【SSQ2】12 独白
「……どうした?君が一人で来るなんて珍しいな」
丁寧にノックをしてから部屋へ入ってきた彼の姿に、エドモンドは微笑みを浮かべながらそう告げた。後ろ手にドアを閉め、彼は──セルジュは曖昧な笑顔で応える。
「すみません。ちょっと話し相手が欲しくて」
「構わないとも。私もちょうど一人で暇をしていたところでね」
エドモンドと同じ部屋で寝泊まりしているアベルとセトは、今夜はかかりつけの巫医であるゼピュロスの元で過ごしている。同じくセルジュと相部屋であるナギも祖父の元にいるため、現在宿に残っている男性陣は彼ら二人だけだ。
「……チアキが、ギルドを抜けたいと」
セルジュがベッドに腰かけながら吐き出した言葉にエドモンドは目を丸くし、暫し黙り込んだ後で訊ねた。
「理由は何と?」
「それが、話してくれなくて。一度考え直してくれとは言ったんですが……どうでしょうね」
セルジュは一度思い悩むように目を伏せたが、やがて小さく息を吐くと今日の探索での出来事をエドモンドに話し始めた。チアキの様子がおかしかった事から、例の荷物泥棒の事件まで、できるだけ事細かに。
一通りの話を聞き終えたエドモンドはふむ、と唸って顎を撫で、ベッド脇に置いてあった荷物から何かを取り出した。セルジュは目を瞬かせる。
「……ワイン?」
「他の皆には内緒にしておいてくれ。久々に飲みたくなってしまってね」
悪戯っぽく笑い、エドモンドはワインボトルと一緒に取り出したふたつのグラスの内ひとつをセルジュに渡す。促されるままに受け取ったグラスに淡い琥珀色の液体が注がれていくのを見ながら、セルジュは呟く。
「こうして一人欠けるかもしれないとなると、寂しい気持ちになりますね。同じ迷宮に行こうとしているだけの、ただの寄せ集めだと思っていたのに」
「同じ目的があるからこそ、だ。同じ方向を見て歩む仲間がいなくなれば、皆そう思うものではないかな」
「そうでしょうか……」
ワインで満たされたグラスを打ち合わせ、二人きりの晩酌が始まる。涼しい夜風に乗って、階下の厨房から漂う夕食の香りと微かな街の喧騒とが半開きの窓から流れ込んでくる。少し欠けた月は明るく、空には雲ひとつ見えない。穏やかな、良い夜だった。
「……同じ目的ではないんです」
セルジュの声に、エドモンドはそっと振り返る。俯いた彼の視線は両手で握り込んだグラスの中、微かに波打つワインにばかり注がれていた。
「少なくとも僕は、皆と同じ方向を向いていた訳じゃなかった」
エドモンドは俯いて陰になったセルジュの濃灰色の瞳が憂いを帯びているのを見た。所在なさげにグラスを揺らしながら暫し考え込むように目を伏せ、やがて思い切ったように顔を上げると彼は真っ直ぐにセルジュへ向き直る。
「君の話を聞かせてくれないか」
セルジュがはっとしたようにエドモンドを見つめる。エドモンドは穏やかな微笑みを浮かべ、落ち着いた声で彼に語りかけた。
「ずっと気がかりだった。キマイラを倒した日の宴会の時から……君にも何か、悩みがあるのではないかと」
セルジュは目を伏せる。彼を見つめるエドモンドの視線はひたすらに優しく、その姿は懐かしい記憶の中の父の姿をありありと思い起こさせ、セルジュは少しだけ泣きたい気持ちになった。
意を決し、彼は口を開く。今までひた隠しにしてきた本心を語るために。
◆
ロレッタは一人、夜の街を駆けていた。すれ違う冒険者や市民が何事かと振り返るのにも構わず、時折立ち止まって辺りを見回しながら、ただ必死に走り続ける。
やがて彼女が辿り着いたのは馴染み深い広場だった。かつて大道芸紛いの見世物をした場所、そして兄と喧嘩をしたロレッタが逃げてきた場所。あの時はロレッタが一人で座っていた噴水に腰かけ、チアキは何をするでもなくただじっと俯いていた。
