【SQ3】6 揺蕩う水面に血

 探索は順調だ。床に転がった赤い五芒星のような形をした魔物の死骸を剣の先端でつつき、ルル・ベルはおお……と呟く。

「パーニャよ、もしやこれが砂浜で見たヒトデという生き物か?」

「えっ! う、うーん……多分そうだと思いますけど……でもこいつは砂浜に打ちあがってたのより、かなり大きいですね……」

「アカトビヒトデっていうらしいですよ」

 重そうな書物を腰のホルダーにしまいながらアルフレッドが話に入ってくる。パーニャがむっとした表情を浮かべたが、彼は意に介した様子もなく続けた。

「ヒトデの仲間なのは確かですけど、こいつは普通の海にいるやつより大きさも凶暴性も桁違いですね」

「詳しいな。そなたは普通のヒトデを見た事が?」

「ええ、港町の出身なもので。食べられないしこれといって有用な使い途もないし、漁師からは嫌われてましたよ」

「そうなのか……形は愛らしいのに、不憫だな……」

 哀れみを込めた目でヒトデを見下ろすルル・ベルに苦笑しつつ、アルフレッドは少し離れた場所で何やら話し込んでいたシナトベとライディーンに視線を向ける。戦闘後の処理は終わったらしい。治療が必要な者もいないようであるし、そろそろ先へ進むべきだろう。

 海嶺ノ水林はサンゴが分泌する特殊な膜の内部に空気が溜まる事で形成された迷宮である。海の中に存在しているため見上げれば水面から射した日の光がきらきらと揺らめいているし、時折頭上を泳ぐ魚の影がふと落ちては通り過ぎていく。不思議な感覚だ。視界に入る全てが青に包まれた光景は幻想的でつい目を奪われそうになるが、あまり景色にばかり気を取られてもいられない。警戒をおろそかにして魔物に襲われたら文字通り海の藻屑になるだけだ。

「それにしても、本当にあるのかね。その……深都ってやつは」

 戦闘を歩いていたライディーンが呟く。

 深都とは百年前の大異変の際に海底に消えた都市、らしい。失われた古代の技術を保有しているとか、地上にあるような「抜け殻」ではない本物の世界樹があるとか、そういった噂は海都に古くから伝わっているのだが、実際にその深都に辿り着いた者はいないのだという。

 『カーテンコール』は現在、その深都へ繋がる隠し階段を探している。正確には次の階へ続く階段を探しているという方が正しいのだが、まだ探索していなかった通路の先に深都へ続く道があると聞いたため、ついでに探しているといったところだ。

『きっとその奥に深都の手がかりがあるんです。だからみなさん、お願いします』

 オランピアと名乗った少女はそう言っていたが、これまでに数多くの冒険者が探しに行き、しかし見つけられないどころか戻ってもこなかったという隠し階段を、今更見つけられるのだろうか。どちらにせよこのフロアで探索していない場所はもうこの通路の奥のみであるため、探索しないわけにはいかないのだが……。

 通路を遮る海流の向きを地図に描き込みながらシナトベが応える。

「実在するかはさておき、浪漫があるわよね。失われた海底都市なんて」

「ちょっと行ってみたいよね。住んでる人とかいるのかな?」

「古代技術とやらも気になるぞ」

 きゃいきゃいと意気投合する女性陣を横目にやれやれと苦笑するライディーンだったが、曲がり角の先を覗き込むとにわかに表情を険しくした。通路の先に落ちる巨大な影……見た事のない魔物だ。声を潜め、彼はアルフレッドを呼ぶ。

「星体観測を頼む。F.O.Eだ」

「了解。……見た事無いヤツですね」

 曲がり角の向こうを「泳いでいる」のは群れをなした魚の魔物だ。オランピアの言っていた「古代魚」とはあの魔物の事だろう。星体観測を発動してしばらく動向を見てみると、数は多いが動きそのものは単調であるらしい。こちらに気付いて追いかけてくる様子も無い。上手く進めばすり抜けられるだろう。

