【SSQ2】10 I want to say "good-bye" to you.
咆哮が聞こえる。
目を開けた時、まず抱いたのは倦怠感だった。身体が重くて動かない。次に気付いたのは違和感──腰から下の感覚が無い。そう言えば、地面に叩き付けられて気を失う前、背中の方から嫌な音がするのを聞いた覚えがある。満身創痍の身体だが、もはや痛みも無い。……いや、待て、それよりも。
眩む頭を無理矢理動かした先、一面に広がる炎の海の向こう側に、望んでいた光景を認めた彼女はそっと小さな吐息を漏らした。遠ざかっていく白い影と、抱え上げられた深紅のドレス。泣き声のような、悲鳴のような、高い叫びが微かに聞こえる。
「……嫌、下ろして!……お願い、……だめ!待って!」
揺らめく火影のせいか、ただ単純に限界が訪れたらだけか。ぐにゃりと曲がって回る視界に彼女は微かに口許を歪める。随分とあっけない終わりだ。でも、まあ、こんなものだろう。
感じていた熱も、視界も、意識も、全てが融けるように消えていく。最後に残った感覚が、遠い声を確かに拾った。
「……いかないで、……ミシェラ!」
──ああ、守れて良かった。
僅かな意識の残滓まで掻き消すように、緋の樹海を統べる魔物は吼える。その声に呼応するように赤いゼラチンが身を震わせて爆ぜると、辺りを覆う炎は一層その勢いを増していく。影さえ焼き尽くさんばかりの業火の中、悠然と佇み続ける巨躯だけが陽炎のように揺らめいている。
『炎の魔人』は、未だ健在であった。
◆
『メシエカタログ』が、炎の魔人討伐ミッションに失敗した。
その報せが『白妙の花冠』に届いたのは、ちょうど彼らが十階の探索を終えた日の事だった。酒場へ依頼の品を納品に行った折にアントニオから聞いた言葉をそのまま仲間達に伝えたセルジュは、思わずといったように深い溜息を吐く。
「ノノンとパンさんは薬泉院で治療を受けてるそうだ。命に別状は無いけど、絶対安静らしい」
「……ミシェラは?」
返答は無い。沈黙に込められた意味を察し、一同は各々眉をひそめたり、微かな吐息を漏らして俯いたりする──この感情を何と形容すべきか。重苦しい空気の中、ぽつりと呟いたのはチアキだった。
「あの三人の実力で負けるようなら、おれ達も『炎の魔人』に挑むのは少し考えないといけない」
その言葉に彼の隣に座っていたロレッタが渋い顔をして口を開きかけ、結局何も言わずに押し黙った。
『メシエカタログ』は少人数編成のギルドだがその分個々の実力は高く、また探索準備や強敵に挑む際の事前調査も念入りに行っていた筈だ。それでもなお敗北を喫する相手が、十階の最奥に待ち構えている……そうなると『メシエカタログ』の敗北も最早他人事ではない。公宮からのミッションを受け、次の階層を目指す『白妙の花冠』もまた、炎の魔人と相対しなければならない事になるのだから。
「チアキの言うとおりだ。言い方は悪いが……彼女達の二の舞になる訳にはいかない。一度、装備と作戦を見直そう」
セルジュの言葉にマチルダがちょっと良いかしら、と片手を上げる。
「ノノン達から炎の魔人について話を聞く事はできない?情報が無いと対策の立てようも無いわ」
「ああ……それがだな」
溜息混じりに応え、セルジュは頬を掻く。その顔には苦虫を噛み潰したような表情が浮かんでいた。
「ロアが、見舞いに行くって。止める前に薬泉院に突っ走って行っちゃってさ……」
迷惑かけてなきゃいいけど、と呟く彼にマチルダも思わず苦笑を漏らした。そういうところがロアの美点でもあるが、仲間としては中々困ったものである。
公国薬泉院の中庭、絶えず患者達の訪れる診察室や待合室からは離れたその場所で、ロアはベンチに腰かけてじっと空を眺めていた。四角く切り取られた吹き抜けの空には厚い濃灰の雲が掛かっている。今夜あたり、雨になるだろうか。
彼女の隣に腰を下ろしているのは体の所々に包帯を巻いた大きなパンダだ。傍らには人間が扱うものより随分と大きい松葉杖が立てかけられている。
「逃げる事を選んだのは私なのです」
予想に反して落ち着いた声でパン左衛門は言う。ロアはそっと視線を彼へと向けた。
「咄嗟の判断でした。全滅してしまうよりせめてお嬢様だけでも、と。……それが結果としてミシェラ様を見捨てる事になってしまった。私はとんだ不忠義者です」
