【SQ3】10 再会

 深王の命に従い、第三層・光輝ノ石窟を進んで地下十階まで辿り着いた『カーテンコール』を待っていたのは、「フカビト」との邂逅だった。

 海底に巣食い、恐るべき「魔」を崇める魔物──それがフカビトであるという。『カーテンコール』も実際に目にして思い知った。断罪の間に囚われた「真祖」と、その血肉から無尽蔵に生まれ襲いかかってくる人間と魚の合の子のような姿をしたモノ……あれは脅威だ。理屈ではなく、本能に近い部分でそう感じる。

 人類の敵たる魔と、その眷属であるフカビトを討ち滅ぼす事。それが深王の使命であり、深都が海底へ沈んだ理由なのだという。

「にわかには信じられぬ」

 ルル・ベルが呟く。

「だが、それが本当であるならば……王の言う通り、戦いに助力するのが義というものであろう」

「でも……良いんですか? オランピアの事とか……」

「深都を……ひいては魔の存在を知る者は少ない方が良い、との仰せだっただろう。それならば冒険者を寄せつけなかったのも理解はできる。納得できるかどうかは別としてな」

 むう……と唸って黙り込むパーニャの顔に浮かぶのは不安げな表情だ。皆が不安を感じている。それはルル・ベルも同じだったが、彼女はそれを従者たちに知られないよう普段通りに振る舞う。

「兎角……この事実は我々の胸の内だけに秘めておこう。そして、妾は深王にもできる限り協力したいと思っている。……何か意見があるならば遠慮なく言ってほしい。妾も、まだ少し迷っているのだ」

 沈黙が下りる。瞬く恒星亭は海都の宿とは違ってどこもかしこも静かだ。無音の室内に、壁かけ時計の秒針が時を刻む音だけが反響する。

 やがて口を開いたのはシナトベだった。ルル・ベルを見つめて彼女は言う。

「私は、深都の存在がルル・ベル様の助けとなると考えています」

「助け……」

「はい。海都は周辺諸国との交易を復活させつつあります。外からやって来る客人も増えてきている……我々を狙う刺客がいつやって来てもおかしくはありません」

 ルル・ベルの肩が僅かに揺れる。黙って聞いていたタマキがはっと顔を上げ、隣にいたアルフレッドに視線をやる。アルフレッドはただ首を振って応えた。二人のやりとりに気付いた様子も無く、シナトベは続ける。

「幸い、我々は他のギルドよりも深王の信頼を得ているようです。彼の協力を得て深都に滞在し、追手から身を隠す事も可能でしょう」

「……そう……かもしれぬな」

 ルル・ベルは小さく呟いて目を伏せる。表情を歪めたパーニャが彼女に寄り添い、手袋に包まれた手をそっと握った。

 パーニャの手を握り返し、細く息を吐いたルル・ベルは、そのひとつひとつを噛みしめるようにぽつぽつと言葉を紡いでいく。

「妾は……いつまでも逃げ続けるつもりは無い。だが、今見つかってしまっては、何もかもが水の泡だ」

 ならば、と彼女は言う。

「今は雌伏の時とすべきだろう。深王に協力し、信頼を得てこの街に身を隠す。それだけでない。今となっては海都も信用できぬ……少なくとも、我らを謀ったギルドの正体が分からぬ限りは。故に……」

「良いんじゃないですか」

 口を開いたのはアルフレッドだ。振り向いた仲間たちの視線を浴びながら、彼は肩を竦めて言う。

「あなたがそう決めたのなら誰も文句は言いませんよ。もちろん私も。ただ、」

 言葉を切り、アルフレッドは隣のタマキに目をやる。

「説明責任は果たすべきだと思います。こうなった以上、この場所に「余所者」なんかいないでしょう」

「……そなたの言う通りだ。タマキよ、今まで何も知らせずにいてすまなかった」

「いや、俺は……」

 ルル・ベルの言葉に眉を下げて口ごもるタマキだったが、ひとつ呼吸を挟んで気を取り直すとしっかりとした口調で告げる。

「俺には、貴女たちに助けられた恩義がある。事情があるのは分かっていたし、たとえそれが何であっても、できる限りの助けに……なれる、と思う……多分」

「そこは断言するところではないのか?」

 思わず笑みをこぼしながら言えば、タマキはますます困った顔をして視線を逸らした。少し表情を緩めたルル・ベルは彼の顔をまっすぐに見て続ける。

「だが、ありがとう」

 そうして、再び沈黙が下りる。しかし先程とは違い、部屋に満ちた重い空気は僅かながら晴れたようだ。規則正しい秒針の音を聞きながら、ルル・ベルは深く息を吸い込んで唇を開く。


