【SSQ2】21 かえらず

 迷宮十九階を歩いていたバルトロメオは、通路の突き当たりに転がる『それ』を見て静かに目を細めた。辺りは不気味な程に静かだ。猛り狂う『怒れる猛禽』の攻撃に巻き込まれまいと姿を隠していた魔物達は、まだ危険が残っていないかと様子を窺っている最中らしい。幸い、それが魔物に食われた痕跡は無かった。……そうでなくとも、十分見るに耐えない状態ではあったが。

 引き裂かれた身体は所々が千切れかけており、傷口からは中身が溢れ出している。生気を失い土気色になってもなお美しかったであろうその顔立ちは、深く刻まれた裂傷によって滅茶苦茶にされてしまっていた。辺りに広がる血溜まりはとうに乾いて黒く変色している。静かで、それでいて苛烈な死がそこにはあった。

 バルトロメオは彼女と直に話した事はない。何度か遠目で見た程度だ。だが、彼女が自分の知る誰かにとって唯一無二の価値を持つ人間だったという事はよく知っている。

 ふと無惨なその姿を哀れに思い、せめて傷だけでも塞いでやろうとバルトロメオが膝をついたその時だった。彼の首筋に冷たいものが当てられる。ひゅう、と自分の喉が鳴るのを感じた。呼吸の仕方さえ忘れて硬直する彼に、背後の気配は地を這うような声で言う。

「触るな」

 熱を感じたのは一瞬だった。ああ、焼かれているのか、と理解したその時には既に感覚も意識も何もかもが深い奈落の底へと沈んでしまっていて、それきりだった。

 ……焼き切ったバルトロメオの首が地面に転がったのを認めると、キリルは微かに痙攣する首のない身体をまるで道端の小石にそうするかのように思い切り蹴飛ばした。そのまま覚束ない足取りで彼女へと歩み寄っていく。

「姉ちゃん……ごめん……遅くなった……。一人で怖かったよな……もう大丈夫だから……」

 崩れ落ちるように彼女の傍らに跪き、項垂れた顔にかかる金糸をそっと掻き上げる。乾いた血がこびりついた冷えきった頬を撫で、彼はどこか虚ろな瞳で笑う。

「怪我……すぐに治すよ。おい、バルトロメオ……バルトロメオ?……ああ、死んだのか……役立たずだな」

 背後に転がる首を冷たく一瞥し、再び彼女へと視線を戻した時にはその顔には既に先程と同じ微笑みが浮かんでいた。物言わぬ死体を前にして、彼はまるで誰かと会話をしているかのようにひとつ、ふたつと頷く。

「……うん、うん……そうだね。ここは危ないから、安全な場所に……。大丈夫、俺が守るよ……姉ちゃんは、俺が、絶対に……」

 ぶつぶつと呟きながら、キリルは壊れ物を扱うような手つきで彼女の身体を抱き上げる。そしてゆらりと立ち上がると、そのままどこかへと消えていった。後には静寂だけが取り残される。転がったバルトロメオの身体と一面の黒い血痕に、舞い落ちる花弁が降り積もっていく。


   ◆


 銃の手入れをしなければ。

 ぼんやりとそう考えたセトだったが、思考は頭の中で曖昧に渦巻くばかりでついに身体が動く事はなかった。銃の手入れをしなければ。探索に出なければいけないのだ。空いた穴を埋める役割を任された。その信頼に応えたい。しかし身体はまるで鉛にでもなったかのように重く、指先ひとつ動かす事さえ億劫だった。平日昼間の診療所はとても静かだ。天井の木目を眺めていたセトはそっと目を伏せてここ数日の出来事を回想する。