 武器を構え、万が一に備えてアリアドネの糸の準備をしつつ、魚の徘徊する通路へ踏み出す。一列に並んだ巨大な魚が視線の高さを泳ぎ回っている姿はそれだけで恐怖を感じるが、あらかじめ星体観測で動きを把握できていたお陰もあり、何とか冷静にその場を切り抜ける事ができた。何事も無かったかのように背後を通り過ぎていく魚たちを見送り、一行はほっと息を吐く。

「あ~怖かった。なに? 大きすぎるでしょ、あの魚」

「海棲生物は奥が深いな」

「あいつは魔物だし、海棲生物の枠にはめるのはどうなんでしょう……」

「何だと……では実際にはあのような大きな魚は……?」

「いるっちゃいますよ。サメとか勇魚とか」

「ルル・ベル様、お話し中失礼しますが……突き当たりが見えてきました」

 ライディーンが通路の向こうを指さす。目を凝らして見てみればまっすぐに続く道の先には開けた空間が存在しているようだ。脇道なども無いようであるし、もし階段があるとすればあそこの可能性が高いだろう。

 周囲を確認しつつ、一歩一歩ゆっくりと通路の奥へ進んでいく。やがて突き当たりの小部屋に辿り着いたが……そこには、何も無かった。下階へ続く階段も深都の手がかりも、それらしきものは見当たらない。代わりに床一面に武具や装備品の残骸が散乱している。新しいものから古いものまで、大量に。そしてその下に見える床やサンゴにこびりついた、赤黒い染み。

「──抜かった。これは……まずいわ」

 固い声でシナトベが言う。振り返ってみると、先程と同じ魚の魔物が部屋に入ってくるのが見えた。合わせて三体。音も無く宙を泳いで侵入してきた魔物はあっという間に広くない空間を埋め、こちらへ向かってこようとする──。

「姫様!!」

 パーニャが声を上げ、ルル・ベルの手を取って駆けだした。一瞬の間を置き、先程までルル・ベルが立っていた場所を魚の尾が薙ぐ。そのすぐ後ろに控えていたもう二体が大口を開けて突進してくるが、アルフレッドが放った炎の術式が顔面に命中した事で動きが止まる。だがその隙に体勢を立て直したもう一体が動き出していた。これではキリがない。牽制にともう一発術式を放ちながらアルフレッドは叫ぶ。

「ああくそ! こんな事ならタマキと代わっておけば良かった!!」

「文句は後にしてくれ!」

 ライディーンが盾を大きく振りかざして攻撃を引きつける。彼の誘導によって、三体の魔物は通路側から部屋の奥の方へと移動していた。パーニャがルル・ベルを連れて通路へ退避していく。それを追いかけようとした魚の横っ面に、シナトベが振り抜いた槌がめり込んだ。それを追うようにアルフレッドの術式が着弾する。

 音を立てて爆ぜた術式の炎を浴びた魔物の動きが鈍る。

「今だ! 退くぞ!」

 ライディーンは一声叫ぶとアルフレッドを通路へと押し出し、それから最後に部屋に残ったシナトベを見た。彼女は炎の中を突っ切って突撃してきた一体のヒレの一撃を軽やかに避けると、槌を振りかぶってその顔面に思いきり叩きつける。鼻先が潰れる音。悲鳴のような声を上げて仰け反る魔物に、シナトベはなおも追撃を食らわせようとしたが、ライディーンがそれを許さなかった。

「シナトベッ!!」

「……分かってるわ」

 痺れを切らしたライディーンの怒鳴り声に応え、シナトベはようやく身を翻して駆けてくる。彼女が完全に通路へ出たのを確かめ、ライディーンも走り出す。魔物たちは少しのあいだ追って来ようとしていたようだが、距離が開くにつれたこちらに興味を失ったらしい。静かに部屋の中へ戻っていった。

 通路の真ん中で足を止めたパーニャが、ルル・ベルの手を握ったまま大きく息を吐く。

「ああ~……もう、何だったの……」

「今までここを探索した冒険者たちは、あの部屋で……?」

 ルル・ベルが困惑したように呟く。状況から見てそう考えるのが妥当だろうが、しかし。

「オランピアの情報が誤っていたという事か? いや、だが、それにしては……」

「……彼女が冒険者をわざとここに送り込んでた、という可能性は?」

 微妙に息の上がっているアルフレッドの言葉に、他の四人は圧し黙る。血に染まった部屋と装備の山……ただ迷い込んだ冒険者たちが殺されたというだけではああはならないだろう。あのオランピアという少女が無数の冒険者を罠にかけ、あの部屋で間接的に殺害していたという可能性は十分すぎるほどにあり得る。しかしそうする理由が分からない。

