【SQ3】4 戦闘・ナルメル
全身泥まみれである。もう一度言おう。全身泥まみれなのである。
えううう、と嗚咽にも似た声を漏らすのはベロニカだ。星術機を上手く利用して道中のぬかるみを華麗に回避してきた彼女だが、ここにきてついに泥の洗礼を受ける事になった。怒りからか嘆きからか、肩をわなわなと震わせてベロニカは呪詛じみた言葉を絞り出す。
「ぜ……絶対許さない……まるごと捌いて干物にしてやるっ……!!」
「捌いても泥臭くて食べられないんじゃないかな……」
レイファが小さな声で応えたが、ベロニカの耳には届かなかったようである。鼻息荒く周囲を見回す少女の姿に嘆息し、でもなあ、インディゴが言う。
「この状況をどうにかしないと、調理されておいしく頂かれるのは俺たちって事になりそうだけどな……」
茂みの中に身を隠す彼らの視線の先では、爬虫類じみたシルエットの魔物が何匹も闊歩している。一面にぬかるみが広がる大部屋を埋める魔物の群れ……しかし『セレスト・ブルー』の目的はあの魔物たちではない。一行がまるごと捌いて干物にしなければならないのは、この部屋のどこかに潜む大ナマズ、魔魚ナルメルだ。
『セレスト・ブルー』が元老院により発動された冒険者選別試験を受領したのは、もっと先の階層に行きたいという冒険心だとか好奇心だとかそういう理由ではなく、ただただ下心によるものであった。ミッションを完遂すれば報奨金が出る。おまけにナルメルとやらは強い魔物のようだし、素材を剥いで売ればいい感じの収入も得られて一石二鳥だろう……といった魂胆である。
装備を整え、たまたま出会った『ムロツミ』の二人の力を借り──というかむしろ、こちらの方が体よく使われている気しかしないが、それはさておき──泥の中を逃げ回るナルメルと対峙した、そこまでは良かった。
逃げられたのである。戦闘中に。それも盛大に泥をぶっかけられた上で。
ナルメルは泥地を自在に泳ぎ回る湿地帯の主だ。一瞬の隙を突いてぬかるみの中へ飛び込み、目にも止まらぬ速さで逃げ出した大ナマズに人間の足で追いつける筈もない。その上戦闘の気配を察知したのか例の爬虫類のような魔物まで出てきてしまった。どう考えても良くない状況である。
「一度退くって手もあるけど」
「いや……時間を置いたらさっき与えた傷が無駄になる。一気に畳みかけるべきだろ」
「畳みかけるって、どうやって?」
「それが全く分からねえんだこれが」
「そういうの蛮勇って言うんじゃん!!」
ベロニカがもう嫌~……と頭を抱えてうずくまる。怒ったりヤケになったり忙しい娘だ。彼女の頭を撫でようとして、自分の手も泥だらけである事に気付いてそっと引っ込めたインディゴが、ふと空を見上げる。視線の先で音も無く旋回しているのは、ナルメルの行方を捜しに行かせていたオオタカだ。ティルが腕を差し出せば、彼女は翼をはためかせながら籠手の上に降り立つ。
「何て言ってる?」
「んー、サカナ、ドロのしたでおよいでるって。あっちのほう」
ティルが指さした方向は部屋の北西方向だ。案の定、ナルメルは魔物たちを越えた先にいるようである。オオタカに報酬代わりの干し肉を与えるティルを横目にレイファがうーんと唸る。
「最初にあいつを追い詰める時に使った抜け道じゃ、流石に無理かな」
レイファが言っているのは部屋の東側にある隠し通路の事だ。『ムロツミ』の星術師カナエの助言に従い、まず逃げ回るナルメルを部屋の隅に追い詰め、その上で抜け道を利用して背後から奇襲をかけるという方法を使って戦闘に持ち込んだのである。
「もう一回さっきと同じ場所に追い詰める?」
「それにしてもあの……何だ? あのうぞうぞしてる奴が邪魔だろ」
「確かにあんなのがいる中を往復して追い詰められるかっていうとね……」
