風上に暗雲

アイスマンは憂鬱だった。じっとりした空気が頬に貼りつくような感覚に、彼はうんざりしたように頭を振る。普段より幾分か重く感じられるファーが視界の端でフワフワと揺れ、その動きすら何だか癪に障った。考えるまでもなく、ストレスが溜まっている。かなり。だいぶ。


 というのも、ここのところ停滞し続けている前線の影響でこの辺りの地域は雨の日が続いているのである。アイスマンは湿気が苦手だ。彼の元々の職場である南極は湿気のしの字も無い乾燥地帯であったし、現在の職場も冷凍庫の中なので湿り気を感じる機会はほとんど無い。こんなじっとりした空気を感じるのは労働に従事していない時だけだ。こんなことならもっと働いとけば良かった──柄にもなくそう思う程度には、彼は近頃の天気に対して鬱憤を溜めていたのである。


 だがどれだけ鬱憤が溜まったとしても、ただの寒冷所作業用ロボットである彼には天気をどうこうする力はない。ただ渋~い顔をして耐えることしかできないのである。


 とか散々思っていたくせに傘を忘れた。


 アイスマンは絶望的な思いで軒先から垂れる雨を見上げる。そんなことある? 絶対降るから忘れないでねとロックやロールから散々脅されて出てきたのに、そんなまさか。いや、そのまさかをやらかしたのが僕だ馬鹿野郎。天下の純ライト製ロボットが天気予報を見て傘を持ち出すことすらできないのか。あ~っ冷凍庫があったら入りたい! ばーか!


 彼は今、規定の労働を終えて実家であるライト研究所へと帰る、その帰路の途上にある。普段は職場で寝泊まりしている彼だが、今日に限ってはまとまった休みが取れたため研究所に帰省することにしていたのだ。そうしたらこのざまである。ひとまず雨宿りできる場所──休業中の飲食店の軒下だ──を確保することには成功したが、ここから研究所までは徒歩で移動せざるを得ない。ロボット用タクシーを呼ぶという手もあるが、どうせこんな雨の日には誰でも同じことを考えるだろう。


 ざあざあと音を立てて、雨は降り続いている。研究所に連絡を入れて助けを求めてもいいが、それでもし兄や姉に歩いて迎えに来させでもしてしまったら申し訳ない。


 でも背に腹は代えられないよなあ……都合よくトルネードマンが帰ってきてて僕の頭上の雨だけ吹き飛ばしたりしてくれないかなあ……などと、アイスマンがいよいよ無意味な妄想をし始めた、その時であった。


「せ~んぱいっ。奇遇ですねっ」

「ウワアーッ!」


 突如背後から聞こえてきた、無理して絞り出したような甲高い声にアイスマンは思わず悲鳴を上げる。そんな音割れした声の後輩がいた記憶はない。特殊武器の使用も辞さない構えを取りながら振り返ったが、予想に反してそこにいたのは見知った姿だった。


「……なんだフリーズマンか……」

「驚きましたか。このあいだアニメで見た後輩キャラクターを参考に声をかけたんですが」

「二度とやらないで。君は主人公を慕う後輩のヒロインにはなれないから」


 切り捨てるように告げればフリーズマンはしゅんと肩を落としてこちらへ近付いてくる。彼は一般警備ロボットが身につける制服を模した衣類を身にまとい、片手に無骨な黒い傘を持っていた。恐らく人間用であろうそれを丁重な手付きで閉じ、水滴を払い落としながらでっかい後輩はアイスマンの隣に並ぶ。アイスマンは彼を見上げて慎重に訊ねる。


「どうしてこんなところに?」

「任務です。……襲撃とかではないので、ご心配なく」

「本当に? でもなー、ワイリーナンバーズの言うことだからなあ」

「正直俺もヒヤヒヤしています、こんな近くまで来てしまって。ちょうど、そっちの」


 と、フリーズマンは言葉を切って傘を掲げる。先端が向いたのは研究所がある方向だ。


「道路を六〇メートルほど行ったあたりが、境界です。そこから先に入るとライト研究所の警戒網に引っかかる」

「へー。もう少し警備システムの範囲拡げたほうがいいですよって博士に言っとこ」

「困ります」

「こっちも君らに困らされてるんだよ」

「それもそうですね」


 などと、あっけらかんとした様子で戦闘用は頷く。アイスマンは肩をすくめた。このロボットはだいたいいつでもこうである。


 ワイリーナンバーズのくせに自分を先輩と呼んでやたら絡んでくるロボットとまともに話をするようになってから、それなりの時間が経つ。その間にも世界征服作戦はあったし、その度に交流は途切れたが、作戦が失敗に終わればフリーズマンはまた何食わぬ顔で訪ねてくるようになったのでアイスマンもすっかり慣れてしまった。いや、慣れるべきではないのは分かっているのだが。