   ◆


「……そんな話したばっかりなのに、どうして海都の外まで出て魔物退治なんかする事になるのよーっ!」

 パーニャが叫んだ。少女の声がインバーの港中に響き渡り、周囲で作業をしていた船乗りたちが何だ何だと振り向く。慌てて何でもないですと応じつつ、シナトベとライディーンは一向に機嫌が直らない彼女を両隣から諌める。

「直々の推薦と言われてしまったらね……」

「ルル・ベル様も乗り気でいらっしゃっただろ。「無辜の民が助けを求めているならば応えねば」と」

「むむむむ……」

 二人の言いくるめにパーニャは納得いかない様子で唇を尖らせるが、ひとまず文句を言うのはやめにしたらしい。不貞腐れたように足下の小石を蹴る彼女にシナトベとライディーンは顔を見合わせて苦笑する。

 今日から『カーテンコール』は船に乗って商業港アユタヤへ向かう事になっている。近頃アユタヤの周辺海域には凶暴なサメの魔物が出没するらしく、その魔物を退治する依頼が港の管理人経由で舞い込んだのだ。以前サエーナ鳥を倒した実績を買われての指命である。従者たちは受領を渋ったのだが、主君であるルル・ベルが先程ライディーンが言った通りの理由ですぐに引き受けてしまったのだから仕方ない。

 パーニャがゴーグルのベルトを弄りながらぶつぶつと呟く。

「アタシもルル・ベル様の優しいところは大好きだけど、でも知らない街の住人のために危険を冒してまで戦うなんてさ……」

「そなたはいつも心配ばかりしているな、パーニャ」

「わーっ!!」

 急に背後から声をかけられ、パーニャは驚きのあまりその場で三十センチほど跳び上がった。いつの間にかすぐそこまで近付いてきていたルル・ベルは困ったように笑って彼女に言う。

「いつも苦労をかけてしまってすまぬな。妾のわがままだと分かってはいるのだが、ついそなたたちに甘えてしまう」

「いえ、いえ、いえ! アタシはルル・ベル様のためならどんな魔物もぶち抜いてやりますから!!」

「ふふふ……期待しているぞ」

 ぐっと拳を天に突き出すパーニャに微笑み、ルル・ベルは背後を振り返る。

「そなたも。急に付き合わせてしまってすまぬ」

「ああ……いや、気にしないでほしい。俺もギルドの一員だ。貴女の決定に従う」

 荷物を抱えたタマキが応えれば、少女の満足げな表情が返った。

 今回の船旅にアルフレッドは不在である。「私は前も行ったし、タマキに譲りますよ」との事だったが、実際は行くのが面倒臭かっただけだろう。代わりにパーティーに参加したタマキはどこか不安げな様子だ。何か心配事があるのかと問えば、彼は慌てて首を振って答える。

「いや……船を見ると、どうしてもアーモロードに来る前の事を思い出してしまって……」

「あ、ああ……」

 漂流のトラウマは根深いようである。

 港は以前のサエーナ鳥討伐の頃と比べるとかなり賑わっている。異国からの商人たちであろう一団が騒がしく大通りへ出ていくのを見ながら、ライディーンが訊ねた。

「我々はどの船に乗れば良いのでしょうか」

「ああ、東の端に停まっている船だそうだ。そろそろ向かうとするか」

 あちらだな、と指さした方角へ歩き始めるルル・ベルの後を四人も追う。聞いた通り、港の東端には他の商船とは距離を取って一隻の船が停泊している。その姿を見て、シナトベがあら、と首を傾げた。

「あの船……見覚えがあるわね」

「……あれってまさか……」

 呟くパーニャの表情がだんだんと険しくなっていく。ライディーンが額を押さえて、ルル・ベルも思わず眉間にシワを寄せた。タマキが戸惑ったように四人の顔を見る。状況が分かっていない彼にシナトベが詳しく説明しようとしたが、実際に見た方が早いわよね。と早々に諦めてしまった。

 一行をアユタヤまで乗せていってくれるという船。それは『セレスト・ブルー』……もといセレスト・ブルー海賊団の船、ステラマリスだったのである。


「何だよ、またお前らか」

 辟易したような声に、それはこちらの台詞だ……と言いかけて何とか堪えた。縄梯子を上りきって甲板に下り立ったルル・ベルは、海図と思わしき紙の束を眺めながらマストに寄りかかるインディゴに向かって肩を竦める。