「うーん、こっち側にもう一個抜け道があったらな……」
「あるが」
「え?」
それまで黙っていたカゲチヨの急な発言に三人が揃って振り返る。カゲチヨは少々面食らったような様子で、腰に下げていた短刀をそっと抜くと部屋の東側の壁へ歩み寄る。石造りの壁を覆う蔦葉をいくつか刈り取れば、そこにあったのは人ひとりが余裕をもって通れそうな大きさの抜け穴だ。その先には抜け道と呼ぶにはやけに整った通路が広がっている。
「……あったのかよ! そういう大事なことは早く言え!」
「全員気付いているものだと思っていた」
「完全に片側にしか無いもんだと思い込んでたよ……」
「これ、ナルメルの所まで繋がってるか?」
「恐らくは」
「……それで、本当に畳みかけるの?」
すっかり落ち着き、地図に抜け穴の位置を描き込んだベロニカが問う。とりあえずこれでナルメルの元へは辿り着けるだろうが、そもそもの最終目標は討伐である。いくら追い詰めたところで戦闘に勝てなければ意味が無い。
ベロニカの問いかけに、インディゴが肩を竦めて答える。
「行くしかないだろ。まあさっきみたいにやれば何とかなるさ」
巨大なナマズが泥に身を沈めてじっとしている様子が、茂み越しに確かに見える。息を潜めて身を隠していた一行はその姿を確かめると互いに目配せし合い、それからすぐに行動を始めた。
ベロニカが星術機を起動し、掌を掲げる。迸った閃光が矢のごとく形を変えたかと思うと、瞬きひとつの間にこちらに背を向けていたナルメルの無防備な背に着弾した。途端に身を捩って悶え始める大ナマズにすかさずカゲチヨがクナイを放つ。
刃が尾ビレに突き刺さった瞬間、動きが鈍った。その隙に『セレスト・ブルー』は茂みから飛び出して一斉攻撃をかけ始める。ここまで来るともう作戦もへったくれもない。とにかくまた逃げられる前に倒しきる、それだけである。
オオタカと連携しつつ攻撃を繰り返していたティルに向かって、ナルメルのヒゲが鞭のように振るわれる。咄嗟に避けられず、思わず固まった彼にヒゲが襲いかかる……が、その直前に飛び込んできたレイファが気合と共に繰り出した拳でもって攻撃を弾き返した。はっと我に返ったティルを慌てて振り返り、彼女は言う。
「怪我してない!?」
「してない!」
「良かった、危ないから後ろにいなね」
ん、と頷いてティルは前線から下がっていく。
ヒゲを空振りし、体勢を崩したナルメルにカゲチヨが肉薄する。彼は尾ビレが跳ね上げた泥を避けつつ、短刀を振るって胸ビレを切り裂いた。途端に嫌々をするように暴れだした巨体から距離を取ったカゲチヨと入れ替わりで今度はベロニカが攻撃の構えを取る。雷が弱点である事はこれまでの戦いの中で既に分かっている。狙いをつけ、迷わず雷の術式を放つ。
星術を受けたナルメルが怯んだように身を縮める。その一瞬を見計らって飛び込んだインディゴが、目を狙って突剣を繰り出す。柔らかいものが潰れる感触。ひときわ大きく仰け反ったナルメルは、体を激しく波打たせて尾を振るうと目にも止まらぬ速さで泥の中に潜っていく。
「やべえ、潜りやがった! いや、まだそう遠くには……」
「あ、ごめん頭痛くなってきたからアムリタ飲んでいい?」
「それ貴重品なんだぞお前! 良いよ好きにしろよ!!」
アムリタの封を切って飲み始めるベロニカは放置し、インディゴは素早く辺りを見回す。いくら泥に身を隠しているとはいえ、あの巨体である。移動すれば必ず何らかの痕跡が残る筈だ……例えばぬかるみに浮かぶ波紋だとか、微かな地面の揺れだとか、そういったものが。
感覚を研ぎ澄まして気配を探るインディゴの隣で、カゲチヨがおもむろに足下に落ちていた枝を拾い上げる。しばしの間じっと枝を見下ろしていた彼は、何を思ったの子供の腕ほどの太さのそれをすぐ傍のぬかるみに突き刺した。インディゴがえっ……と振り返る。泥の中に立つ枝を見て、カゲチヨはぽつりと呟く。
