【SSQ2】15 凍空に響け祈りの歌

 長い戦いの末、ついに少女は崩れ落ちる。一面の雪の上に、誰のものとも知れぬ血が点々と散っている。折れた杖を握り締めたまま呆然とする彼女に、額から血を流したロアが肩で息をしながら口を開く。

「それでも──お前達は、間違ってる」

 背後に控える仲間達は皆、傷を負っている。どれも浅くはない傷だ。同じ人間によって、確かな殺意の下に負わされた傷。……例えどんな理由があろうとも、罪の無い冒険者達に刃を向けた彼女ら──『エスバット』の行為を許すわけにはいかなかった。

 アーテリンデの顔が歪む。折れた杖と血に濡れた両手を見つめ、彼女は泣き笑いのような表情を浮かべて呟く。

「そんな事、分かってた。……分かってたのに」

 脇腹の傷を押さえながらふらりと立ち上がったライシュッツが、彼女の隣に跪いて細い肩をそっと抱く。アーテリンデの黒い瞳から、ぽろりと大きな雫が零れた。次々と頬を伝い落ちるそれらは雪に染み込んで幻のように消えていく。

「……何で、こんな事になっちゃったんだろう……」

 それは果たして、何を想っての言葉だったのだろう。応える者はだれもいない。痛いほどの静寂が満ちた空間に、少女の嗚咽だけが響く。

 降り続く雪が、止む気配は無かった。


   ◆


 『彼女』はかつて、人間であったのだという。

 足下に広がる氷を割り砕き、ずるりと姿を現したのは青い触手だった。タコの脚にも似たそれが存外に機敏な動きで這い寄ってくるのを、チアキが刀を振るって食い止める。

「次から次へと……キリが無いぞ!」

「構うなチアキ!本体を叩く!マチルダ、取り巻きは任せた!!」

「分かってる……!」

 エーテルの充填を終えたマチルダが左手のアタノールを掲げ、うぞうぞと蠢く触手達に向かって大爆炎の術式を放つ。灼熱の炎に焼かれた触手は苦痛からか悶えるようにのたうち、やがて干からびたようになって雪の上に崩れ落ちると動かなくなった。その様子を、妖艶な薄ら笑いを浮かべながら眺めているものがいる。

 『氷姫』スキュレー。かつてこの迷宮に挑んだ勇気ある巫医の娘の、その成れの果て。生前はさぞ美しかったのだろう、上半身にこそその面影は色濃く残っているが、異形の下半身を目にしてしまっては最早彼女を人間と呼ぶ事はできない。三層を踏破せんとする冒険者達に立ち塞がる最後の壁。『エスバット』による支援──冒険者にとっては、妨害──が無くとも、『彼女』の力はあまりに強大だった。

 繰り出された一撃を受け流し、ロアはスキュレーの元へ駆け込んで触手をひとつ斬り落とす。断面から溢れた青い液体が雪の上に撒き散らされ、上半身が悲鳴のような声を上げる──同時に先端が貝殻のような形状をした触手が突き出され、地面を強く穿つ。足下から伝わる振動に次の術式の準備に取りかかっていたマチルダが体勢を崩した。その隙を突いて忍び寄ろうとしていた触手に、ロレッタが杖で渾身の殴打を加える。

「こいつら足を狙ってくる!本体の動きが大振りなの分かってて、こっちが避けるのを邪魔しようとしてるんだわ……!」

「早めに一掃しないとまずいわね……でも、数が多い……!」

 氷を突き破って次から次へと現れる触手は、一向にその数を減らす気配が無い。大爆炎の術式を使えば一時的に全滅させる事はできるが、現れる度に大規模術式を乱発していては身体と触媒が保たない。ロアとチアキはスキュレー本体へ攻撃を仕掛けようとしているが、触手の妨害が激しく思ったように傷を与えられていないようだ。

「っ……セルジュ、『聖なる守護の舞曲』を……セルジュ?ねえ!」

「!……ああ、分かってる!」

 弓を構えたまま、半ば呆然としたようにスキュレーを睨み付けていたセルジュがはっとしたようにリュートを掻き鳴らし始める。重くゆったりとした旋律が辺りに満ちていき、仲間達を鼓舞する。

