そして、廻りだす
聴覚センサーをくすぐる微かな水音に気付き、ブルースは窓の外に目をやった。
雨が降ってきた──天気予報ではもう少し曇りのまま保つというようなことを言っていたが、雨雲は随分急ぎ足でここまでやって来たようだ。微かな遠雷。これは、かなり荒れそうだ……ブルースは古ぼけたラジオを止めて起き上がる。壁に引っ掛けていた上着を羽織り、重い足取りで部屋を出た。窓がない場所や壁が崩れている場所があれば、塞いでおかなければならない。この隠れ家は比較的損傷が少ないので大丈夫だとは思うが。
非常階段を下りてフロアをひとつひとつ確認していく。何らかの事情でろくな片付けもしないまま遺棄されたらしいこの廃ビルには、いまだにかつての入居者たちの息吹が残っている。
机の上に積まれた紙の束の、その上に降り積もった埃を何気なく指で払った。薄灰色の下から現れた文字列は他愛のない契約書類だ。指先に残った粉っぽい感触を拭い落として歩きだす。前の入居者たちが何者であろうと、今このビルはブルースの隠れ家だ。
ひととおり部屋を見て回ったが、雨風が入り込みそうな箇所は確認できなかった。ひとまず安心し、ブルースは何とはなしに窓際に寄りかかって外を眺める。降りしきる雨がくすんだ窓に細い軌跡を描いて流れ落ちていく。ガラスに薄らと映り込んだ自分の顔はひどく憂鬱そうだ。それを見るのが嫌で、すぐに目を逸らした。
近頃は何をするにも機体が重く、すぐに疲れてしまうような気がする。機体そのものに大きな問題が無いのは分かっている。これは精神の問題だ──感情の摩擦によって電子頭脳に負荷がかかり、処理能力に影響を及ぼしている。
原因は分かっている。あのロボットだ。
痛い目を見た。できることなら選択を間違える前からやり直したいくらいだ。逆に言えば、そこまで戻ってやり直す以外にこの状況から脱け出す術があるとも思えなかった。もう自分には想像できない。あれが隠れ家を訪ねてこない生活が、誰とも深く関わらず孤独に各地を放浪する日常が。それはとても、恐ろしいことだった。
……雨が激しくなってきた。どうせ堂々巡りで余計に気分を重くさせるばかりの思考を止め、その場を離れる。普段使っている部屋は四階にある。またソファに寝そべって雨雲が去るのを待とう……そう考えながら階段に爪先をかけたブルースは、ふと視界に入ったものに思わず足を止めた。
玄関の扉が開いている。その向こう、しとどに降る雨の下に立つひとつの人影。嫌というほど見慣れたかたちをしたそれへ、声をかける。
「シャドー」
予想以上に固く強張った声だった。ロボットは肩を揺らして笑う。ぐちゃぐちゃに濡れた襟巻が、彼の胸元に垂れてじっとりと張りついている。
「……ああ、そういえば前も雨だったな」
呟く声にも笑みが滲んでいる。その声色にひどく不安を感じた。前とはいつのことだ。少し考えて、そして思い出す。
破壊音、突き刺さるブレードの温度、触れ合う唇、口腔内に広がるエラーの感触、吐き出した液体の味。
あの時も、雨が降っていた。
シャドーマンは大きく両手を広げた。掌に溜まった水が次々に滴る。その一挙一動にまとわりつくような不快を感じた。大げさな芝居を見ているようだ。だが目を離せない。
常と変わらない笑顔を浮かべて。まるで唄うように、彼はブルースへ問いかける。
「悪い報せと良い報せがある。どちらから聞きたい?」
「……どちらも……どちらも聞きたくない」
「そうはいかない。うん、悪い方からいこうかな」
絞り出すようなブルースの返答を切り捨て、彼は続ける。
「第十一次世界征服作戦が始まる。今度のナンバーズは罪のない一般ロボットだ。博士はより強力な機構でロックマンを迎え撃つ。もう準備は整っている……あとは決行を待つのみ」
ブルースは応えない。それは、あらかた予想していたことだった。先日は北方でワイリーナンバーズとコサックナンバーズの小競り合いがあったと聞く。水面下で準備を進めていたのだろう……自分がシャドーマンと形容しがたい関係を育んでいる間にも。
確かに悪い報せではある。では、良い報せとは何だ? 嫌な予感をひしひしと抱く彼に、シャドーマンは朗々と告げる。