「一軍に入ってほしい」

 思い詰めた表情のセルジュがそう告げてきたのはつい昨日の事で、その言葉が何を示すのかはセトにも十分に理解できた。二つ返事で了承し、問い返す。

「もう良いの?」

 セルジュは何も言わないままひとつ頷く。その顔色は随分悪く、心なしかやつれているようにも見えた。思わず大丈夫かと声をかけようとしたセトを遮るように彼は口を開く。

「三日だ。あと三日だけ休んで、それから天空の城に入る。……準備を頼むよ。それまでには、僕らも整理をつけるから」

 そう言って力無く笑うセルジュにセトは何も言えなかった。踵を返して去っていくその背中がいつもより小さく見えた事をはっきりと覚えている。

 結局、行方不明になったマチルダの痕跡は何一つとして見付からなかった。

 事が起こってからもう一週間が経つ。他のギルドや衛士隊の力も借りつつギルドメンバー総出で十九階をくまなく捜索したが、彼女の姿はどこにも無かった。いくらマチルダが手練れの冒険者であるといっても、世界樹の迷宮は後衛職の女性が一人で何日も生き延びる事ができるような場所ではない。三日を超えた辺りで協力してくれた衛士隊は引き上げる事になり、それを皮切りに他のギルドも次々と自分達の探索へ戻っていった。『白妙の花冠』、特に一軍の面々は最後の最後まで捜索を続けていたが、今日になってついに疲労から動けなくなるメンバーが出てしまったのだ。

 捜索は、打ち切る事になった。

 深い溜息を吐きながら、セトは寝そべっていたソファから身を起こす。そろそろアベルの定期検診が終わる頃合だ。休憩室を出て明るい廊下へ出ると、待合室の方から微かな話し声が聞こえてくる。何か楽しい話をしているのだろうか、時折笑い声の混じるそれを他人事のように聞きながらセトは診察室の前へと足を運ぶ。扉をノックし、どうぞ、という返事を待ってから部屋の中へ入った。

 まず探したのはアベルの姿だ。彼はいつもと同じように清潔なベッドの上に寝かされて、深い眠りに就いているようだった。セトがほっと息を吐くと、机に向かって書き物をしていたゼピュロスは小さく笑って振り返る。

「今日も異常なし。目が覚めたら宿に戻って良いじゃろう」

「いつもありがとうございます、先生」

「構わんよ、お主らの事は放っておけんからの」

 ゼピュロス自身はそう言うが、やはりありがたい事に変わりはない。セトには医術も巫術も呪術もからきしだ。その道の専門家にアベルを診てもらえるのならこんなに安心できる事はないだろう。ゼピュロスには感謝してもしきれない。

 ベッド脇に置いてあった椅子を引き寄せて腰かけ、セトはじっとアベルの寝顔を見つめる。相変わらず静かな寝姿だ。小さく聞こえる呼吸音と微かに胸が上下している事に気付かなければ、まるで死んでいるように見える事だろう。『こう』なってからはずっとそうなのだ。昔はもっと寝相が酷くて、寝言もムニャムニャとうるさかったのに。

「……異常はないが、疲れが溜まっておったようじゃな。暫く目覚めんかもしれん」

 ゼピュロスが呟く。セトは眉を寄せ、そっと彼の方を見やった。

「捜索に参加しておったんじゃろう?……無理をするのも仕方ないが、それで身体を壊してしまってはのう……」

「……自分も行くって言って聞かなかったんです。昔からそういう性格なんですよ。エドモンドさんの時も、一人で助けに戻ろうとしてたし、……」

 それ以上の言葉が出てこなかった。震える吐息を噛み殺し、膝に置いた拳をぐっと握って俯く。二人も仲間を喪った。父親のようなエドモンドと、姉のようなマチルダと。どちらも善い人だったのに、何故こんな事になってしまったのだろう。

 立ち上がったゼピュロスが黙り込むセトへと歩み寄り、その背中をそっと撫でる。青年の肩はしっかりしているようでその実どこか危ういまでに薄く、強張っていた。……老い先短い自分とは違い、まだ年若い彼に親しい仲間の死は堪えるだろう。大人と子供の狭間を揺れ動くような、どこか儚げな青年へと、ゼピュロスは穏やかに語りかける。