 とにかくこの奇特な戦闘用ロボットは、立場の違いはありつつもアイスマンにしばしば会いにくるし、アイスマンもまた彼のことを追い返しはしない。二機はそういう関係なのである。今のところは。


 しかし、任務とは。アイスマンはフリーズマンの言葉の意味を深く考えようとして、止めた。代わりに彼の手の中にある傘を指さす。


「それ、君の?」

「いいえ。基地から勝手に取ってきました。たぶん弟機が持ち込んだやつです」

「弟機の傘盗むなよ」

「あいつらのものは俺のものなので」

「横暴だな~」


 ライトナンバーズでは考えられない治安の悪さである。ワイリーナンバーズの関係性はいったいどうなっているのか。こわいなあ。と思いながらアイスマンは何とはなしにフードのファーを触った。湿気のせいでしっとりしている。


「……そういえば先輩、雨宿りをしているようですが、雨具はどこに?」

「ぎくっ」

「今ぎくって言いました?」

「言ってないよ」

「そうですか……」


 アイスマンは目を逸らした。明らかに視線が泳いでいる彼を横目に見つつ、少し間を置いてフリーズマンは口を開く。


「もしかして傘を忘れたんですか?」

「ぎっぎくーっ」

「今ぎっぎくーって言いました?」

「言ってないよ」

「そうですか……」


 雨はしとしと降り続いており、しばらく止みそうにない。本当ならここで素直に困っていることを打ち明けて、傘買ってきてくれない? と頼むのが正解なのだろうが、アイスマンはそれができなかった。何故なら彼は先輩なので。それなりの意地があるのである。


 全力で顔を背け続けるアイスマンの丸い頬をしばし見つめていたフリーズマンだったが、やがてふと思い立ったように手元の傘に目を落とす。そしてひとつ頷くと握っていた柄をそのままアイスマンへと差し出した。


「よければ使ってください」

「え! ……いいの?」

「はい。お困りのようなので、どうぞ」


 などと、平然と言うが、彼はつい先程この傘が弟機のものであることに言及したばかりだ。いくら身内とはいえ勝手に他のロボットに渡したりして問題ないのだろうか。アイスマンが問えば、フリーズマンは大丈夫です、と返す。


「どうせ勿体ないからという理由で使いもしないものばかり拾ってきては溜め込んでいる倉庫の面積食い野郎のやつなので。自分で持っていても使わないのだから、必要としているひとの手に渡した方が良いでしょう」

「そ、そう……」


 アイスマンは気圧されつつ頷く。このロボットは自分に対してはかしこまった様子を見せるが、こと身内の話になると急減に口が回るのだ。主に罵倒の方向で。


 色々と気になることはあるが、まあ本人が大丈夫と言っているのだから別にいいだろう。そう判断して、アイスマンは差し出された傘を受け取る。自分から助けを求めるのはなんだか恥ずかしくて嫌だが、後輩が勝手に助けてくれる分にはまったく構わないのである。アイスマンは、そういう図太いところがあるロボットだった。


 受け取った傘は何の装飾もなくシンプルな造りをしている。よく見れば骨は僅かに錆びており、生地もところどころ擦り切れているようだ。おまけに大きくて重たいので小柄なアイスマンが持つとバランスが危うい。危うく文句を言いかけそうになったが、流石にやめておいた。受け取った好意に文句を返すのは非常識である。


「ありがと。本当は傘がなくて困ってたんだ」

「お役に立てて嬉しいです」

「……でも、君はどうするの? 折り畳みのやつとか持ってるの?」


 フリーズマンはすぐには答えず、少しの間黙ってアイスマンを見つめていた。アイスマンもまた怪訝に彼を見つめ返す。どこか遠くで大型車両が水飛沫を上げながら走り去っていく音。一時弱まっていた雨が、再び勢いを増して頭上の屋根を叩き始める。


 微かな排気音。フリーズマンが口を開く。


「戦闘用に傘は必要ありません。それを使うのは、顧みるものがある者だけです」


 アイスマンは眉をひそめた。顔の半分がマスクで覆われていることもあってフリーズマンの表情は分かりづらく、その真意も読みにくい。ただ、彼は妙に格好つけたような発言をすることがたまにあったので、今回もそれではないかとアイスマンは思った。……否、そう思いたかっただけかもしれない。