「何で抜けるの」
荒い呼吸の合間に絞り出した声に、着物を纏った肩が揺れた。返事をしない彼に向かって、ロレッタはなおも口を開く。
「私達の事が嫌になったの」
問えば、すぐさまそれは違うと掠れた声が返ってくる。ならば何故、と訊ねる前に、チアキは今にも消え入りそうな呟きをぽつりと漏らした。
「夢を見るんだ」
ロレッタが眉をひそめる。組んだ手を強く握り、彼は続ける。
「昔の夢だ。故郷が滅んで、育ての親に拾われて、剣を教えられて……村を焼くのに連れて行かれる。おれは言われるがままに、丸腰の人達を斬り殺すんだ。何人も……何人も……」
次第に小さくなる声はやがて噴水の音に飲み込まれて消えていった。押し黙るロレッタに、まるで罪の告白をするかのようにチアキは言葉を紡ぐ。
「おまえも見ただろう、おれはあの泥棒の男を殺そうとした。あれがおれの本性だ。どこまで行っても所詮人斬り……おまえ達とは違う、人でなしの殺人鬼だ」
「……だからギルドを抜けるの?」
静かな問いかけにチアキは思わずといったように身動ぎする。ますます背を丸めて苦しげな吐息を漏らす彼の返答を、ロレッタはただ待ち続ける。
街の喧騒が不思議と遠く聞こえる。噴水から流れる水音と風が吹き抜けていく微かな音に包まれると、世界に二人だけが置き去りにされたような感覚がした。
「……本当は」
どれほどの時間が過ぎただろうか。ようやく返ってきた声は震えていた。
「本当はもっと早く抜けるつもりだったんだ。いつか何かの間違いが起きて、また誰か斬ってしまうのが怖くて、代わりのメンバーが見付かったらすぐに出ていこうと思っていた。……で、でも……」
苦しげな呼吸はついに堪えきれず嗚咽に変わり、溢れた感情は目から口からぽろぽろと零れ落ちていく。
「おまえ達と一緒に冒険するのが、楽しくて……」
組んだ拳を額にあて、俯いて身を縮める彼の姿は懺悔する罪人にも祈りを捧げる信徒にも見えた。それがいったい誰への懺悔なのか、はたまた祈りなのか、きっと彼自身にも分からなかっただろう。
ロレッタは彼に、何に怯えているのか、と問おうとしてその言葉を飲み込んだ。視線を彷徨わせ、代わりの言葉を探す。伝えたい事ばかりなのに、そのどれもが形になってくれない。
「そんなの……おかしい」
ようやく振り絞った呟きに返ってくる声は無かった。それでも構わず、彼女は言葉を続ける。
「それで勝手にやめるなんて……おかしいわ。あなたが私に言ったのよ、やりたい事を諦めるのは違うって。それじゃ絶対に後悔するって。おまえはどうしたい、って!全部、あなたが!」
段々と激しくなる自分の声を聞きながらロレッタは白衣の裾を強く握り締めた。まるで癇癪を起こした子供のようだ。分かっていても、止める事はできなかった。喉の奥からせり上がってくる熱いものを飲み下し、じわりと潤む視界でチアキを睨みつける。
「……あなたが、言ったんじゃない……」
チアキの肩が揺れる。そこで初めて顔を上げ、彼はそっとロレッタを見た。二人の視線が交わる。少女の瞳は涙に濡れながらも強い光を宿している。
「……おまえはおれみたいな奴と一緒にいたらいけない」
「そんな事誰が決めたの」
「どう繕ったって人斬りなんだ」
「関係ないわ」
「おれの代わりならいくらでもいる」
「……馬鹿言わないで!」
一声叫び、ロレッタはつかつかとチアキへ歩み寄っていく。ぎょっとしたチアキが身を引く間もなく、彼女は彼の肩口にすがり付くようにして呟いた。
「あなたはどうしたいの」
「……おれは……」
「殺人鬼でもいいわ。今まであなたがやってきた事、私はぜんぶ許す。もしこれから人を斬っても、私がぜんぶ治してあげる。だから……」
行かないで。