「一人で悩む事はない。お主には仲間がおる。悲しんでおるのはお主だけではないのじゃ……今は皆と共に、ゆっくり休めば良い」

「……先生……」

 優しい微笑みを浮かべるゼピュロスの顔を見上げ、セトはますます表情を歪めた。そうではない、そうではないのだ。ゼピュロスは自分が仲間を亡くした事を嘆いていると思っている。だが実際は違うのだ。セトが嘆いているのは仲間の死ではなく、その死を上手く悲しむ事のできない自分がいる事だ。

 セトは居たたまれない気持ちになった。静かに椅子から立ち上がり、ゼピュロスの顔を見ないまま告げる。

「俺、ちょっと外に出てきます。アベルが起きたらここで待たせておいてください」

 早口でそう言い切ると、返答を待たずに診察室を飛び出していく。廊下を足早に進みながら胸の内で渦巻くのは自己嫌悪だ。

 あんなに善い人達が死んでしまって、悲しい筈なのに悲しむ事ができない。目を閉じれば一緒に過ごしたたくさんの思い出が浮かんできて、あの楽しい時間はもう二度とやって来ないと考えると胸が締め付けられるような気がするのに、同時にそれをどこか冷めた目で見ている自分がいる。『他人の一人や二人死んだくらいで、いったい何をそんなに慌てる必要があるのか』と。

 ──俺は、最低だ。

 思わず立ち止まって顔を覆った。喉の奥がきゅうと苦しくなって、呼吸が上手くできなくなっても、涙だけはただの一滴すら流れてこなかった。


   ◆


 天空の城の探索は順調だった。初めて一軍に入ったセトは慣れないメンバーとの連携に戸惑う事もあったが、そんな時は他の面々が彼に合わせて動いてくれた。慎重に、しかし確実に。『白妙の花冠』は金色に輝く城の内部を進んでいく。その足取りに迷いは無かったが、それでも仲間達の表情にどこか陰りがある事にセトは気付いていた。それをわざわざ口に出せる程、彼は豪胆な人間ではなかったが。

「もうすぐ二十一階は抜けられそうだな」

 地図を眺めながらロアが呟く。どれどれと横から覗き込むが、自分達の現在地が地図のどこにあるのかすらも分からなかった。首を捻るセトの隣で、チアキが苦笑混じりに今いるのは中央左のハサミの記号がある辺りだと教えてくれる。

「……本当にもうすぐ?」

「ああ。多分階段はこの辺りだろう」

 そう言ってロアは地図の中央、まだ何も書き込まれていない場所を指し示すが、何をどう考えればそう判断できるのかセトにはまったく理解できない。

「俺、地図見るの向いてないや……」

「向いてなくても慣れないと。せめて自分の位置と記号の意味くらいは分かってよね」

 固形の携帯食料を頬張るロレッタが呆れたように言う。セトは思わず唸った。メンバーとの連携に術式弾の威力と精度の向上、そして地図の読み書き。できるようにならなければいけない事がたくさんある。こんな事になるなら、採集部隊で地図を読むのをナギやモモコに丸投げしておくんじゃなかった。顔をしかめて手元の紙を睨むセトの姿にロアは小さく笑みをこぼした。

 そろそろ休憩を終えてもいい頃合だ。携帯食料を食べ終えたセルジュが大きな伸びをしながら立ち上がる。

「……さて、今日はもうそろそろ帰ろう。磁軸も近いし、糸は使わなくても良いね」

 その言葉にもう一度地図に視線を落とす。磁軸の記号が書いてある場所と自分達の現在地を確認し、セトはふんふんと頷いた。先程見付けた抜け道を使えば磁軸のある場所までは簡単に戻れる。

 荷物をまとめ、隊列を組んで明るい通路を進む。天井付近にあるステンドグラス越しに落ちた光が無機質な床を色鮮やかに染め上げている。床も天井も壁も、そのどれもが見た事のない固い素材で構成された城内は、不思議と柔らかい光で満ちている。外は稲光を孕んだ暗雲が一面に広がっているというのに、この光は一体どこから差し込んでいるのだろうか。