 長年爪弾き続け、すっかり指に馴染んだ音の羅列をどこか他人事のように聞きながら、セルジュの思考は現在行われている戦闘とは離れた場所を漂っていた。……仲間を一人失ったあの日から、心の奥に引っ掛かった棘のようなものがちくちくと痛んで仕方ない。自分がしている事が正しいのかそうでないのか、それさえも漠然としていて答えが見付からない。

 そんな事ばかり考えて警戒を疎かにしていた彼は、スキュレーの上半身が胸に手を当てて大きく息を吸い込む動作をした事に気付くのに一歩遅れた。あ、と思うより早く、セルジュの奏でる曲を掻き消すかのように美しい歌声が響き渡る。仲間達は皆、耳を塞いで耐えている。その歌声を直に聞いたのはセルジュ一人だけだ。突如襲ってきた急激な眠気に、思わず膝から崩れ落ちる。自然と瞼が落ち、思考すらできなくなっていく。

「催眠……!駄目、寝ないで!」

 暗くなっていく視界の端で、ロレッタが駆け寄って来ようとし、触手に阻まれるのが薄らと見えた。意識を手放す直前に聞こえたのは、悲鳴じみたロアの声だ。

「おい起きろ、セルジュ……セルジューク!」

 その声に応える事すら叶わず、ふつり、と何もかもが闇に落ちていく。


   ◇


『セルジューク。

 その名前は遥か昔、僕らの祖先が神官として神に祈りの歌を奉納していた頃から伝わるものだという。かつての神職が宮廷楽士へと姿を変えた後も、名前だけは古い伝統として家を継ぐ長男に受け継がれてきた。十何代目かの『セルジューク』として生まれた僕も、当然のように家を継ぐ存在として育てられた。未来の宮廷楽士。定められた道を辿り続ける運命にある子供。幼い頃はそれに何の疑問も持っていなかった。

 そんな子供の僕が彼女と出会ったのは、たまたま王城の裏庭に迷い込んでしまった時の事だった。彼女は一人で花を摘みながら声も無く泣いていた。どうしたの、と訊ねても返事は無い。困った僕は、身の丈に合わないリュートを抱えて唯一弾ける曲を彼女に聞かせる事にした。我ながら幼稚な発想だ。けれど当時の僕には、一人で泣いている女の子を喜ばせる方法がそれしか思い付かなかったんだ。奏でた曲の名前は『白妙の花冠』。少年が想いを寄せる少女に愛の言葉と共に花の冠を贈る、という歌だった。子供の僕には、それすらもよく分かっていなかったけれど。

 拙い演奏に、彼女は上手だねと言って少しだけ笑ってくれた。

 その日から毎日、僕らは裏庭で二人きりの演奏会を開いた。彼女は少しずつ、自分の話を僕に聞かせてくれた。王家の末端に名を連ねる者だという事。王城に迎えられてまだ日が浅い事。少し前に母親が亡くなっている事。母は取り潰された下級貴族の家の出だという事。ただ一度、王と母が関係を持ったという事実があるだけで、自分が本当に王の子であるかは分からない事。彼女はその出自のせいで家臣団や他の王の子達から疎まれているようだった。

 輝かしく優雅に見えた王家一族の闇に、僕は酷く衝撃を受けた。同時に憤りを感じた。なぜ彼女だけが悲しまなくてはいけないのか。なぜ誰も彼女に手を差し伸べないのか。彼女の事を大事に思う気持ちが強くなる度、それまで王家に抱いていた尊敬の念は崩れていった。

 彼女は王女の立場を捨てて軍に入った。僕は楽士として名を知られるようになった。彼女は危険な任務に就かされる事が多くなった。僕は王家を讃える歌が嫌いになった。

 我慢の限界が訪れたのは、隣国との間で戦争が起き、彼女が前線へ配属される事が決まった時だ。僕は彼女に言った。二人で逃げよう。どこか遠くの場所へ行こう。君がこんな国のために使い捨てにされるのは見ていられない。彼女は頷いてくれた。その日の内に国を出て、二人で北へ北へと逃げ出した。先々で現れる追っ手を撒きながら、僕はハイ・ラガードへ向かう事を決めていた。ラガードの世界樹。地位も身分も過去も名前も何もかもを捨てて、ただ一人の人間であれる場所。