「貴方はよくやったよ。きっと私でもそうした」
「そうでしょうか……」
白黒の毛に覆われた顔にどんな表情が浮かんでいるのか、ロアには判別できない。ただパン左衛門は、全ての責任は自分にあると感じているようだった。そして、その責任を軽くしてやる事は、ロアがどんな言葉を尽くしたところで不可能だ。
「……ノノンはどうしてる?」
「病室にいらっしゃいます。私も付き添うつもりだったのですが、一人にしてほしいと仰ったので」
「そうか……」
ロアは小さな息を吐き出し、何とはなしに自身の掌へ視線を落とした。大切なものを目の前で失う事がどれだけ苦しい事なのか、それを自分はまだ知らない。
──私にもいつかそんな日が来るのか。
「……炎の魔人は、強大な魔物です」
パン左衛門がロアを振り返りながら、淡々とした声で告げる。
「奴は叫び声を上げて人の心を狂わせ、強力な技で相手を攻め立ててきます。何より恐ろしいのは呼び出した配下……赤いゼラチンと協力して放つ極大の炎。どうかお気を付けくださいロア様。貴女方まで私達の二の舞になってはいけない」
「……分かった。気を付けるよ」
ひとつ頷き、ロアは立ち上がる。怪我人のパン左衛門を付き合わせて長居をするのは良くない。仲間達の元へ戻って、作戦を練り直さなくてはならない。恐らく、次に炎の魔人と戦う事になるのは『白妙の花冠』だろう。仇を討つ──などと烏滸がましい事は言えないが、見知った相手が犠牲になった以上、この手で倒してやらねば気が済まない。
踵を返して玄関の方へと向かおうとしたロアの背中に、声が掛かったのはその時だった。
「──待って」
はっとして振り向けば、中庭を挟んで向こう側の柱の陰に人影がひとつ。やや乱れた金色の髪を揺らしながら真っ直ぐロアに歩み寄る病衣の少女に、パン左衛門が困惑したように声を上げた。
「お嬢様」
「頼みたい事があるの」
パン左衛門の言葉を遮るように言ったノノンの、どこか思い詰めたような青い目がロアをじっと見つめる。ロアは何も応えず、ノノンが次の言葉を口にするのを待っている。
◆
ノノンがミシェラと出会ったのは、今から二年前の春の事だ。各地を一人で旅していたミシェラが、たまたまノノンの住む街に滞在したのがきっかけだった。ひょんな事から知り合った二人はすぐに意気投合し、まるで昔からの付き合いであるかのように仲良くなった。ミシェラはノノンに今までの旅で見聞きした沢山の事を教えてくれた。例えばどこまでも広く遠く続く海原。例えば大空に抱かれてきらめく高原の景色。例えば水晶のように澄んだ水を湛えた湖畔の街。巫医の名門に生まれ、将来は自分もこの街で両親のような巫医になるのだとばかり思っていたノノンにとって、ミシェラの語る世界はあまりにも広く、夢のように輝いていた。ミシェラが見た世界を自分も見たいと思った。だから、無理を言って家を出て、こうしてラガードまでやって来た。
ミシェラと一緒に過ごす時間はこれまでの人生で一番楽しい記憶になった。ミシェラには迷惑をかけたし、パン左衛門にもたいそう心配をさせただろう。特に迷宮に入ってからは、危険な目に遭った事は一度や二度ではない。死を覚悟した事もある。それでもノノンは楽しかった。楽しかったのだ。
三日前の夜から降り出した雨は一向に止む気配が無く、ラガード全体を冷たい空気と静寂で覆っていた。ノノンはベッドから身を起こし、ぼんやりと窓の外を眺めている。曇った硝子の向こう、霞む景色の先には天高く聳える世界樹が影を落としている。
──迷宮にも雨は降るのだろうか。
過った考えを、ノノンは頭を振って掻き消す。冒険者になって数ヶ月が経つが、迷宮の中に雨が降る様子などついぞ見た事がない。天の恵みなど無くとも平気なようにできているのだろう。少なくとも、あの緋色の森までは。
「お嬢様」
聞き慣れた声に振り向けば、松葉杖をついたパン左衛門がのしのしと部屋に入ってくるところだった。器用に片手で持ったトレーの上にはホットミルクが入ったマグカップが載せられている。
「お身体を冷やしてはいけませんので」
「ありがとうパンじい。……雨、止まないね」
「……そうですね」
それきり部屋には沈黙が下りる。雨粒が屋根を打つ音と時折廊下から漏れ聞こえる足音や話し声だけが辺りに広がっては消えていく。
