【SSQ2】20 I love you, my dearest.
悲鳴を天高く響かせながら、翼を失った天空の女王は花弁の舞う青空へと墜落していく。その姿を見送り、武器を収めた『白妙の花冠』の傍らに翼人の長──カナーンがゆっくりと降り立つ。
「……よく、やってくれた」
辺りに散らばった極彩色の羽を見てすっと目を細め、彼は呟くように言う。
「これも全能なるヌゥフの力か、それとも汝らの実力なのか……」
天空の女王ハルピュイアが倒された事に何か思うところがあったのか、カナーンは目を伏せて細く息を吐き出す。暫しの沈黙の後、彼は『白妙の花冠』を振り返ってゆるく微笑を浮かべた。
「我らは聖地を取り戻し、汝らは天への道を得た。汝らはやはり、星に定められし者であったのだろう。……天空への道はこの先にある。心して進むがよい」
そう言って彼が指さした先には、立ち上る淡い光の柱が見える。会釈を返せば、彼は背中の黒い翼をはためかせて空へと飛び立った。
「汝らに星の加護あらんことを……」
祈りの言葉を残し、カナーンはどこかへと飛び去っていく。後に残されたのは舞い散り続ける薄紅色の花弁と、一面に広がる天空の女王の残滓だけだった。
◆
天空の城へ向かうより先に、『白妙の花冠』にはやるべき事が残っていた。装備の新調である。天空の城は誰も足を踏み入れた事のない未踏の地。何が待ち構えているか分からない以上、準備も入念に行う必要があった。
「……強い武器を作るのに時間が掛かるし、時間を潰すために依頼を受けるってのはよく分かるけど……」
眉間にシワを寄せながらロレッタが呟く。彼女らが今いるのは迷宮十九階、既に行ける場所はすべて探索し尽くした階層である。
「だからってこんな依頼ある?餌やりって。それも魔物のヒナって」
「まあそう言うな。エクレア嬢には世話になってるし、頼みくらい聞いてやってもいいだろう」
空になった鳥缶を荷物に戻しつつロアは苦笑する。親を亡くした魔物のヒナに餌をやってほしい、というのは交易所の娘の頼みである。店を訪れた冒険者の噂話だけでそこまで気を回してしまうエクレアは少々純真すぎるのではと思わなくもないが、こういった善行が巡り巡って自分達の元へ返ってくるかもしれないと考えればこの程度安いものである。まさに情けは人のためならず、だ。
ロアが荷物を背負い直したのを見届け、手持ち無沙汰に辺りを見回していたセルジュが大きく伸びをして口を開く。
「さて、依頼はこなしたし……次は何だっけ?」
「食材の調達だな。サヤエンドウが足りないらしい」
「サヤエンドウなら遠くまで行かなくて済むわね。早く採って帰りましょう」
サヤエンドウが採取できる場所まで、魔物に警戒しつつゆっくりと進んでいく。ふとチアキが怪訝な表情を浮かべたのは、空中を滑るように移動する不思議な床を乗り継ぎ、目的の浮島まで辿り着いたその時だった。
「焦げた臭いがする」
その言葉に四人も顔を見合せ、すんすんと鼻を鳴らして辺りの臭いを嗅ぐ。確かに焦げ臭いような妙な臭いが漂っているような気がする。眉をひそめて周囲の様子を窺いながらチアキは近くの茂みの中をそっと掻き分け、その向こう側に広がっていた光景に静かに息を呑んだ。
「これは……」
言葉を失うチアキの背中越しに茂みを覗き込んだ仲間達も、彼と同じように絶句する。
そこに転がっていたのは人間の死体だった。見えている限りでは三人、身に付けている装備は四層を歩くには少々心許ないものに見える。顔を確認しようかと思ったが、どの死体も胸から上は原形を止めないほどに焼け焦げてしまっていて、目や口の位置すら判然としなかった。
今までこの四層を探索してきた中で、強力な炎を使う魔物とは出会った事がない。しかも転がっている死体はどれも同じように胸から上だけを焼かれている。魔物の仕業ならばこうはならないだろう。となればこれはやはり。
「……参ったな、四層まで上ってくるか……」
乾いた笑いを漏らしながら呟き、セルジュは頭を抱える。悪い冗談だ。ただでさえ危険な四層に、冒険者殺しまでもがやって来るなど。