 そこで一緒に死のうと思った。何者でもない二人として。

 だから冒険者になった。ギルドを組んで、迷宮に潜った。本当はこんな所まで来るつもりじゃ無かったんだ。すぐに魔物の餌にでもなるだろうと思っていた。……決意が揺らぎ始めたのはいつだったか。

 フローレンス、……ロア、何より大事な僕の花。君はどうしてこんな場所まで僕に着いてきてくれたんだろう。君は僕に何を望むんだろう。

 僕は、君のために何ができるだろう。』


   ◆


 強い衝撃と激しい痛みに、セルジュの意識は急速に現実へと引き戻される。視界に広がる赤と白を認識して、そこで初めて固く凍りついた雪の上に叩き付けられたのだと気付いた。身を起こそうとした彼の耳に、セルジュ、と彼を呼ぶ高い悲鳴が届く。仲間の誰かの声である事は分かったが、それが誰のものなのかまでは分からなかった。

 セルジュに群がろうとする触手を、マチルダが大爆炎の術式で焼き払う。どさりと雪の上に転がる触手の死骸を踏み越えて駆け寄り、ロレッタはすぐさまセルジュの治療を始める。口の中を切ったのだろうか、それとももっと内側の器官が傷付いているのだろうか、やたらと溢れてくる血液を吐き出しながら、彼はぐらつく視界を動かして辺りを見回す。

 マチルダが術式の準備をしている。……随分と疲弊しているように見える。湧いてくる触手を一掃するために高位術式ばかり使っているのだから、当然消耗も激しいだろう。チアキが必死の形相でスキュレーに斬りかかっている。こちらも身体のあちこちに傷を作っていて、動きがいつもより鈍っているようだ。元々長期戦には向かない戦い方をする彼だ、そろそろ限界が近いだろうか。

 そして、彼女は。ロアは、ひたすら剣を振るっていた。身を翻すたび垂れた汗が飛び散っている。その表情には疲労と苦痛の色が浮かびながらも、諦めや絶望は欠片も見受けられない。彼女は戦っている。生きて先へと進むため、その全霊を懸けて剣を握り続けている。攻撃を避けるため一度後ろに退いたロアが、ふと振り返った。彼女は治療を受けるセルジュが自分を見つめている事に気付くと、にっと笑って再び駆け出していく。

 ああ、と、セルジュは悟る。

 ──君は、そういう奴だったな。

 本当は分かっていた。最初から彼女は生きるのを諦めたりなどしていない事を。悲劇の姫君のフローレンスはもういない。今ここにいるのは、剣を振るい勇敢に戦う戦士のロアなのだ。自分だってそうだ。王宮から逃げ出した楽士のセルジュークならばともかく、吟遊詩人のセルジュには、命を捨てるにはこの国で大切なものが増えすぎた。それに、彼は知っている。生きて先を見守りたいと言っていた人が、命を投げ出してまで仲間を守り抜く道を選んだ事を。

 あの夜の事を思い出す。優しい声で騎士は言った。誰かのために死ぬ事も生きる事も、矛盾する事ではない、と。

 ──それなら、僕は。

 ロレッタが止めようとするのにも構わず、セルジュは痛む身体を無理やり動かして転がっていたリュートに手を伸ばす。一緒に弾き飛ばされた筈だが、幸いな事にどこにも損傷は見られなかった。血の混じった唾を咳と共に吐き出し、彼は声を上げる。

