窓枠を撫でる指先から淡い黒が滲み、そして消えた。

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