「船の手配は港の管理人殿が行ったと聞く。見知った顔の相手の方がお互いにやりやすいだろう、との配慮ではないか?」

「俺たちは積み荷(・・・)によって扱いを変えるような三流じゃあないんだがな。ま、今回もよろしく。荷物置いたらレイファにも顔見せとけよ」

 相変わらずよろしくするつもりのなさそうな口ぶりだ。徐々に眦を吊り上げ、迷宮第一層をうろついているカバの魔物のような表情になりつつあったパーニャを制しつつ、一行は甲板に開いた出入り口から中甲板の船室へ向かう。

 ステラマリスの船内は層構造になっていて、『カーテンコール』のような客人に貸し与えられているのは普段は倉庫として利用されている中段の一室だ。粗雑な造りのベッドと安定感のないハンモックだけが備えつけられた狭い部屋だが、流石にルル・ベルたちもそこに文句をつけるほど身勝手な客ではない。むしろある程度整った寝床が用意されているだけ他の船よりマシである。

 初めて乗る船に落ち着かない様子のタマキが、荷物を置きながらきょろきょろと辺りを見回す。

「顔を見せろと言っていたが、どこに行けば良いんだ?」

「さあ……とりあえず、その辺りの船員に聞いてみるか」

 部屋を出て、話しかけられそうな者がいないか探す……が、その必要は無かった。一部屋挟んで向かい側の間仕切りから顔を出した少女が、五人の姿を認めてあっと声を上げる。

「お久しぶりー。……あれ、今日はアルフレッドさんいないんだ」

「アルフレッドに何か用事があったのか?」

 問いかければ、ベロニカはううんと首を振る。

「そういう訳じゃないけど。前に会ったとき具合が悪そうだったから、大丈夫だったのかなって思って」

「前……? いつの事かは分からぬが、特に変わりは無いようだったぞ」

「そっか。なら良いんだけどね」

 と、そこでベロニカはタマキの方を向いた。たじろぐ彼ににっこりと笑い、少女は明るい声で言う。

「はじめまして、私はベロニカ。こっちはティル……ちょっとティル! 挨拶して!」

 ベロニカが呼べば、彼女の肩からティルがひょっこりと顔を出す。彼は『カーテンコール』の姿を見るとぱちぱちと目を瞬かせて、それからまたひょっこりと部屋の中へ戻っていった。ベロニカが苦笑する。

「あの子の事はあんまり気にしないで。とりあえずよろしくね」

「あ、ああ……俺はタマキ。よろしく頼む」

 忙しない子供たちだ。呆気に取られた風に返すタマキに笑みをこぼしつつ、ルル・ベルがベロニカへ向き直る。

「ベロニカよ、レイファがどこにいるか知らぬか? 今回も世話になるゆえ、一言挨拶をしておきたい」

「レイファ? ちょっと待ってね。……ウィリー! レイファどこにいるか知らなーい!?」

 ベロニカが背後を振り返り、ちょうどすぐそこを通りかかった眼鏡の男性に声をかける。彼は一度『カーテンコール』に目をやって、それからうーんと髭に覆われた顎を撫でて答えた。

「インディゴの奴に用があるって言ってたぜ。船長室じゃねえかな」

「……だってさ。場所分かる?」

「ああ、問題ない。感謝する」

 また後でね、と手を振るベロニカに手を振り返しつつ、一行は狭い船内をずんずん進んで甲板を目指す。船長室は甲板の上にある部屋で、文字通り船長であるインディゴの居室、かつ作戦室のような部屋であるらしい。入ったら入ったでまたインディゴにネチネチ言われるだろうが、レイファに挨拶しろと言ったのはあちらなのだから文句を言われる筋合いは無い。

 船長室は甲板に出てすぐの場所にあった。ドアをノックすればインディゴの気の抜けた返事が聞こえてくる。

「失礼する」

 ドアを開けて室内を覗くと、インディゴとレイファが机に広げた紙に向かって何やら話し合っているのが見えた。奥にはカゲチヨが座っていて、彼はルル・ベルの姿に気付くと軽く会釈をした。振り向いたインディゴが顔をしかめる。

「あ? あー……よくもまあ人の部屋にゾロゾロ連れ立って……」

「こら、インディゴ!」

 レイファが叱りつければ、インディゴは不貞腐れたような表情を浮かべて手に持っていた羽根ペンを弄り始めた。やれやれと溜息を吐くレイファだったが、ルル・ベルたちの方へ向き直ると穏やかに微笑む。

