【SSQ2】14 十把一絡げの希望
宿のベッドに腰かけ、ロアは渋い顔をして手元の書類を眺めていた。書類とは言っても何か小難しい事が書いてある訳ではない。そこに書いてあるのは『白妙の花冠』ギルドメンバーの名前の一覧表だ。一軍と、採集部隊と。つい先日まで十人分の名前が書かれていた表の、空欄になった箇所をそっと指でなぞり、彼女は溜息をひとつ吐く。
ノックの音が響く。返事をすれば、静かに開いたドアの向こうからチアキが現れた。マグカップを載せたトレーを片手に、彼はそっとロアの隣に腰を下ろす。
「根を詰めすぎるのは良くない」
「……あー、悪いな」
マグカップの中に満たされているのは暖かいココアだ。ほろ苦い液体に口をつけながら、ロアは書類を纏めて荷物の中へと乱雑に突っ込む。それを見たチアキが何か言いたげにしていたが、結局何も言わずに肩を落とした。
「……そう言えばお前、調子はどうだ?夢見が悪いとかいう話だっただろう」
「ああ、それならゼピュロス先生に貰った薬がよく効いてて……というか、急にどうした……?」
「いや……特にどうという事も無いんだが」
ぼんやりした様子のロアに、チアキはむっと顔をしかめる。
「疲れてるなら寝た方が良い」
「え、いやしかし、地図の整理がまだ……」
「そんなの後でもできる」
なおも反論しようとするロアに無理やり頭から毛布を被せ、彼女を諭すようにチアキは言う。少し前までの彼からは想像もつかない程強く、それでいて穏やかな口調だった。
「今はおれ達がしっかりしないといけない。でも、ちゃんと休まないとしっかりもできないだろう。地図の整理はおれがやるから休め、ロア」
被せられた毛布の隙間から見えるチアキの表情に、ロアはぽかんと口を開ける。以前の彼とは見違えるようだ。呆けた顔のロアに怪訝な表情を浮かべながら、空になったマグカップと地図の束をひったくるようにして受け取ってチアキは部屋を出ようとし、ふと足を止めた。
「探索は、……やめないよな?」
振り返った彼の、飴色の瞳が揺れている。先程とは打って変わって弱気な態度を見せる彼に思わず苦笑を漏らし、ロアは答えた。
「やめないさ。私にも見たい景色があるんだ」
ほっとしたように表情を緩め、おやすみ、と告げてチアキは今度こそ部屋を出る。ロアは胸の内に溜め込んでいた重い息を吐き出し、荷物に手を伸ばして雑に突っ込んだ書類を直すと照明を消してベッドに横たわった。時刻はまだ昼過ぎだ。カーテン越しの光を見つめながら、ロアは段々と近付いてくる睡魔に身を委ねる。眠りとは小さな死なのだ、と、どこかで聞いた他愛もない話を何とはなしに思い出した。
◆
「ええと、こっちのドライフルーツが宿の女将さんで、この手紙はクオナちゃんから。あとレジィナさんがこれ食べて元気出せって。樹海料理弁当」
いつも肩に下げている黄色の鞄から次々と見舞いの品を取り出すロレッタに、アベルは目を白黒させる。アベルが弁当の箱やらフルーツの盛り合わせやらに埋もれ始めたところで、隣のベッドからその様子を見ていたナギが苦い表情を浮かべて彼女を止めにかかった。
『ちょっと多いよ。食べきれないよ』
「良いじゃない、別に二人だけで全部食べろって訳でもなし。ほら、ゼピュロス先生なんかにも分ければ良いのよ」
「儂も年じゃからのう……若者だけで食べなさい」
ロレッタの声に応えるように、廊下からゼピュロスが顔を出した。ロレッタは肩を竦め、アベルを取り囲むように積んでいた見舞い品を纏めて手近なテーブルへと移動させる。ゆったりとした足取りで病室に入ってきたゼピュロスの後ろにはセトが着いてきており、彼の姿を認めたアベルが明るい声を上げた。
「おかえりセト」
「うん、ただいま。これお土産」
言いながらセトが差し出したのはまだ暖かいドーナツだ。ぱっと目を輝かせて手を伸ばすアベルの肩をロレッタが掴む。
「駄目よ。これから検査でしょ」
「え……」
「すまんのう。だがお主、昨日もガボガボ血を吐いておったじゃろう?健康第一じゃ。さあ、来なさい」
「ああ……ドーナツ……ドーナツ……」