 しばしの沈黙が流れる。神妙な様子でたっぷり数十秒黙り込んでいたルル・ベルが、はあと息を吐いて仲間たちの顔を見回した。

「とにかく……一度戻ろう。先程の場所にまだオランピアがいるやもしれぬ」

「そうですね。あんな危ない目に遭わせたんだから、一言謝らせないと」

「そんな簡単に済む話かしら……」

 あらかじめ見つけていた抜け道を通り、海流で入り組んだ通路まで戻る。先程のように魔物が急に追いかけてこないかと警戒していたが、今のところそのような様子は見られない。ひとまず胸を撫で下ろし、もと来た道を戻っていこうとしたその時だった。すぐそこを流れていた海流の向こうから話し声が聞こえてきたかと思うと、ザバザバと音を立てて複数の人影が流されてくる。

 もしやオランピアに送り込まれてきた冒険者かとそちらを見たルル・ベルが、そこに立っていた人物の顔を見てあっと声を上げる。眉間のシワをますます深くして今にも相手に噛みつきそうな様子のパーニャを抑えつつ、彼女は呆れたような複雑な表情で言う。

「そなたらとは本当に縁があるな……」

「開口一番それか。で、本当にあったのか? 深都への隠し階段とやらは」

 海流に揉まれて少々しっとりしたインディゴが肩を竦めて問う。やはり彼ら『セレスト・ブルー』もオランピアにそそのかされてやって来たらしい。ルル・ベルは溜息をひとつ吐き、これまでの経緯を話し始めた。


 結局、オランピアに事の真相を訊ねる事は叶わなかった。情報共有を終え、連れ立って元来た道を戻っていた『カーテンコール』と『セレスト・ブルー』の目の前で、彼女はいとも容易く傍らの大木を折り、言った。「命惜しくば深都を目指すな」と。

 話し合いの結果、二つのギルドはひとまず海都に戻る事にした。まず何はともあれ、多くの冒険者がオランピアによって間接的に殺害されていた事を元老院に報告すべきだと判断しての事である。総勢十名の大所帯で樹海磁軸へ向かっていると、流石に魔物も物音に警戒してかあまり出てこない。

「……でもさー。オランピアがあんな風に言ってたって事は、やっぱり深都は実在してるんだ」

 ベロニカが言う。オランピアはこちらを脅すだけ脅して樹海の奥へ消えてしまったためその正体は謎のままだが、どうやら彼女が深都に誰も立ち寄らせたくないという事だけは確からしい。しかし、彼女のその行動によって『カーテンコール』と『セレスト・ブルー』は今まで半信半疑だった深都の存在に確証を得たのだから、皮肉というほかない。

 ベロニカの言葉にルル・ベルが頷く。

「うむ。あれほどまでに我々を拒絶するのだ、余程冒険者を深都に近づけたくないのだろう」

「第一層うえでテント配ってたのも、信用を得て罠に嵌めやすくするためってか? 良い趣味してやがる」

「でも何なのかしらね。そうまでして深都を隠したい理由って」

 シナトベの呟きに答えられる者はいない。そもそも深都がいったいどんな場所なのかもはっきり分かっていないのだ。結局のところ一介の冒険者風情には十分な情報も事件を解決するための力も無いのだから、とにもかくにも上の判断を仰がねばどうにもならない。