「……とりあえず、ギルド……いえ、公宮に報告かしら。でも、顔も分からないと……」
「身元が分かる物は無いか?ギルドカードとか……」
言いながらロアが死体へと近付こうとしたその時、彼女の背後でがさりと何かが動く音がする。鋭いものが空気を切って飛んでくる気配に、ロアは咄嗟に振り返って左腕を掲げた。盾に弾かれて地面に転がったそれは、一本の矢だ。
目を見開いて固まるロアの横をすり抜け、鞘に収めたままの刀を持ってチアキが茂みの向こう側へと駆けていく。間もなく聞こえた打撃音と高い悲鳴にさっと顔色を変え、ロレッタがその後を追った。三人も彼女に続く。
茂みを越えた先で、チアキは一人の女を地面に押さえ付けて拘束していた。装備からしてレンジャーか何かだろうか。近くには弓が転がっている。先程ロアを射ったのはこの女であるらしい。
「くううっ……放せっ放しなさいよッ!!」
「放さない。何者だ?」
底冷えするような声で問いかけたチアキに、女はぐっと唇を噛んで彼を睨み付けた。
「あんた達のせいで……こんな事になるなら、あんな話乗らなかったのに……!あいつもあんた達の差し金なんでしょう!?邪魔者は死ななきゃ許さないってわけ……!?何なのよぉ……!!」
段々と嗚咽の混じる女の言葉に、チアキは困惑したように振り返る。何を言っているのかまったく分からない。どうやら自分達を恨んでいる様子だが、『あんた達の差し金』とは一体どういう事なのか?顔を見合わせて首を捻る仲間達をよそに俯いて何事か考え込んでいたマチルダが口を開こうとした、その瞬間だった。
甲高い鳴き声と共に、強い風が轟と唸りを上げて吹き込んでくる。はっとしたロアがすぐさま剣を抜き、チアキが女を解放して刀に手をやる。前衛二人の肩越しに見えた巨大な影に、セルジュはリュートを構えながら苦々しい表情で呟いた。
「『怒れる猛禽』……!」
赤と黒の翼を広げた巨鳥は、縄張りを荒らした獲物達の姿を見据えてもう一度つんざくような鳴き声を上げると弾丸のようにこちらへと飛び込んできた。上空から襲い掛かる鋭い爪をいなしながら、ロアが叫ぶ。
「逃げるなッ!!」
呼び止められた女がびくりと身を竦めて立ち止まる。マチルダの放った雷の術式を受けて動きの鈍った『怒れる猛禽』の翼にチアキが斬撃を叩き込んだ。手強い相手だが、幸い今日は体力も物資も有り余っている。この調子でいけば、無事退けられるだろう。
そんな楽観を打ち砕いたのは、悲鳴を上げて一層激しく暴れる巨鳥から目を離し、周囲を警戒していたセルジュの焦りに満ちた声だった。
「──まずい!退くぞ!!」
ロレッタが何事かと彼の視線を追い、そして絶句する。見通しの良い空中庭園、その向こう側からこちらへと迫ってきているのは、紛れもなくもう一体の『怒れる猛禽』だ。
すぐさま身を翻して撤退しようとした『白妙の花冠』だったが、傷を負った『怒れる猛禽』は憤怒の籠った叫喚を上げて翼を振るい、風を起こしてそれを阻む。風圧に圧されて思うように身動きが取れずにいる間にもう一体の巨鳥は傷付いた同胞の元へ飛来し、仲間を害した人間達を強く睨み付けた。大きな翼がぐっと力強く広げられたその瞬間、ロアの絶叫が響く。
「散れッ!!逃げろ!!!」
刹那、暴風がその声を掻き消す。舞い上がった砂埃と花弁で視界までもが奪われる中、彼らはただ走り続けた。己の向かう先が、仲間の向かう先でもあると信じて。
◆
しくじった、とマチルダが気付いたのは、砂埃が晴れ始めた頃だ。聴覚と視覚が奪われた方向感覚を失う中、一人だけ別の方向へ逃げてしまったようだ。周囲の様子を窺っても近くに仲間達がいる気配は無い。不安に心を押し潰されそうになるのを何とか堪え、マチルダは呼吸を整えてアタノールを駆動させる。
『怒れる猛禽』の鳴き声が辺りに響く。かなり近い場所にいるようだ。物音を立てないよう気を付けながら、その場を離れようと歩き出した。地図は手元に無い。記憶を頼りに、下階へ向かう階段へのルートを思い浮かべて進んでいく。砂埃が晴れる前に、少しでも距離を取らなければ──そう逸る気持ちが彼女から集中力を奪った。