ゼピュロスとロレッタの手でずるずると半ば引きずられるようにして連れ出されていくアベルを見送り、セトはドーナツをテーブルの上に置いて窓際に置いてあった椅子に腰かけた。窓から見える大通りの景色は普段と何ら変わらない。いつも通り市民や冒険者が忙しなく行き交う、活気に溢れた風景がそこにある。窓から視線を外し、セトはさりげなくナギに訊ねる。
「お前はもう良いの?アベルはまだ調子悪いけど……」
問いかけにナギはにっこりと笑みを浮かべ、握った拳を掲げてガッツポーズをとる。どうやらすっかり元気になったらしい。セトはほっと息を吐く。
十二階から命からがら十一階の衛士隊駐屯地まで辿り着き、この診療所に運び込まれたナギが目を覚ましたのはあの事件から丸一日が経った後の事だった。頭を強く打っていたため後遺症の心配もあったが、今のところ特にこれといった症状もなく体調は快方へ向かっている。先のやり取りの通りアベルは未だ本調子ではないが、既にあちこち歩き回れる程度には回復している。じきに元気になるだろう。
「そっか。……動けるようになったらどうするか、ちゃんと考えないとな」
物憂げな呟きにナギもひとつ頷く。守りの要がいなくなってしまった以上、これまで通りに採集を行う事は難しい。人員を補充するか、それともまた別の方法を取るか。彼らはまだ結論を出せていなかった。
溜息を吐き、黙り込んで俯くセトにナギは沈痛な表情で暫し視線を泳がせ、やがて意を決したように手を動かす。
『君一人のせいじゃない』
「…………」
何も応えず、セトは頭を抱える。重苦しい沈黙が部屋を満たす。窓ひとつ隔てた先の喧騒が、まるで別世界の事のように感じられた。
「……俺だって、俺のせいだなんて思ってる訳じゃない。あの人が選んだ事だ。俺が勝手に責任を被ろうとするなんて、……でもあの時、もう少し考えてから動くべきだったんじゃないかって思うんだ。雪が強くなれば更に消耗する事も、採集場の近くは魔物が多い事も少し考えたら簡単に予測できたのに」
言葉を探すかのように、ナギの右手が宙を彷徨う。セトはああ、と呻きながら自身の髪を掻き乱し、がたりと音を立てて立ち上がる。
「ごめん、お前だって辛いのに。……ちょっと外の空気吸ってくる。アベルが帰ってきたら、ドーナツ食べさせといて」
ナギの返答は待たず、セトは足早に病室を後にする。柔らかな光の差し込む廊下を歩きながら、彼は突き当たりの暗がりに目を凝らす。
もしも、選択を誤らなければ、と。そう思う気持ちは嘘ではない。善い人だった。そう長くもない間だったが世話になった。亡くした父の代わりのような存在だった。悔やむ気持ちは募るばかりで、今はまだ先の事を考える余裕など無い。それはきっとナギも、他の仲間達も似たようなものだ──皆が各々深い悩みの中にいる。そしてその深海のように底の無い悩みから、いつか抜け出さなければならない時が訪れる。
分かっている。分かっているからこそ、口が裂けても言えなかった。思ったより悲しくない自分がいるなどとは。
◆
矢をつがえ、弦を引き、射る。繰り返される単調な動作を、マチルダはただ眺めている。視線の先、真っ直ぐに立って離れた場所にある的を狙うモモコは先程から一言も喋らず、ただひたすらに弓を射続けていた。市街地から離れた小さな林の中に、彼女ら以外の人影は見られない。微かな木擦れと矢が空気を裂く音だけが辺りに響いている。
「わたしの故郷は」
モモコが唐突に口を開いたのは、穏やかな風と木漏れ日にマチルダが眠気を感じ始めた頃だった。顔を上げてみれば、少女は相変わらず弓を構えたままじっと的を見つめている。
「ラガード領の東の端にある農村地帯で、古くから領土争いの絶えない地域でした。今でこそラガードの領地になっていますが、わたしが小さい頃にはまた別の国の支配を受けていたと聞きます」
ヒュ、と軽く鋭い音。放たれた矢は吸い込まれるようにして木に打ち付けられた的の中央へと突き刺さる。
「そんな地域でしたから、いつの時代も争いが絶えなくて……つい最近まで内紛が起こっていたんです。わたしが野伏の技術を教えられたのも、戦いに巻き込まれた時に生き延びる事ができるようにでした。……内紛で多くの人が死にました。知ってる人、知らない人……わたしにはお兄様とお姉様が五人いたけど、そのうち三人は亡くなってしまいました」