パン左衛門がベッド脇に置いてあった椅子に腰を下ろし、毛むくじゃらの手でノノンの乱れた髪をそっと梳く。いつもならアナタの毛が付くじゃない、と怒る彼女だが、今日ばかりはそんな気になれなかった。それが雨のせいだけでない事はノノン自身も、そしてパン左衛門も気付いているだろう。それでもそれを言葉にするには、二人にはまだ時間が足りなかった。
ノノンがぽつりと呟く。
「パンじい」
「はい」
「アタシ、冒険者になった事は後悔してないの」
「……はい」
「あの樹の頂上まで行ってみたいって、今でも思ってる」
「ええ、存じておりますとも」
「でも……でもね……」
そこで言葉を切ったノノンは、窓の外を見てはっとしたようにベッドから飛び下りた。パン左衛門が止める暇もなく、彼女は痛む身体を無理やり押さえつけて廊下を駆け抜け薬泉院の玄関へと向かう。
重いドアを潜り抜けた先、雨がしとどに降る大通りを傘も差さないまま急ぎ足で渡っていた彼女が、ノノンの姿を見て目を見開く。肩で息をしながら立ち尽くすノノンに、彼女は、ロアは右手に持っていたそれをそっと差し出した。
「依頼の品だ」
──それは、焼けた一振りの剣だった。刃は半ばで折れ、柄は黒く焦げてしまっているが、柄尻に施された装飾は元の姿のまま、はっきりと見てとれる。
微かに震える手でそれを受け取り、柄を指先で撫でるようにしてその感触を確かめた。自慢の品なのだといつも言っていた、鳥を模した美しい銀の装飾。見違えようもない。これは、ミシェラの剣だ。
「……それで、良かったか?」
静かに問いかけるロアに、ノノンはひとつ頷いた。
あの日、見舞いに来たロアを呼び止めたノノンは彼女にひとつの依頼をしたのだ。『何でもいいからミシェラの遺品を持ってきてほしい』と。正直、あまり期待はしていなかった。あの業火に焼かれて、残っている物など何も無いのではないかと半ば諦めていたのだ。ロアにもそう告げてあったが、しかし、彼女はこの剣を持って帰ってきてくれた。
ノノンは剣をそっと抱き締める。抜き身の刃が濡れた病衣に擦れて、焦げ茶色の染みを作った。ようやく追い付いたパン左衛門が彼女を雨から守るように覆い被さった。俯いたまま、か細い声で彼女は呟く。
「……アタシは後悔なんてしてない、……でも」
──もしも、少し違った未来があったなら。それはきっと、素晴らしいものだっただろうに。
「……もっと、一緒にいたかったなあ……」
嗚咽は雨音に掻き消された。肩を震わせる少女の声に、応えるものはいない。そんな事はあり得ないと分かっていながらも、冷えた身体の内に掻き抱いた剣には確かに微かな温もりがあるような気がして、ノノンはそっと腕の力を強めた。
長く続いた雨は、その日の夜になってようやく終わりを迎えた。
◆
「ノノンは冒険者を続けるそうだ」
長い階段に足をかけながら、ロアがぽつりと溢す。
「ミシェラの分も、行ける所まで行ってみたいと」
「そうかい。僕はてっきり、引退するものだと」
「何にせよ、ノノンが決めた事を私達がとやかく言う権利は無いわ」
鋭く言い切ったロレッタにロアとセルジュは顔を見合せる。背後でマチルダがくすくすと笑い、チアキは困ったような表情で仲間達を見回した。
「……さあ、行きましょうか。三層はどんな場所かしら」
マチルダの声を合図に、五人は次の階へと向かう階段を一歩一歩踏みしめながら上り始める。選ばれた者だけが訪れる事のできる場所、難関の第三層。そこにどんな景色が待ち受けているのか、彼らには想像もつかなかった。
「でもまあ、森なのには違いないんじゃないかな?」
「そうね……二層は炎の敵が多くて暑かったから、今度は涼しいと嬉しいかな」
「あ、本当に気温が下がってる感じがしないか?」
「そうだな。上着を持ってきた方が良かったかな……」
「出口が見えてきたわ」
ようやく暗い階段を上りきり、五人は次の階層から漏れる光の中へと足を踏み出す。そして、彼らは見た。目の前に広がる景色を。
辺りに広がる白、白、白。頬を撫でる涼しい──否、凍えんばかりの冷たい風。そして視界を覆う猛吹雪。
『……寒っ!!!!』
声を揃えた叫びも、雪に吸い込まれて消えていく。かくして『白妙の花冠』は、第三層『六花氷樹海』に足を踏み入れたのであった。
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