「外れか」
「え……? お前急に何して……いや、待て、今……」
カゲチヨから視線を外し、インディゴはもう一度地面を睨む。少し離れた位置のぬかるみが僅かに波立ったのは見間違いではない。となると、これは。
「チヨ! その枝ちょっと適当な泥にぶっ刺してくれ!」
「分かった」
「ティルも暇なら槍で泥遊びしてな!」
「あそぶー!」
「ちょっ……」
レイファが止める間も無く、ティルが勢いよく槍をぬかるみに叩き込む。びちゃ! と音を立てて飛んだ泥が顔にかかったレイファの目から光が消えるが、今はそちらに構っている場合ではない。
カゲチヨがもう一度、今度は先程とは違う場所に枝を刺して掻き回す。一拍置いて、また少し離れた場所のぬかるみが揺れる──それを頭で認識するより先にインディゴは駆けだした。
「……ここだオラッ!!」
渾身の力を込めて突剣を泥に突き立てる。確かな手応えが掌に伝わり、次の瞬間、ぬかるみの中にいたナルメルが泥を跳ね上げて身悶えした。傷だらけの巨体があらわになる。
すかさずカゲチヨがナルメルの潰れた片目に向かって針を投擲する。突き刺った含針に仕込まれた即効性の睡眠毒が、魔魚の動きを僅かに鈍らせた。足下を薙ぐ尾ビレを寸でのところで避け、インディゴは背後を見ないまま大きく叫ぶ。
「ベロニカーッ!!」
「はーい!」
元気な返事と共にベロニカの掌から雷の星術が放たれる。アムリタを飲んで気力を取り戻した彼女の術式は、息も絶え絶えに暴れるナルメルに引導を渡すには十分な威力だった。全身を痙攣させながら崩れ落ちたナルメルは、それでもなお何度かびくびくと跳ねて、それからふつりと糸が切れたかのように動かなくなった。
「……死んだ?」
「……たぶん」
インディゴとレイファが顔を見合わせ、それから大きく息を吐いて脱力した。カゲチヨが短刀を手に死骸へと近づいていき、ベロニカがその後を追いかけていく。どうやら早速素材を剥ぎに行くらしい。周到な事である。
泥まみれのティルが何が起こったのかよく分かっていなさそうな表情で駆けてきた。大ナマズの死骸を見て、しんでるぞ! と声を上げる彼の顔を拭ってやりながらレイファは呟く。
「……で? これで次の階層に行けるんだっけ?」
「元老院のばあさんはそう言ってたけどな。……何だよその目。不満か?」
「いや……もう良いや。この際だし行ける所まで行ってみようか」
「船長みてみて、でっかいヒゲ! これ持って帰ろ!」
ベロニカがはしゃいだ声を上げる。見てみれば、彼女の腕には巨大な魚のヒゲが抱えられていた。インディゴは呆れた調子で応える。
「捌いて干物にするんじゃなかったのか?」
「それはもういいの!」
鼻歌混じりにヒゲを運んでくる彼女の顔には満面の笑みが浮かんでいる。どうやら服を泥だらけにされた恨みなど綺麗さっぱり忘れてしまったようだ。インディゴは思わず溜息を吐いた。言いたい事は色々あるが、まあ、あの変わり身の早さは見習うべきかもしれない。
背後で扉が開く音。振り返ってみれば、『ムロツミ』の二人……アガタとカナエが部屋に入ってくるところだった。シノビの少年がニコニコと人懐っこい笑みを浮かべて近づいてくる。利用されたのは癪だが、上手く戦闘を避けて苦労する事なく目的を果たしたその手腕は評価すべきだろう。
こうして、魔魚ナルメル討伐完了の功績でもって『セレスト・ブルー』及び『ムロツミ』は冒険者選別試験をクリアし──迷宮第二層・海嶺ノ水林へと進む権利を無事に得る事ができたのだった。
◆
『セレスト・ブルー』がナルメルとの戦いに勝利した、その数日後の事である。