突然目の前に飛び出してきたディアトリマに、マチルダは慌てて術式を放つ。普段ならば一撃で仕留める事ができた筈だが、彼女は焦るあまり狙いを微妙に外してしまった。術式による氷柱で体を中途半端に貫かれたディアトリマが苦悶の声を上げる。獲物を取り逃がして警戒態勢を取っていた『怒れる猛禽』が、この声を聞き逃す筈も無かった。
すぐさま飛来してくる巨鳥の姿を認め、マチルダは必死に石畳の道を駆ける。だが、人間の足で空を飛ぶ魔物のスピードから逃げ切れるわけがない。背後で巻き起こった風に煽られ、ついに彼女は冷たい石の床の上に勢いよく転げてしまった。左半身から床に叩き付けられたのが悪かったのだろうか。やけに痛む左腕に目を落とせば、アタノールにヒビが入ってしまっていた。内側の錬金炉も反応が無い。これでは術式が使えない。マチルダは思わずぐっと目を瞑った。二羽の『怒れる猛禽』は、すぐ側まで迫っている──。
「──姉ちゃん!!」
そんな声が聞こえると共に、辺りが熱気に包まれる。顔を上げたマチルダの目に飛び込んできたのは、彼女を守るように広がる炎の壁と駆け寄ってくる青年の姿だった。呆然とするマチルダを立ち上がらせ、その手を引いて彼は走り出す。
どのくらい走っただろうか。炎の壁と鳥達の姿が見えなくなり、辺りの景色が見通しの良い庭園ではなく桜の木が立ち並ぶ森林へと変わったところで二人は足を止めた。肩で息をするマチルダを木陰に座らせて手当てを始める彼に、彼女は問いかける。
「キリル……どうしてここに?」
「偶然ここを探索してたんだ。……怪我は擦り傷だけだね。良かった……」
そう言ってキリルはほっと表情を緩めた。マチルダはひとつ頷くと左腕からアタノールを取り外し、壊れた部分を確かめる。やはり、転んだ際の打ち所が悪かったらしい。中核である錬金炉が破損してしまっている。その具合を確かめてキリルも顔をしかめる。
「これは……すぐには直らないな。錬金炉から組み直さないと……」
「そう……よね。…………」
「……とりあえずここを離れよう。糸があれば良かったんだけど、今持ってないんだ。せめて階段の近くまで行かないと……姉ちゃん、立てる?」
差し出された手を取り立ち上がれば、キリルはゆるりと微笑みを浮かべて歩き出す。どこからか軽やかな音がすると思えば、彼の腰には獣避けの鈴が括り付けられていた。繋いだ手をじっと見つめながら、マチルダは形容しがたい違和感が胸の家で渦巻くのを感じていた。弟が助けてくれて安心したのは確かだが、一度芽生えてしまった疑心はそれさえ覆い隠してむくむくと膨れ上がっていく。
何故、キリルはこんな所にいたのだろう。そもそも彼はもっと下の階層を探索していたのではなかったか。今日初めてここまで来たという可能性も無いではないが、それにしたって糸も持たずに一人でいるというのはおかしい。何か事情があって仲間とはぐれたのかもしれないが、それにしてはキリルの態度は落ち着きすぎているように思う。それだけでない、何かが引っかかる。
そう言えば、先程ロアを射ようとしたレンジャーの女が言っていた『差し金』とは誰の事なのか。状況的に、恐らく彼女は誰かに襲われて、その刺客を差し向けたのが『白妙の花冠』だと思い込んでいたようだった。……近頃、そんな話を聞いた覚えがある。マチルダは段々と嫌な予感が湧き上がってくるのを感じた。しかし思考は止められない。
レンジャーの女は自分達を狙う違法ギルドとやらの一員だったのではないか。先程見付けた死体は彼女の仲間のものだったのではないか。冒険者を襲っていた犯人は、無差別に対象を選びながらも『白妙の花冠』に害を加えようとする者を優先して殺害していたのではないか。そして、キリルが今日ここにいたのは、偶然ではないのではないか。全て憶測に過ぎない。だが、しかし。