 僅かに、周囲の気温が下がった気がした。


 戦闘用ロボットは一歩踏み出した。雨粒が機体を打ちつける。まだ屋根の下にいるアイスマンを振り返り、彼は静かな声で言う。


「呼び出しがきたので、戻ります。まだ降り続くようですから、気を付けて帰ってくださいね」

「あー……うん。……ねえフリーズマン、あのさあ」


 アイスマンはそこで一度言葉を切った。踵を返して去っていこうとしたフリーズマンは、律儀に足を止めて後に続く言葉を待っている。その様子を見てなんか申し訳ないなあと思ってしまうアイスマンは、頭から爪先まで、徹頭徹尾ライトナンバーズだった。


 答えを分かりきっていながらも、彼はフリーズマンに問う。


「任務、やめてくれない?」


 フリーズマンは僅かに目を丸くしたようだった。驚いた様子でアイスマンを眺め、それから彼はゆっくりと首を横に振る。


「それはできません」

「だよねえ……」


 アイスマンは苦笑する。君らのせいで毎度毎度世界がヤバいだとか、うちの長男が戦う羽目になるだとか、理由はいくらでもあった。だがそれら全てをぶつけたところでフリーズマンの答えは変わるまい。アイスマンと同じように、彼もまた徹頭徹尾ワイリーナンバーズだった。生まれた時は無公害エネルギー研究用だったはずなのに、おかしな話だけれど。


 雨は降り続いている。アイスマンのいる場所は乾いていて、フリーズマンのいる場所は濡れている。屋根に沿うようにして足下のコンクリートに引かれた濃淡が、二機を切り離す境界にも見えた。フリーズマンは小さく笑った。それは尊敬する相手に向ける穏やかな微笑ではなく、いかにも悪のロボットらしい意味深な笑みだった。


「先輩、くれぐれも、気を付けてください。雨はしばらく続きます……家にいたほうが良いですよ」

「あーやだな、僕そういう天気キライなんだ。でも仕事はあるから仕方ないよ」

「そうですか。……ああ……そうだ。傘は、返さなくて大丈夫です」


 そう言い残し、今度こそフリーズマンは踵を返して去っていった。彼の背中が雨で薄く煙った曲がり角の向こうへ消えていくのを見送り、アイスマンは手元の傘をじっと見つめる。何の変哲もない無骨な傘は振り落としきれなかった雨粒に濡れている。


 乾いたコンクリートに点々と染みが落ちている。黒々としたそれを、何気なく踏みつけた。自身の靴跡の形に広がった染みを踏み越え、傘を開いて雨空の下へ歩み出る。



 帰り着いた研究所の空気は慌ただしかった。アイスマンの帰還に真っ先に気付いたのは同じく職場から戻ってきていたファイヤーマンで、彼はプライベート用のハンドパーツをひらりと振ると快活に笑った。


「なんだ遅かったな。雨、大丈夫だったか?」

「何とかなったよ。降ってきた時は絶望したけど……忙しそうだね?」

「うん。ほら、今度あるだろ。健康診断」


 アイスマンは頷く。健康診断とは、正規の手段で製造された全てのロボットが受けることを義務付けられている、年に一度の法定点検のことだ。


「もうそんな時期か。まだ日程出てないよね」

「今それ決めてるとこだ。今年も応募多くて調整に難儀してるらしい。さっきタイムが帰ってきて即駆り出されていった」

「ああ~……」


 なるほどね、とアイスマンは苦笑する。ライト研究所では毎年、ライトナンバーズの健康診断に合わせる形で一般の受診希望者も募っている。その募集に毎度毎度とんでもない量の応募が集まるのだ。可能な限り多くのロボットを受け入れるために四苦八苦しながら日程を調整するのだが、いくらライト博士が天才とだいっても限界というものはある。結果的に抽選の倍率は膨れ上がり、「ライト研究所で健診を受ける権利」は豪運の証しとまで言われるようになる……というのが恒例行事だ。


 まあ、どれだけ応募が増えても自分たちナンバーズは絶対に博士に診てもらえるので、そこは安心である。たいへんだね~と他人事のように言ってソファに腰を下ろしたところで、アイスマンはふとファイヤーマンを振り返る。