「話は聞いてるよ、『カーテンコール』。今回もよろしく」

「こちらこそよろしく頼む。忙しいところとは思うが、新しいギルドメンバーだけ紹介させてほしい」

 言いながら、ルル・ベルはタマキを手招いた。後ろで甲板を見回していたタマキが慌てて駆け寄り、部屋の中に顔を出す──その瞬間、がたん、と大きな音が響いた。

 インディゴとレイファが驚いて振り返る。静まり返った部屋の中で周囲の視線を一身に浴びるのは、座っていた椅子を勢いよく倒して立ち上がったカゲチヨだ。彼らしからぬ行動に戸惑うインディゴが口を開くより先に、カゲチヨは低く、それでいてはっきりとした声で言う。

「何故ここにいる」

 彼の視線の先にいるのは、和装の剣士だ。視線を向けられたタマキもまたカゲチヨを見つめ返していて、愕然とした表情を浮かべる彼の顔は今までに見たことがないほど血の気を失っている。震える唇が何か言葉を紡ごうとしたようだが、声にはならなかった。

 もう一度、カゲチヨは問う。

「何故お前がここにいる、タマキ」

 タマキは答えなかった。ただ唇を震わせながら何度か荒い呼吸を繰り返して、それから堪えきれないといった風に口許を覆ってその場にうずくまった。騒然とした空気が流れる。慌てたライディーンに支えられるタマキの姿を、カゲチヨは作り物のような金の瞳でじっと見ている。


   ◆


 船底部の厨房で大鍋をかき混ぜながら、レイファは大きな溜息を吐いた。航海が始まって数日、間もなく目的地であるアユタヤに到着する頃だが、どうもここのところ船内の雰囲気が悪い。原因は分かっている。カゲチヨとタマキの一件だ。

 タマキの様子が落ち着いた後、二人は甲板の端で何事か話し込んでいたようだった。どんな言葉を交わしたのかは分からない。インディゴが盗み聞きしようとしたが、それも徒労に終わった。彼らが喋っていたのは聞き慣れない異国語だったためである。

「でも、知り合いだったなんて驚いたわ。私たちもタマキがこれまで何をしてたのかとか、詳しく聞いてなかったから……」

 空の器を机に並べながらシナトベが言う。レイファも頷き返した。

「あたしらも同じだよ。まあ、元々うちは個人の過去を詮索するのはご法度みたいな感じなんだけどさ」

「言えない事情がある人もいるものね。それにしても、どうしたものかしら。こうなった以上はちゃんと聞いておくべき?」

「ううん……どうだろう……ちゃんと説明してくれた方が良いとは思うんだけど……」

 はあ、と二人揃って溜息を吐く。

 空気が悪いとは言ったが、実のところ本人たちは多少のぎこちなさがありつつも既に普段の調子に戻っているのだ。空気を悪くしているのは別の者である。具体的に言うと『セレスト・ブルー』側ではインディゴ、『カーテンコール』側ではパーニャだ。両者とも先日の一件以降、やたらタマキへの風当たりが強い。

「パーニャはああいう子だし、ルル・ベル様が言って聞かせればとりあえず落ち着くとは思うんだけど」

「インディゴはどうかな……あいつ、ああなると面倒臭いんだ。変なとこで頑固なんだから…… 」

「彼がタマキに突っかかるのはちょっと意外だったわ。何か癪に触ったのかしら」

「……まあ、カゲチヨは「お気に入り」だからね」

 その返答にシナトベは何度か目を瞬かせ、それからああ、と小さく呟いて頷いた。

 大量に作ったスープを器によそっていく。食器は限られた数しかないため、食事は同じ器とスプーンを使い回しての交代制だ。この航海ではいちおう客人である『カーテンコール』が優先的に食事を回してもらっている。スープで満たされた五つ分の器をトレーに乗せ、シナトベはレイファに向き直る。

「じゃあ、お先にいただくわ」

「うん、手伝ってくれてどうもね」

 にっこりと笑って厨房を出ていくシナトベの背中を見送り、レイファはふうと息を吐く。『カーテンコール』の面々はおおむね気さくで親切だ。できればこのまま友好的な関係を築きたいところだが、インディゴがあの調子では難しいかもしれない。そして何より……彼女たちはまだ知らないようだが、『カーテンコール』が得る筈だった深都発見の功績を奪ったのは、自分たちなのだ。今更仲良くできるできないの話をしても、もう手遅れだろう。

 それにしても何故インディゴが彼女たちにああもトゲのある態度を取るのか、レイファにはよく分からないのだ。タマキの事を差し引いても彼の『カーテンコール』への当たりは強すぎる。インディゴとは長い付き合いだが、彼が明確な敵でもない相手にあんな態度を取る事など今までなかった筈だ。何か理由があるのだろうが今のところは見当もつかない。