前を歩く弟の姿を見る。彼は左利きだ。アタノールは、右腕に装着している。
「…………ねえ、キリル」
「なに、姉ちゃん」
「貴方、腕を上げたのね。あんなに強い炎の術式が撃てるなんて、びっくりしたわ」
「ああ……あれはアタノールを改造してるからで、俺の実力って訳じゃないんだけどね」
「……さっきね、人間の死体を見たの。下層で起こってる殺人事件と同じ、焼き殺された死体よ。……ねえ、貴方どうして一人でこんな所にいたの?仲間はどこにいるの?」
「…………」
返事が返ってくる前に、震える声で彼女は問う。
「貴方じゃ、ないわよね?」
振り向いたキリルの長い前髪の奥で、赤い瞳が揺れている。マチルダは祈るような思いでその瞳を見つめた。繋いだままの手からは変わらず彼の温もりが伝わってくる。
◇
『怒れる猛禽』を何とか振り切り、ロアは思わず石畳の上にへたり込む。背後を振り返ってみれば、同じようにロレッタが息も絶え絶えに膝をついていた。どうやら怪我は無いようである。
「やあ……無事で何より……」
少し離れた場所から、花弁と葉っぱと泥で薄汚れたセルジュがよろよろと歩み寄ってくる。彼も相当疲弊しているらしい、手近な木の幹に身体を預けるとずるずると脱力してしまう。
「しかし、ツイてなかったな……あの鳥ども、やたら気が立ってたみたいだけど……」
「……子育ての季節だったんじゃないの……あのヒナがどの魔物の子供か知らないけど、同じ場所に住む鳥の魔物なら、同じ時期に子育てしてもおかしくないでしょ……」
なるほど、力なく呟いたロレッタの言葉には信憑性があるような気もする。それにあの二羽が番いであると考えれば、ああやってすぐさま助けに来たのも納得がいく。本当のところはどうだか分からないが、一応そういう事にしておこう。荷物から水筒を取り出して水をがぶ飲みしていたセルジュが、あっと声を上げる。
「あそこに倒れてるのチアキじゃないか?」
「えっ」
驚いた二人が彼の指す方を見てみると、確かにチアキらしき物体が潰れたカエルのような格好で石畳に突っ伏している。気力を振り絞って立ち上がったロレッタが近寄っていき、ぐったりとしたその身体を揺らす。
「大丈夫?生きてる?」
「…………逃げてる途中……魔物……死ぬかと……」
踏んだり蹴ったりだったらしい。チアキと彼に治療を施すロレッタの姿を横目に、眉をひそめてロアは呟く。
「マチルダはどうした?」
「……一人でいるのか?まずいね……」
応えるセルジュの表情も険しい。動けるようになったらマチルダを探しに行こう、と言いかけたロアを遮るように、近くの茂みからがさがさと音が聞こえてくる。反射的に立ち上がって剣を構えるロアの目の前に姿を現したのは、先程のレンジャーの女だった。一瞬警戒したが、彼女はどうやら武器を持っていないらしい。ひとまず安心し、ロアは怯えた様子の彼女へ問いかける。
「お前は一体何者なんだ。知ってる事を教えて貰うぞ」
「し……知ってるも何も……あの男を差し向けたのはあんた達じゃないの?ボスの話では、そうだって……」
「残念だけど僕らはそんな事をしてる暇は無かったし、その男っていう奴の事も知らないよ」
顔を青くして黙り込む女に、ロアは頭を掻いて尚も質問を投げかける。
「何があった?話してくれ」
「……あんた達を襲うつもりだったの。命令で……でもこの階に着いた途端に、あいつが、あの男が……皆を炎で……」
セルジュが眉間のシワを深くする。離れた場所にいるロレッタとチアキも、彼女の言葉に耳を傾けている。
「……その男っていうのは?」
ロアの問いに女は答える。
「錬金術師……黒髪で、赤い目をした男よ」
◆
「……お願いキリル。何でも良いの。何でも良いから納得できる理由を教えて頂戴。私、貴方を信じたい……」
弱々しい声で訴える姉の瞳が潤んでいるのを見て、キリルは眉を下げて視線を彷徨わせた。暫し言葉を探すように逡巡し、彼は大きく息を吸い込んでから応える。
「……姉ちゃん、ごめん。俺、姉ちゃんに話せない事がたくさんあるんだ」