「それにしても……二層に来たらもっと稼げるかと思ってたけど、あんな危ないやつがいるんじゃ割に合わないね」

「きみらは出稼ぎか何かのために冒険者になったのかい? 本業は船乗りのようだが」

 ライディーンがそれとなく訊ねる。問われたベロニカは一度口をつぐみ、横目でインディゴの様子を確かめてから答えた。

「そうだよ。この間あなたたちが倒したサエーナ鳥に船を沈められちゃったから、こうやって稼ぐしかないの。あと船乗りじゃなくて海賊って言われる方が嬉しいかな」

「海賊……? おれの知ってる海賊のイメージと違うな……」

「でも私たち海賊だもん」

「そう言うあんたたちは何のために世界樹に?」

 レイファがそう訊き返せば、ライディーンは答えあぐねるように黙り込んだ。見兼ねたルル・ベルが彼の背後から顔を出して代わりに答える。

「大した理由でもない。世界樹に潜って一攫千金……などどいうような、よくある噂につられてやってきただけだ」

「そうなの? いい所のお嬢様みたいな格好してるから、何か事情があって来たのかなって思ってた」

「どうであろうな。どうあれ、懐具合に関してはそなたらとそう変わらぬ」

 柔らかく微笑むルル・ベルだが、それ以上の事を語ろうとする様子は無い。レイファとベロニカは顔を見合わせたが、彼女たちもそれ以上は追及しなかった。

 一連のやりとりを少し後ろから眺めていたインディゴは、話題を変えてベロニカにヒトデがどうこうと話し始めるルル・ベルの姿をしばし眺め、それから最後尾でティルにじゃれつかれているカゲチヨを振り返る。金の瞳と視線がかち合った。こちらの動向を窺うように見つめ返してくる彼に肩を竦めてみせ、彼は視線を前方へ戻す。


   ◆


 元老院の対応は迅速だった。報告を受けた元老院の老婆……フローディアはすぐさまミッションを発動し、オランピアの行方を追うよう命じた。現在、海嶺ノ水林には厳戒態勢が敷かれている。派遣された衛兵隊が各地を回り捜索を行っているが、例の古代魚や他の魔物に邪魔されて上手くいっていないようだ。

「……報告だけするつもりが、すっかり巻き込まれちまったな……」

 降り立った地下五階の景色を眺めつつインディゴがぼやいた。ミッションが発動されたその場にいた『セレスト・ブルー』と『カーテンコール』も、当然の流れで捜索に参加している。面倒な事になったとは思うが、あの流れでミッションを受けない選択をすれば確実に顰蹙ひんしゅくを買ったであろうし、仕方ないといえば仕方ない。

「『カーテンコール』の方も今頃どこかで探索してるのかなあ」

「かもな。……俺らも行くか。今日は先に六階を回って、それから七階の探索の続きだ」

 インディゴはそう言いながら描きかけの地図を広げる。地下七階から先は元老院にとってもほとんど未知の世界だ。多くの冒険者が例の古代魚の巣で殺されていたのだから当然の事ではあるが、ただでさえ入り組んだ迷宮を情報が少ない中で捜索するのは流石に無理がある。

「何事もまずは地図を描くところからってな。その間に誰かが奴を捕まえてくれりゃ楽なんだが」

「えー、でも手柄とられちゃったら報酬もらえないかもよ?」

「ああ……うーん、でもなあ。金だけくれねえかな……」

「無茶言わないの」

 レイファがたしなめるように言う。インディゴは苦笑し、冗談だ、と呟いた。

 海嶺ノ水林は重い静寂で満ちている。色とりどりのサンゴに覆われた床を踏みしめる音だけが響く空間を、五人は慎重に進んでいく。時折飛び出してくる魚やヒトデの魔物への対処にもかなり慣れてきた。だからといって調子に乗っていられるほど、彼らは能天気ではなかったが。

 見覚えのある通路に出たところで一行は足を止める。

「ここだね。オランピアが立ってたの」

 レイファが指した先、地上では見られない木々が立ち並ぶ林には、不自然に空間が開いて抜け道のようになっている箇所がある。オランピアが逃走する際に木を斬り倒した場所だ。木々の向こう側には細い通路が見えており、その突き当りには下階へ繋がる階段がある。

「どうする? もう下に行っちゃう?」

「あっち側はまだ探索してないけど……」

「もう下りちまっても良いだろ。あっちに行ったところで、古代魚の巣しか……」

「──古代魚の巣!?」

 突如聞こえてきた声は、五人のうちの誰のものでもない。はっと振り返れば、少し離れた場所に見覚えのあるシノビの少年が佇んでいるのが見えた。その背後にはどこか顔色の悪い星術師の少女の姿。『ムロツミ』だ。