ルル・ベルはその時、パーニャと共に市街地から少し離れた砂浜を散歩していた。今日はギルドで決めた「ノー探索デー」、つまり休日だ。とはいえどこか出かけるあてがあるでもなく、かといって目的もなく街をうろつくのも憚られる。そういう訳でルル・ベルは当初、宿でゆっくり読書でもしようかと思っていたのだが、午後になって急にパーニャが外に出ようと誘ってきたのだ。
「酒場のお姉さんに綺麗な砂浜があるって聞いたんです。ずっと宿にいるのも何ですから、一緒に行きましょう!」
そういう訳で連れてこられたのがこの砂浜だ。数歩先を行くパーニャが砂の上を跳ねるように歩いているのを、ルル・ベルは目を細めて見つめた。彼女は裸足だ。丸みを帯びた足のかたちが、砂の上に点々と刻まれている。
正直なところ、祖国を出るまで海というものを見たことがなかったルル・ベルには、砂浜の美醜はよく分からない。だが延々と広がる海の色は胸に染み入るような青であるし、パーニャの踏む砂は白く涼やかだ。絵にでも残したい景色だ──過った考えをすぐさま打ち消した。絵では駄目だ。きっと潮騒と頬を撫でる風の匂いとが合わさってこそ、この景色の真の美しさは完成するのだ。
……ちなみにこの砂浜は何を隠そうセレスト・ブルー海賊団が船を失って流れ着いた場所でもある。当然の事ながら、ルル・ベルたちにはそんな事は知るよしも無いが。
「……ルル・ベル様! 見てください、ヒトデですよ」
ニコニコと笑いながら振り返ったパーニャが差し出したのは、見慣れない星型の何かだ。ルル・ベルは問い返す。
「ヒトデとは何だ?」
「ええっと、実はアタシもよく知らなくて……でも海の生き物らしいですよ。こうしてカピカピになってるやつはもう死んでるそうですけど」
「そうか……海棲生物は実に多種多様だと聞いていたが、そんなものもいるのだな……」
受け取ったヒトデを手に乗せてまじまじと観察するルル・ベルの姿に、パーニャはより一層笑みを深くする。敬愛する主をもっと楽しませるため、他にも面白いものが落ちていないかと探し始めた彼女は、ふと遠目に気になるものを見つけて首を傾げた。
「あれ……なんかでかいの落ちてる」
パーニャの呟きにルル・ベルも顔を上げて、彼女の見ている方向に目を向けた。確かに離れた場所の波打ち際に何か大きいものが横たわっているのが見える。距離があるためはっきり見えないが、人間の大人ほどの大きさがあるように思える。……いや、人間の大人ほどのというか、人間ではないだろうか、あれは。
「ルル・ベル様、アタシの後ろに。少し離れてついてきてください」
「……ああ、そなたも気をつけろ」
神妙に頷いたルル・ベルに頷き返し、パーニャは護身用のナイフに手をかけつつゆっくりと人間らしき物体に近づいていく。
距離を詰めて見てみれば、それがやはり人間であるらしい事が分かった。しかしわざと足音を立てて歩み寄っても倒れている人物が反応する素振りは無い。
パーニャが慎重に倒れている人物の顔を覗き込む。男だ。纏っている服は東洋風のそれのように見える。恐る恐る手を伸ばし、気を失っているらしい彼を軽く揺さぶる。
「ちょっと……生きてる?」
「────、ぅ……うぅ……」
「わっ!」
思わず後ずさるパーニャの前で、男が微かに肩を揺らした。言われた通り少し後ろに立っていたルル・ベルが身を乗り出して彼に声をかける。
「大丈夫か……?」
「……ぅう……ぃ……み……」
「み?」
「…………み、水…………」
ルル・ベルとパーニャは顔を見合わせる。掠れた呻きを漏らす男と、どうしたものかと立ち尽くす二人の間を、潮風が吹き抜けていく。
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