「良い報せは……拙者はしばらくお主のところには来ないってこと」
……目眩がするような心地がした。そして気付いた。分かって言っている。このロボットはもう全て分かっていて、その上でこんなことを言っているのだ。そう気付いたが、だからといってどうすることもできない。ここで何故そんなことを言うのかなどと喚き散らすほどブルースは弱くはなかったし、平然と返す言葉をぶつけられるほど、強くもなかった。
そうだ、ふたりは敵だった。最初から今までずっと。
シャドーマンは笑っている。ブルースには、彼のことが、なにも分からない。
「もしかしたら、もう二度と来られない可能性もあるかもね。まあ仕方ない、明日の我が身がどうなるかなんて誰にも分からないものだ……良かったでござるね? お主は自由だ」
「──、…………」
「弄ばれることも、心をかき乱されることもない、静かな生活が戻ってくるんだ。嬉しいよな? あんなにうんざりした顔してたし」
返事が出てこない。何と答えるのが正解なのかもよく分からないまま、ブルースは発声機構の奥で細い音を鳴らした。
一瞬走った閃光が、濡れた地面の上に落ちる二機の影をことさらに強く浮かび上がらせる。遅れて轟音。雲が鳴っている。雷鳴に呼ばれるように、雨は勢いを増していく。
シャドーマンは優しく微笑んだ。まるで子の愛らしいわがままを聞く親のような表情だったが、それも今この場においては妖しく不気味なものでしかない。彼は小首を傾げてブルースの顔を覗き込む。淀みなく、まっすぐに。
「今日はそれだけ言いにきた。もう戻らないと、任務に支障が出てしまう」
「シャドーマン、」
「じゃあね、ブルース。拙者は拙者のなすべきことをするよ」
──お主は、どうするの?
耳にこびりつくような囁きを残し、シャドーマンは雨の向こう側に消えた。ブルースは思わず彼を追って飛び出したが、人工皮膚を打つ雨粒の冷たさに怯んで足を止めた。立ち尽くす彼の頭に、肩に、凍えるような温度が染み込んでいく。
意味もなく叫びだしたいような衝動に駆られたが、僅かに残った理性がそれを押し留めた。代わりに両手で顔を覆う。思考がまとまらない。形にならない慟哭が、今となっては棄てることもできない記憶たちが、次々に浮かんではアイカメラの奥に降り積もる。
しばらくその場から動けそうもなかった。重ねた時間ばかりが足首に絡みついて、底のない暗がりに引き込まれるような気がした。冷える機体の内側で電子頭脳だけが熱くなる。この感覚を知っている。あの日、研究所から逃げ出した時にはじめて知ったこの感情は。
閃光。続いた音は空気を引き裂くような衝撃と共に聴覚を揺らす。雨は降り続いている。天気予報はしばらく天気の悪い日が続くと言っている。
今、彼はこの世界にひとりぼっちだ。
◇
年に一度の定期健診の日が、近付いていた。
あるロボットは開発企業から健診の受診場所を告げられた。驚くべきことに、そこは世界一と名高いロボット博士の研究所であった。詳しく話を聞いてみれば、なんと製作所の社長がかの博士と親交があるらしく、その伝手で健診を引き受けてもらったのだという。
彼にとっても願ってもない事態だった。自分たちのような土木建築作業用ロボットの祖たる存在を生み出した研究所に、憧れない理由はない。機会があれば、偉大な先輩たちの話も聞いてみたい。そう思いながら予約チケットを受け取った。
あるロボットは職場の管理担当者からチケットを受け取った。私的な目的で高名な研究所での健診に応募したが、受けさせるつもりだったロボットが不慮の事故で破損してしまい、日程が間に合わないそうだ。当たったものを無駄にしたくはないから、代わりに彼に行ってほしいのだという。
既に健診の予定は組んでいた。だがよき同僚である彼の好意を無下にすることもできないと判断し、彼は予定を変更することにする。予約情報の変更と業務スケジュール調整は既に済んでいるそうなので、まずは航空機の手配から始めることにする。……それから、ペットの世話を任せられる相手探しも。