「傘って何ごみの日に出せばいい?」

「この辺りだと不燃ごみだ。ウチのごみ置き場に青いコンテナがあるから、そこに突っ込んでおけば明後日の朝に回収される。……なんだ、棄てるのか?」

「うん」


 ファイヤーマンはそれ以上深く訊いてはこなかった。ふーんと頷いて手元のタブレット端末に目を落とす。弟の様子を横目に眺めながら、アイスマンは心に決めた。明日の朝、あの傘をゴミ置き場に持っていこう。玄関先に立てておいたあれを誰かが見つけてしまう前に。


 貰い物を棄てるのはかなり行儀が悪いが、まあ仕方がないだろう。感傷にかまけていつまでも手元に置いておくのは性に合わないし、また会ったときに返すつもりでいるなどと思われるのは、心外なので──まあ、そんなことを思う「誰か」などいやしないので、結局自分が納得できるかできないかの話でしかないのだが。それでもアイスマンは意地を貫くことにした。何故なら彼は、先輩なので。



     ◇



 合流地点には既にメタルマンが戻っていた。物陰に立ち尽くしたまま、何をするでもなく虚空を見つめていた彼は、フリーズマンの接近に気付くと一切の無駄がない動作で顔を上げる。


「首尾は」

「想定通りに。自動防衛システムは厄介だが、複数機でかかれば対処可能と思われる。データを送信する」


 フリーズマンがデータを渡せば、メタルマンは再び動きを止めて内容を確認し始める。


 データの中身はライト研究所周辺の警備システムとその有効範囲についての調査結果だ。立地や他の任務との兼ね合いの都合もあってサーチスネーク等の調査機器が使用できなかったので、わざわざ徒歩で調べたのである。人類史の最先端に位置する技術で造られた存在がこんなアナログな手法で調査など滑稽ではあるが。


 データに目を通し終えたメタルマンが再びフリーズマンを振り返る。どうやら調査結果は実働部隊総指揮官殿のお眼鏡にかなったようだ。


「帰投する」

「了解」


 身を隠しつつ足早にその場を離れる。幸い、天気のお陰もあってか一般人に出くわすことはなかった。予定していた帰投地点には大型車両が一台、さりげない風を装って停車している。


 任務での移動は基本的に商業用トラックに偽装した大型車両で行う。今の時代では下手に空路や海路を使えばすぐに素性を怪しまれて通報されてしまうし、入手難度や維持管理コストも考えると車両移動がいちばん便利なのだ。


 架空の陸運業者の名称が記されたコンテナに乗り込み、フリーズマンはようやくひと息ついた。さて、基地まではどう少なく見積もっても十数時間はかかるが、それまでこのとっつきにくい純戦闘用と同じ空間に閉じ込められて精神が保つだろうか。まあこんなこともあろうかとインストールしておいたマインスイーパのデータがあるので、最悪これで時間を潰そう……と、そこで彼はコンテナの中に置いてある見慣れぬ物体に気付く。


「……傘?」


 そう、傘である。しかしフリーズマンが先程まで持っていたような飾り気のない傘ではない。赤地に白いドットの散った可愛らしいデザインのものである。しかも長さからして子供用だ。こんな悪のロボットの対極に位置しているような物が、なぜここに。

 不思議に思うフリーズマンに、メタルマンの声がかかる。


「任務には関係のない物品だ」

「お前のものなのか?」

「違う」


 それだけ言ってメタルマンは腰を下ろし、運転席の車両操縦用ロボットへ指示を送る。フリーズマンはもう一度傘に目をやる。詳しく突っ込んでみようかと思ったが、やめた。「深淵は距離を取って遠まきに眺めるくらいがちょうどいい」──ロボットをおちょくるのが趣味のかわいくない弟からの、ありがたい諫言である。


 明るい赤を視界から外して、冷たいコンテナの向こう側に意識をやった。まだ降り続いているであろう雨と、身の丈に合わない傘を手に帰路をゆく小柄なロボットの姿を思い描く。


 無事に家へ辿り着けただろうか。そう案じながらも、並行して研究所の防衛網の隙をつくルートを演算してまとめ始める。作戦の準備は順調に進んでいる。


 車が動きだす。大きな揺れを背中と尻に感じながら、フリーズマンはこれからなすべきことをひとつひとつ数えた。今回の作戦では彼も実働部隊のうちの一機に数えられている。任務は確実にこなすつもりだ。冷酷非道な氷の戦闘機械として。


 永遠に続く雨宿りは無い。傘はもういらない。戦いに臨むロボットが己の身を顧みて雨を避けようとするなど、それこそ滑稽だ。


 そうして、二機のロボットを載せたトラックは道路を走り去っていく。荷台に詰め込まれた思惑と計画とそれらがもたらす結果を、じきに誰もが知ることとなる。

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