でも、と彼は姉の肩にそっと手を添える。
「姉ちゃんは俺が絶対に守るから。今だけ信じて」
真剣な弟の様子に、マチルダは何も言えなかった。キリルは泣き笑いのような表情を浮かべると、再び彼女の手を取って走り出す。どこかから鳥の羽ばたきが聞こえる。次いで、木々を薙ぎ倒すような音。自分達を探しているのだろうか。
マチルダは手を引かれるがまま走りながらぼんやりと弟の背中を見つめた。いつの間にこんなに大きくなったのだろう。幼かった頃の姿を、昨日の事のように思い出せるのに。
下り階段へ向かうには森林地帯を抜けて庭園へ出る必要がある。開けた場所を目前にして、キリルは視界に入った光景に表情を歪めた。ひとつしかない通路の真ん中に魔物が陣取っている。食事中だろうか、もぞもぞと蠢くデスストーカーにそこから動く気配はない。『怒れる猛禽』の羽ばたきと鳴き声が段々と近付いてくる。魔物を倒すために術式を撃てば、奴等に居場所を気付かれる可能性が高いだろう。そうなってしまえば終わりだ。二人の足では逃げ切れない。一か八か、床のない場所から下階に飛び降りるという手もあるが、それに気付いたあの巨鳥達が下まで追ってこないとは限らない。絶体絶命だ。だが、何とか活路を見出ださなければならない。
思考を巡らせるキリルの横で、マチルダはすぐ側にある崖の下をそっと覗き込む。青い空と、桜の花弁と、その下に薄らと見える石畳と。場違いな程に美しい景色だ。耳に届く羽音と咆哮は少しずつ大きくなってきているように感じる。
繋いだ右手を強く握られる。ふと、昔の事を思い出した。学校でいじめられたのだと泣いている彼の手を引いて、二人並んで家までの道を歩いた。あの頃は身長も自分の方が高かったし、キリルはもっと引っ込み思案で泣いてばかりの子だった。色々なものが変わってしまった。けれど変わらないものだってたくさんある。自分を見つめる赤い瞳の輝きも、姉ちゃんと呼ぶ声色も、不器用だが本当は優しいところも。昔と変わらず愛しく感じる。
そうだ、最初から分かっていた。彼を見捨てる事だけは絶対にできない。例え疑わしい事ばかりでも、その疑念が間違っていなかったとしても。それでも守りたいと、強く思う。
なぜなら彼は──たった一人の、弟なのだから。
「キリル」
「ん……なに、姉ちゃ、」
返事を待たず、マチルダはキリルの身体を強く押した。突然の事に反応が遅れた彼の身体は、そのまま重力に従って落ちていく──崖の下、十八階へと。
一面の桜の枝葉がキリルを受け止め、落下の衝撃を和らげた。着地した先の茂みに半ば埋もれた状態で呆然と自分を見上げてくる彼に向かって、声をかける。
「大丈夫?怪我してない?」
「──え、……姉ちゃん……?」
「ごめんね。でも、これが一番良い方法だと思うの」
そう、良い方法だ。ここで共倒れになるよりもずっと。目を見開いて唇を震わせるしかできないキリルに、マチルダは微笑む。本当に優しい子だ。きっと辛い思いをさせてしまう。だが、それでも。
「大丈夫、お姉ちゃんに任せて。私が魔物を引き付けるから、貴方は皆を呼んできて欲しいの。貴方なら、途中で魔物と出会っても倒して進めるでしょう?お願いね。お姉ちゃん、待ってるから」
キリルは何も言う事ができない。腹の奥から冷たいものが這い上がってくるのを感じる。何かを言おうとしたが、喉から漏れたのは掠れた吐息だけだった。
見上げた姉の瞳には涙が光っている。震える声で彼女は言う。キリルにとっては死刑宣告にも等しいその言葉を。
「──愛してるわ」
弟の表情が絶望の色に染まるのさえ見届けないまま、マチルダは立ち上がると踵を返して歩いていく。足が震えて上手く動かない。この先に待ち受けているであろう出来事が恐ろしくてたまらない。それでも、もう後には退けない。
「ぁ、ぁ……!待っ、……待って姉ちゃん!駄目だ、姉ちゃん、……姉ちゃん!!」
背中越しに悲鳴のような声が聞こえても、彼女は決して振り返らなかった。最後まで、一度たりとも。
0コメント