 何度か戦闘をこなしつつ無事に磁軸へと辿り着き、街へと帰還する。実際に探索をしていたのは数時間程度だが、こうして帰ってくると何とも懐かしい気分になる。迷宮入口の見張りをしている衛士達のお帰りなさい!という声を聞きつつ、荷物の中身を確認していたロレッタが他の四人に問いかける。

「私、薬と包帯買いに行くからついでに素材も売っておくわ。他に要る物ある?」

「ああ、明滅弾を頼むよ。在庫があったら角鈴も」

「了解。行くわよチアキ」

「えっ……?」

 突然腕を掴まれたチアキが目を白黒させている間に、ロレッタは彼を半ば引きずりながらずんずんと交易所を目指して歩いていく。残された三人はその背中を見送って静かに顔を見合わせた。そして揃って肩を竦めると、宿へと向かう道を歩き出す。

「探索には慣れたか?採集とは少し勝手が違うかもしれないが」

「うーん……採集の時は地図が完成してる所しか歩かないけど、こっちはそうじゃないから緊張する」

「ああ、それは確かにね。何か気がかりな事があったら言ってくれよ、探索が上手くいってる今のうちにね」

 これから先、何があるか分からないから。歌うように呟いたセルジュの言葉にロアは何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わないまま三人の間には沈黙が下りた。

 時刻はまだ夕暮れ時にもなっていない頃だ。街を行き交う人々の活気に満ちた声が青い空に響いている。流れていく雲をぼんやり眺めながら歩いていたセトは唐突にある事を思い出してあっと声を上げた。

「ごめん、俺ちょっと『四つ葉亭』に寄ってから帰るよ。倉庫に預けてた銃、取りに行きたくて」

「分かった。夕飯までには戻ってくるんだぞ」

 母親が息子にかけるような口振りで応えるロアに苦笑しながら頷き、セトは歩いてきた道を引き返していく。料理店があるのは二つ向こうの通りだ。どの道を通って向かおうか考えながら、すぐ近くにあった路地裏をそっと覗き込む。家と家の隙間、陽の当たらない暗い道の向こう側は、隣の通りへと続いているようだった。うーむ、と彼は考える。この頃の街の治安を考えるとこういった人目につきにくい場所はなるべく避けたいところだが、しかし今はまだ昼だ。白昼堂々とやましい事を行う者などそういないだろう。

 足を踏み入れた路地裏の空気は湿っていて、吹き込む風が頬に纏わりついてくるような気がした。昼間といえど、こういった空気に晒されるのはあまり心地いいものではない。早く通り抜けてしまおうと顔を上げて出口の方を見たその時だった。

 視界に入ったその姿に、セトは言葉を失った。紙袋を抱えて歩く、桃色の巻き毛に浅黒い肌をした女──こちらに気付いた様子もなく目の前を通りすぎていく彼女を、咄嗟に追いかける。

「待て!!」

 通りを歩いていた人々がぎょっとしたように振り返る。前を歩いていた女がセトの姿を認めて目を見開き、すぐさま踵を返して走り出す。セトもその背中を追って駆け出した。周囲の人々のざわめきが耳にとどくが、それらを気にしている余裕はない。

 やっと見付けた。この三年間、故郷を捨ててまで探してきたのだ。絶対に逃がすものか。

 どのくらい走っただろう。長く続いた追跡にようやく終わりが見えてきたのは、市街地を抜けて人気のない街外れに差し掛かった頃だった。白いブラウスを着た背中が徐々に近付いてくる。思い切り手を伸ばし、その肩を掴む──女の持っていた紙袋が舗装されていない道に落ち、中身が辺りに散らばった。掴んだ肩をそのまますぐ側に立ち並ぶ石壁に押し付け、セトは乱れた呼吸もそのままに言う。

「捕まえたぞ、ユディト……!」

 自身をきつく睨むセトの瞳を見返し、女は表情を歪める。その顔は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。

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