矢筒にはもう矢が残っていない。モモコはゆっくりと的まで歩み寄り、刺さっていた矢を引き抜く。マチルダも静かに立ち上がり、彼女の方へと近付いていく。
「だから、慣れてるつもりだったんです。戦争で大勢が亡くなるのも、樹海で一人が亡くなるのも、何も変わらないって思ってたから。でも……」
回収した矢を纏めて矢筒に戻し、モモコはうわ言のように呟いた。ひときわ強い風が吹き、木々のざわめきと共に頬を撫でていく。
「やっぱり慣れないですね。お兄様達が三人と、エドモンドさんが一人。同じくらい悲しいし、同じくらい寂しいです」
「慣れなくたっていいのよ。……きっと、慣れない方が良い事だわ」
応えながら、マチルダは自身の胸元にそっと手を当てる。思うところがあるのか、そっと目を伏せて何か考え込むような仕草を見せる彼女を振り返り、モモコは困ったような微笑みを浮かべて問う。
「一軍の皆さんは、明後日には探索を再開するんですよね」
「ええ。早いかもしれないけど、あまり待ってもいられないから」
近頃、冒険者達の間では密かによからぬ噂が広まっている。十五階に辿り着き敢えなく命を散らした冒険者達の遺体をよくよく調べてみると、銃創が見付かる事がある、という噂だ。魔物相手に戦って殺されたとしたら、ただの刺創ならばともかく銃創が残る筈もない。十五階には、冒険者を殺す冒険者がいるのではないか。そして疑わしい人物の心当たりが、自分達『白妙の花冠』にはあるのではないか。……推測が本当であるならば、これ以上の被害者が出る前に何か手を打たなければならない。
マチルダの答えにモモコはひとつ頷くと、矢筒に巻かれていた紐に手にしていた弓を括って吊り下げた。そしてにこりと笑って言う。
「わたし達も……もう少し時間がいると思いますけど、そのうちまた迷宮に入ろうと思います。わたし達は遺されたんじゃなくて、未来への希望を託されたんだって、わたしは信じてますから」
少女の笑顔はどこか寂しげだが、その瞳には穏やかな光が灯っている。マチルダも表情を緩めて応えた。
「……帰りましょう。皆が待ってるわ」
「はい」
橙色に染まり始めた空を眺めながら、街へと続く道を歩き出す。喪ったものは大きく、その穴は簡単には埋まらないだろう。けれど時として、それでも前に進まなければならない事もある。戻らない過去を偲ぶより、遺された意志の通りに歩き続けなければならない。
たとえ、いま胸を満たしているものが取るに足らないちっぽけな希望ばかりでも、それがいつか輝かしい未来に変わると信じて。
◆
セルジュは一人、客室に籠って何をするでもなくぼんやりとしていた。ベッドに身を投げ出して天井を眺め始めてからどのくらい時間が経っただろう。どこからともなく、夕食の良い香りが漂ってくる。もうそんな時間かと思うものの、身を起こす気にはなれなかった。
枕元に手を伸ばし、置いてあったそれを掲げてじっと見る。小さく砕けた盾の欠片、その表面には細かな傷が幾重にも刻まれていて、これまでに乗り越えてきた戦いの数を感じさせた。
盾の主が、最期に何を思っていたのか。
どれだけ考えたところで、セルジュには想像もつかなかった。最期の瞬間など、どれだけ空想したところで実際に経験しない限りそれはただの夢でしかない。盾の欠片は何も語らない。ただ、そこにあるだけだ。息をひとつ吐いて欠片を握り込み、彼は目を伏せる。どこか焦燥にも似た感情が胸にわだかまっている。気を抜けば口から際限無く漏れていってしまいそうなそれを無理やり呑み込めば、焦燥は何故だか泣きたいような気持ちに変わって腹の奥へと沈んでいった。夕空は段々と濃藍へ色を変えつつある。仲間達が戻ってくるまでに、平然の仮面を被り直す事はできるだろうか。
話を聞いてほしいと思った。そう思う相手は、もうどこにもいないというのに。
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