 待って、と細く呼ぶカナエの声を無視し、アガタはどこか焦ったような表情で『セレスト・ブルー』の元へ近付いてくる。

「古代魚の巣って言ったよな。場所を知ってるのか? 頼む、オレに教えてくれ!」

「は? 何で急に……」

 そんな事を、と言いかけたところで、インディゴはにわかに表情を曇らせてアガタの背後、俯きがちに立ち尽くすカナエを見る。どこか憔悴した様子の彼女に「アガタに古代魚の巣を教えないでほしい」と懇願された事は記憶に新しい。溜息をひとつ吐き、固い声で告げる。

「お前がどこで何をしようが勝手だが、俺たちを巻き込むんじゃねえ。それにあんな場所、行ったって何も無いだろ」

「おたくらには無くても、オレにはある」

 自身を見下ろすインディゴの青い瞳を、アガタは睨みつけるように見返す。彼は背後のカナエをちらりと見やり、彼女に聞こえないよう小さな声で言った。

「カナエの親父さんがこの迷宮で行方不明になったって言っただろ」

 それは、第二層の探索を始めたばかりの頃に彼本人から聞いた事だ。カナエの父は冒険者であったがこの迷宮で消息を絶ち、そのショックでカナエは父に関する記憶を失ったのだと。インディゴはがしがしと頭を掻く。

「古代魚の巣に手がかりがあるって?」

「オレはそう思ってる。……カナエはあの場所を怖がってる。それには何か理由がある筈だし、それがきっと記憶を取り戻す鍵なんだ」

 少年はまっすぐな目で続ける。

「それがどれだけ辛い記憶だとしても、思い出せなきゃカナエはずっと苦しむ事になる。ひとりじゃ抱えきれないって言うならオレが一緒にいればいいだけの話だろ。オレはもう……アイツが無理して明るく振舞う姿は見たくないんだ」

「……お前は……」

「だからちょっと借りるぜ!」

「あ!?」

 アガタが素早く腕を伸ばし、ベロニカの手にあった地図を奪い取る。地図そのものは数秒と経たないうちにカゲチヨが取り上げたが、アガタにはその僅かな時間だけで十分だったらしい。

「サンキューな、『セレスト・ブルー』! 行こうぜカナエ!」

 にこやかにそう言い残し、こっちだな、と彼は東に伸びる通路へと駆け出していく。止める暇も無かった。一行が立ち尽くしている間に、少年の後ろ姿は驚くべき速さで通路の奥へと消えていく。

「……行っちゃった」

「追うか?」

「ええ……いや、うーん…………待て、カナエはどこ行った」

 インディゴの言葉に辺りを見回してみると、先程まですぐそこに立っていた筈のカナエの姿がいつの間にか消えていた。話に興味なさげに辺りのサンゴをつついていたティルがおもむろに顔を上げて通路の向こうを指さす。

「あっちいった」

「追いかけてったのか!? 面倒なガキ共だな!」

「どうするの? あたしたちも行く?」

 レイファの問いにインディゴは盛大な溜息を吐く。それからカゲチヨから受け取った地図を広げ直して、まっすぐ東に伸びる青い通路に足を向けた。


 通路の先の地図は完成こそしてはいるが、『セレスト・ブルー』が実際に歩いたのは海流の吹き出す地帯を抜けた先までだ。そこから古代魚の巣までの地図は『カーテンコール』が描いたものの写しである。手探りで木々の隙間を確かめ、通った事のない抜け道を探す。

 ちょうど人ひとりが通れる大きさの裂け目を抜けた先にはカナエがいた。彼女は肩で息をしながらどこか怯えたような目で通路の先を見据えている。声をかけようとした、その時だった。通路の先から──古代魚の巣から、奇妙な叫び声のような不気味な声が響いてくる。カナエは肩を震わせて、顔を上げた。

「アガタ……!」

 乱れた呼吸もそのままに駆けていく彼女を、『セレスト・ブルー』はすぐには追わなかった。荷物からアリアドネの糸を取り出し、装備を確認し直してから慎重に足を進める。その間も無気味な声は断続的に響いていたが、一度何かが爆ぜるような音が空気を震わせたかと思うとそれきり聞こえなくなった。