あるロボットは興奮した様子のマネージャーにそれを押しつけられた。なんでもダメ元で応募した抽選に当選したそうだ。今年の健診はあの研究所で受けられる。マネージャーが興奮するのも無理はなかった。彼にとってその研究所は、縁もゆかりも無い遥か高みの場所だった。
純粋な喜びと共にこれはチャンスだという思いが湧いてきた。あの博士に、未知のロボットたちに、自分の顔と名前を知ってもらうのだ。それがいつか活動の幅を広げるための助けになるかもしれない。希望を胸にまずは検索をかけた。研究所の近くに観光地とかあったらついでに行ってみる予定である。
あるロボットは自分がそこで健診を受けることを知っていた。彼の製造元はかの博士にゆかりあるアカデミーであり、その縁もあって大学出身のロボットは数年に一度の持ち回り制で彼の健診を受けられるのだ。今年は彼の番だった。
実際に研究所へ行くのは初めてだ。もちろん興味はある。世界最高峰の頭脳に触れる機会がある幸運に感謝してもいる。だが浮かれるほどではない。プールに身を沈めて薬液の成分をチェックしながら彼は健診当日までの日程を組み立てる。計算上は日帰りも可能だが、たまにはゆっくり行動してもいいだろう。
あるロボットは心底驚いた。当たったのだ。あの研究所で健診を受けられる権利が。彼は動揺のあまり北極基地の一室でうろうろと歩き回っていたが、やがて座り込んで項垂れた。
帰らない理由ができてしまった。好き勝手改造した機体を見せるタイミングを失ってはや数ヶ月、全てを打ち明けるのは健診で帰省する時しかないと思っていたのに、どうせ当たらないしと申し込んだ抽選に当たってしまうなんて。複雑な気持ちのまま、彼は「実家」に送るメッセージを打ち込みはじめる。なんだかんだ悩みつつも当たったものを無駄にする気持ちは、無かった。
あるロボットは自身の設計者から提案を受けた。人脈を頼って、さる研究所で健診を頼むことができそうだと。君さえ良ければ行ってみないかと。彼は悩むことなく承諾した。こんな機会は滅多にない。
それに、かの博士ならばこの機体の不安定な制御について何か助言をしてくれるかもしれない。そして、もし可能なら修理をしてもらうつもりだ。同僚や上の人はそれもお前の魅力だと言ってくれるが、流石にこのままではまずいので。そう心に決めて彼は日課の修行を始める。もし修理できてもこれは続けるつもりであった。
あるロボットたちは現場での作業の合間に初めてそれを知った。自分たちの製造元は、かの研究所での健診の企業枠を二つ確保しており、なんとそのうちひとつが自分たちに与えられるのだという。もうひとつはあまり面識のない兄機に割り振られているそうだ。
話によればあの博士も三機が合体して活動するロボットに興味を持っているらしい。一機はその事実に感動し、ぜひ行きたいと心を震わせた。一機は健診の内容が気になった。一機は事前提出データの確認をしておかねばとリマインドした。そうしているうちに休憩時間が終わった。作業へ戻っていく彼らの足取りは軽かった。
あるロボットはそもそも健診がどういうものかよく分かっていなかった。当然、定期健診が法で定められたロボットの義務であるということは知っていたが、その知識と自身の経験が結びついていなかったのである。
だから、開発チームの人たちが集まって今年の健診はここだよ、と言ってきた時もあまり理解はできなかった。だが馴染みの研究者たちもアスレチックの職員もみんな嬉しそうにしていたので、彼も嬉しくなって跳ね回った。よく分からなくても、みんなが笑顔になるのだからきっととっても良いことなのだ。
◇
刻一刻と時は迫ってくる。研究所は賑わっていた。抽選を勝ち抜いた幸運なロボットか、あるいは伝手を辿ってチケットを手にしたロボットたちが、列をなして自分の番を待っていた。お手伝いロボットたちが軽やかに駆け回っては順番を案内している。残りのロボットは、両手で数え切れるばかりになろうとしていた。
そうして、音を立てて噛み合う──運命の歯車は、まるで初めからそうと決まっていたかのように。
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