 ただ、レイファはひとつ気付いている事がある。恐らくインディゴがあんな態度を取っているのは『カーテンコール』に対してではない──ルル・ベルに対してだ。

 確証は無い。たとえ合っていたとしても、その理由も定かでない。レイファはもう一度溜息を吐いて、それから頭を抱えた。分からないものは仕方ない。これ以上事態が悪化するような事がなければ良いのだが──それが難しい願いであるという事も、彼女はよく理解していた。


 アユタヤの港に到着したのはその日の夕方の事だった。

 ここから『カーテンコール』とは一時別行動だ。彼女たちはこれから一晩宿泊した後、アユタヤ側が用意した船に乗って周辺海域を荒らし回る巨大なサメを倒しに行く予定になっている。『カーテンコール』が帰ってくるまで、ステラマリスは港に停泊して待機しておかなければならない。

 ついでにと頼まれていた交易品の運び出しと物資の補充を終えた現在、船内はすっかり静まり返っている。というのも、普段騒がしい船員たちは仕事が無くなった途端に我先にと街へ飛び出していってしまったのだ。アユタヤは商業港だ。船乗り向けの娯楽は豊富に揃っている。愛すべき野郎どもも、今夜は酒だの賭け事だの女だのを心ゆくまで楽しんでくるつもりなのだろう。

 そんな中、ひとり船長室に残っていたインディゴは、手元にあった一通の手紙を机に投げ出すとひとつ伸びをした。大きく息を吐いて立ち上がる。甲板に出ると、微かに聞こえていた港の喧騒がにわかにその音量を増した。元々活気のあるアユタヤの港だが、海都との交易が復活した事もあってか近頃はことさらに賑わっている。また時間がある時に訪れて観光と洒落込むのも良いかもしれない、と思いつつ、彼は背後を振り返った。

「お前も行って良かったんだぜ」

 応える声は無い。だが、西日に照らされて濃い影が落ちたマストの足許から、するりと音もなく現れた人影があった。カゲチヨである。

 無言のまま幽鬼のごとく佇む彼にインディゴは再び声を投げる。

「こっちに来いよ。そう不気味に立たれると落ち着かない」

「…………」

 カゲチヨがゆっくりと歩いてくる。毎度思うが、体格の良い彼が歩くのに足音ひとつしないというのは不思議な事だ。シノビは重量を無視する術でも持っているのだろうか。疑問に思うインディゴだったが、それを今この場で口にする彼ではなかった。今しなければならないのは、もっと大事な話だ。

「ここ数日、調子が出てないな?」

「…………」

「船員の体調管理も船長の務めだ。お前が集中力を欠くような何かがあるって言うんなら、俺はそれを取り除かなきゃならない」

 そこで一度言葉を切り、カゲチヨの顔をまじまじと覗き込んでインディゴは問う。

「あいつ(・・・)か?」

 穏やかではあるが、隠しきれない鋭さをはらんだ声色だった。見返したインディゴの瞳の奥に宿る剣呑な光にカゲチヨは唇を引き結び、僅かに目を細める。

 甲板に落ちた影が、東の空から這い寄る濃紫に呑まれて薄まり始める。港から歓声。どこかの船で宴会でも始まったのだろうか。知らない誰かの笑い声は、薄皮一枚を隔てたかのようにぼやけていてはっきりと聞き取れなかった。

「あの男は、」

 カゲチヨがぽつりと呟く。

「知り合い、だ。それ以上の事は何も無い」

「……「お仕事」してた頃の?」

 インディゴたちと初めて出会った時、カゲチヨは雇われ暗殺者の身だった。懐かしい記憶を思い起こしながら返したインディゴに、カゲチヨは静かに首を横に振る。

「それよりも昔の話だ。だから、もう終わった事だ」

「そんな風には見えなかったけどな」

「お前にどう見えたかは関係ない」

 彼にしては珍しい、強い口調だった。インディゴが思わず口をつぐめば、彼は小さな声で続ける。

「もうこの話はしない。お前も何も言うな。俺にも、……あれ(・・)にも」

 それきりカゲチヨは口を閉ざした。言葉通り、これ以上は何も語るつもりは無いらしい。インディゴはひとつ息を吐いて、圧し黙るシノビの肩に腕を回す。

「分かったよ、この話はおしまいだ。……そんじゃ、飯食いにでも行くか! 何が食いたい? ま、チーズやザワークラウトじゃないなら何でもいいよな」

 冗談っぽく言って笑ってみせれば、カゲチヨは僅かに視線を上げて頷いた。肩を叩いて、行こうぜ、と促す。

 そうして、船上には誰もいなくなった。薄まったマストの影だけが宵闇色の甲板に落ちている。

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