 突き当りの部屋に踏み込む。何とも知れぬ金属片や朽ちた布が無数に散らばる赤い部屋に、カナエは座り込んでいた。彼女の目の前に横たわるのは全身を血で汚し、それでも安らかな顔で眠る少年だ。

「……思い出したんです。その時、アタシを庇い、アガタが……」

 カナエはぽつりぽつりと語る。かつて父と共にこの場所へ来た事。父が自分を庇って倒れた事。糸を使って脱出した自分だけが助かった事。……すべてを思い出し呆然としていた自分を、アガタが庇った事。

「アタシを守ろうとして父さまも……アガタも……、……」

 それきりうなだれたまま口をつぐむカナエに、誰が声をかける事もなかった。重い沈黙が落ちる。痛いほど静まり返った空気の中、カゲチヨがふと背後を振り返る。通路に視線を向け、その手にクナイを構えながら彼はインディゴを呼んだ。分かってる、と応え、インディゴはカナエを見る。

「次が来る。脱出の手段は持ってるか」

「…………」

「無駄死にしたいってんなら、止めねえさ。……出るぞ」

 部屋の外から群れをなした魔物がやってくる気配がする。レイファがアリアドネの糸を広げる……が、その前に、ベロニカがちょっと待って! と叫んでカナエの元に駆け寄った。

「カナエ」

 静かな声で呼び、予備の糸を彼女の手に握らせる。カナエは応えなかった。しかし細い指先はしっかりと糸の束を握っており、それを確かめたベロニカは気遣わしげな表情を浮かべながらも四人の元へ戻っていく。アリアドネの糸が発動したのは部屋に古代魚の群れがゆっくりと侵入してくるのと同時だった。微かに震えるカナエの背中が、術式の光に阻まれて見えなくなる。


 それからカナエと顔を合わせる事は無かった。彼女が生きて迷宮から戻ったのかすら定かではないが、数日経ってから聞いた風の噂では『ムロツミ』は解散したのだという。全滅や壊滅ではなく、解散したと。

「でもやっぱり、後味悪いね」

 レイファが呟く。夕暮れ時の羽ばたく蝶亭は探索帰りの冒険者で賑わっている。他の客たちは思い思いの酒や料理を堪能するのに夢中で、神妙な顔をしている彼女の事など誰も気にかけていないようだ。

 隣で口いっぱいに大槍烏賊の漁師煮を頬張っているティルの口許を拭ってやるレイファに、インディゴが言う。

「仕方ねえだろ。それに、俺らが巻き込まれてなくてもあいつらは勝手にあそこまで進んでたと思うぜ」

「そうかもしれないけどさ。関わっちゃった以上は、ね」

「あんま流されんなよ」

 諫めるような物言いに眉を寄せるレイファに肩を竦め、インディゴは魚介のパスタをフォークに巻きつけて口に運んだ。もぐもぐと咀嚼する彼から視線を外し、レイファはティルの髪を撫でる。嬉しげに頭を押しつけてくる少年を構ってやりつつ蜂蜜酒のグラスに口をつける彼女の耳に、小さな声が届く。

「ま……忘れたい過去なんて、そのまま無かった事にした方が良いって事だな。過ぎた事に足を取られて未来を奪われるなんて、そんなのは無様ってもんだろう」

 レイファは静かに顔を上げた。何度か瞬きをして、それから普段より幾分か低い声で彼女は問う。

「あんた、誰の話をしてるの」

 答えは無い。インディゴはレイファを見ないまま、何事も無かったかのように食事を続けている。話が分かっているのかいないのか、どこか不安げに自分を見上げてくるティルの肩を擦りながら、レイファはインディゴの手の内にあるフォークをじっと睨んだ。銀のフォークは陶器の皿の上を滑るように、静かに行き来している。

 扉が開く音。見てみれば、商店へ素材を売りに行っていたベロニカとカゲチヨが戻ってきたところだった。途端に上機嫌になって二人に絡み始めるインディゴの姿をレイファは冷ややかな目で見ていたが、やがて大きく息を吐くと残っていた蜂蜜酒を一気に飲み干した。

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