懇願するような声にチアキは表情を歪めた。ロレッタが額を擦り付けた肩に、温かな涙の染みがじわりと広がる感触がある。おずおずと、彼女の頭に手を伸ばした。柔らかな髪は夜風に晒されてひんやりとしている。震える呼吸を間近に感じた。前にこうして人と触れ合ったのは、果たしていつの事だっただろう。
大事なものが増えていく度に、過去に犯した罪の重さが胸を締め付けた。共に時間を過ごして距離が縮まる度に、少女を自らの血塗れの手で汚してしまう事が恐ろしくなった。全て台無しにしてしまう前に離れようと何度も思って、結局できなかった。それが何故なのかなど、とっくに分かっている。
「……おれは、……冒険を続けたい」
「……うん」
「おまえ達と一緒に」
「うん」
「あの樹の上から見える景色が見たい……」
「知ってた。だから今まで抜けずにいたんでしょ」
ず、と鼻をすすり、ロレッタは少しだけ笑った。顔を上げた彼女はチアキの顔にそっと腕を伸ばし、その頬に手をやる。
「代わりなんていないわ」
ぽつりと呟いた声は今にも消えてしまいそうに微かなものだった。
「こんな弱いくせに我が儘ばっかり、口ばっかりの可愛くない小娘に着いてきてくれるの、あなたしかいない。あなたじゃなきゃ駄目なの。だから、傍にいて……」
チアキは暫し呆然としたようにロレッタを見つめ、やがて泣き笑いのような表情を作ると彼女の背を抱き寄せた。その一瞬、街の喧騒も、噴水の音も、風の音も、全てが消え失せる。二人きりの世界の中で彼は言う。
「そんな事を言われたのは初めてだ」
「……私も。……多分、最初で最後だわ」
「そうか……そうだな……」
小さく笑うと、ロレッタはチアキの肩にそっと自身の頭を委ねる。チアキもその顔に微かな笑みを浮かべると、少女を抱き寄せる手に力を込めてそっと目を伏せた。
もう言葉は必要無かった。寄り添う二人の姿を、空に浮かぶ月が優しく照らしている。
◆
──話を終える頃には、ボトルの中身は空になろうとしていた。最後の一杯分を自身のグラスに注ぎ、エドモンドが呟くように言う。
「私の故郷はゴダムという街でね」
語るべき事を語り終え、沈黙しきっていたセルジュが顔を上げる。目を瞬かせる彼に軽く笑いかけ、エドモンドは続けた。
「この国と同じように世界樹があって、迷宮に挑む冒険者達で賑わっていたよ。私はそこの騎士団で働きながら平凡に暮らしていた……妻と娘と、三人で」
初めて聞く話だ。セルジュはグラスに残ったワインを口に含みながらエドモンドの声に耳を傾ける。時計の針はもうじき日付を跨ごうとしていた。
「決して豪勢ではなかったが、幸せな生活だったよ。……ある時、仕事で街を離れる事になった。一ヶ月間の遠征だ。妻と娘は私のためにとお守りを作ってくれた……昨日の事のように思い出せる」
そこで一度言葉を切り、エドモンドはグラスに口をつける。残るワインは後わずかだ。
「遠征から帰ってきた時、街は無くなっていた」
窓の外からひときわ強い風が吹き込み、カーテンを揺らす。階下から漂っていた筈の夕食の香りはいつの間にか消え失せていた。
「見えたのは辺り一面の瓦礫と、世界樹があった場所に空いた巨大な穴。街も……世界樹も……そこにいた人々も……何もかもが消えてしまっていた。妻と娘は見付からなかった。どれだけ人に訊ねても、どれだけ瓦礫を掘り起こしても」
──ゴダムの大災害。風の噂で耳にした事があった。誰が何をしたという訳でもなく、一昼夜の内に突如街がひとつ滅んだという、作り話めいた悲劇の逸話。
エドモンドは手の内にあるグラスをそっと揺らした。波打つ琥珀色に照明の光がきらきらと反射する。
「……ラガードには、死ぬつもりで来たんだ」
セルジュがはっとしてエドモンドの顔を見る。エドモンドは力なく笑い、彼の揺れる瞳を見返した。