「マチルダ!最大火力を撃てるか!!」

 マチルダがはっとしたように振り向き、一瞬の間の後に応える。

「一回だけならいけるわ!」

 十分だ。ひとつ頷けば、マチルダも頷き返してアタノールを駆動させ始める。上体を起こし、リュートを構えようとして痛みに呻くセルジュの身体をロレッタが横から支えた。

「無理しないで」

「……、分かってる。ありがとう」

 むっとした表情のロレッタに苦笑を漏らしつつ、彼は弦をそっと弾いて音を確かめる。長い間弾いていない曲だ。おまけにこんな状態ではろくに声も出ない。聞くに耐えない事になるだろう。だが、それでも奏でなければならない。誉れある勝利と戦士の栄光を讃える歌を。かつて厭った戦いの歌を。彼女のために。仲間のために。そして他でもない、自分のために。

 生きるための歌を、歌いたい。


 意識を集中させ、ただひたすらに術式を編み上げる。最大火力の術式──一回ならばとは言ったものの、実際はそれすら危うい。たとえ一発だけでも、撃ったその時点でマチルダは使い物にならなくなるだろう。もう術式を撃てるだけの力も触媒も、もう殆ど使い果たしてしまっているのだ。

 だがセルジュは撃てるか、と訊いてきた。それはつまり、一発だけでも撃つ事ができるならば勝利に繋がるという事だ。それならば多少無理をしてでも応えなければならない。自分達は、勝つために戦っているのだから。

 エーテルの圧縮は完了した。後はこの『弾』を術式に変換し、撃ち出すだけだ。だが、残り僅かな力を圧縮したところであの魔物を倒すだけの火力が本当に得られるのか?もし仕留められなかったら?その時はきっと、自分達の冒険はここで終わりだ。

 細く息を吐くマチルダの脳裏に、ふと懐かしい声が過る。

『……一応覚えておいてよ。姉ちゃんが危ない時、助けてあげられるかもしれないから』

 はっとした。マチルダは左手のアタノールを掲げたまま空いている右手で上着のボタンを外し、大事に身に付けていたものを引っ張り出す。小さな青い石の付いた金のネックレス。二年前、誕生日プレゼントとして貰ったものだ。青い石は錬金術の威力を高める特殊な触媒なのだ、と話していた弟の顔を思い出す。

 微かに震える手でそれを首から外し、優しく握り込むと彼女は目を伏せてそっと祈った。

 ──キリル、私に力を貸して。

 祈るマチルダの耳に、荘厳な旋律が届く。目を向けずとも、セルジュが奏でる歌だという事はすぐに分かった。どこかぎこちないリュートの音色、掠れた歌声。お世辞にも美しいとは言えない演奏だったが、不思議と腹の底から力が湧いてくるのを感じた。

 『最終決戦の軍歌』──奏者の血筋に受け継がれてきた特別な祈りの歌。人々を鼓舞し、勝利をもたらすその歌を聞きながらマチルダは目を開けた。青い石がちょうど左の掌、術式の発射口に当たるようチェーンを指に巻き付ける。ロアとチアキがスキュレーから距離を取り、回避行動に移るのが見えた。

 彼女は術式を放つ。

 アタノールから解き放たれた大爆炎の術式は赤くうねる業火の奔流となり、瞬きをする間もなく異形の『彼女』を飲み込んだ。


   ◆


 静寂の下りた大通りを、彼らは連れ立って歩いていた。街の中だというのに武装を整え、各々武器を腰に下げて歩く姿は冒険者と言うにはどこか違和感がある。しかし、幸いな事に彼らの姿を見ている者はいなかった。──もしもいたならば、無事でいられたかの保証は無い。

 最後尾を歩いていた青年がはたと足を止める。彼が視線を向けたのは、通りに面した一軒の料理店だ。店先に吊るされた看板には『公国直営料理店 四つ葉亭』と書いてあったが、彼がそれを目にする事は無かった。先を歩いていた白衣の青年が怪訝な表情で振り返り、彼に声をかける。

「おい、置いてかれるぞ」

 返事のひとつもせず、彼はただじっと料理店の中、カーテンの隙間から漏れる光に目を凝らし、微かに聞こえてくる喧騒を聞いている。店内で三層を踏破した記念の祝宴が開かれている事を、彼が知る筈もない。しかし、笑い声と、陽気な大声と。それらに耳を澄ましていた彼は、やがて誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。

「……姉ちゃん……?」

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