「家族も故郷も、何もかも失った。いっそ死のうと何度も思ったが、その度に運悪く──いや、運良く、見知らぬ誰かに救われた。……折角助かった命を無駄に使うなという天啓のようなものだったのかもしれないな」
「……それで、どうして世界樹に」
「冒険者になれば死ぬ機会はいつでもあるからな。……まあ、結局私はその機会を自ら逃してしまった訳だが」
「あ……」
セルジュの脳裏に、エドモンドと初めて会った時の光景が過る。自分だけが逃げおおせてしまった、と彼は言った。……あの言葉は仲間を失った嘆きの言葉だと思っていたが、それだけではなかったのだ。彼はあの時、本懐を遂げる機会を自らの手で失っていた。
「……妻や娘を恋しく思う気持ちは変わらない」
呟き、エドモンドはセルジュを見つめる。その表情はいつものように穏やかだ。
「だが、今はあの時生き延びて良かったと思っているよ。君達と過ごす毎日は楽しくて、私も年甲斐も無くはしゃいでしまうようだ。……君達の行く先を、見守りたいと思う。きっと家族もそれを望むだろうとも」
勿論、仲間の盾として命を懸けるつもりではあるけどね──と、騎士は笑う。セルジュは何も言えず、ただ黙り込んでいる。最後に残った一口分のワインを飲み干したエドモンドはそんな彼を見て優しく告げた。
「誰かのために命を投げ出す事も、同じように生きたいと思う事も。決して矛盾する事ではないと思うよ」
「……そう、ですかね」
「そうだとも。君は賢いが、考えすぎのきらいがある……もっと私達を頼ってくれ。こうして折角出会えた仲間なのだからね」
俯いて何事か考え込むセルジュから視線を外し、エドモンドは窓の外を見やる。満天の星がきらめくハイ・ラガードの夜空は美しい。白く輝く月はいつも変わらない光で街に息づく人々を照らしてくれる。
「……チアキの事は大丈夫だろう」
「え……」
「ロレッタが駆けていくのが見えたよ。……彼女にならば、彼もきっと心を開いてくれる。君もそう思うだろう?」
その言葉に、セルジュは強張っていた少し表情を緩めた。グラスをエドモンドに返して立ち上がり、頭を下げる。
「ありがとうございます。気持ちが少し軽くなりました」
「それは良かった。……おやすみセルジュ。良い夢を」
「ええ、おやすみなさい」
エドモンドに見送られ自身の客室に戻ったセルジュは、静かな空間で一人目を伏せた。羽織っていた上着を脱ぎ、カーテンを閉めてそっと布団に潜り込む。照明を消してしまえば、部屋は完全な闇に包まれる。一人の夜は久々だ。目を閉じると、故郷の風景や仲間達の顔、漠然とした不安や安堵、様々なものが浮かんでは消えていった。
その日は久々に夢を見た。故郷の父と共に、歌の練習をする夢だった。
翌朝、目が覚めたセルジュが宿のロビーへ下りていくと、がら空きのソファにチアキが腰かけていた。隣にはロレッタが座っていて、彼女はチアキの肩に身体を預けてぐっすりと眠っているようだった。
セルジュの姿に気付いたチアキが顔を上げ、困ったような不器用な笑顔を作る。その目元が腫れているのに、セルジュは気付かないふりをした。
「おはよう。……その、昨日の話……」
「今日は十二階の探索だぞ。昼から出るから、ちゃんと準備しておいてくれよ」
何か言おうとするのを遮り、からかうように言ったセルジュにチアキは目を見開く。呆気に取られたような表情ではくはくと口を動かすチアキに歩み寄り、ぺちりとその肩を叩いて彼は笑った。
「次抜けるなんて言ったら本当にクビだからな」
ぽかんとしていたチアキの顔が、みるみる内にはにかむような笑顔へと変わっていく。セルジュが拳を差し出すと、彼も腕を掲げて拳を突き合わせた。
もうじき他の仲間達も姿を見せるだろう。そうしたら、そこにあるのはいつもと変わらない朝だ。
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