【D2】12 刃はその首筋には届かなかった。

 彼は回想する。浅い微睡みの中、過去の記憶を夢想する。まだ自分が幼く、刀もろくに振れない出来損ないのシノビだった頃の記憶だ。

 隙間風の吹き込むぼろ屋の土間で、母が炊事をしている。漬物を切るその指はあかぎれだらけで痛々しい。母が振り向き、自分を見る。もう少しで出来るから、待っていてね。かちりと場面が切り替わる。流行り病に倒れる人々、病床の母の疱瘡だらけの顔、うつす前にどうかと懇願する声、畳に転がる血塗れの首。

 目を開く。鬱蒼とした白の樹海は陽が落ちきったこの時間でもなお淡い光で満ちている。彼は傍らの刀を手に取り、立ち上がる。身体は軽く、活力に満ちている。強者と一手交えるには絶好の具合だった。

 待ち人はもうすぐ現れる。彼はじっと待っている。彼女の首を斬り落とすその瞬間を。


   ◆


 第六迷宮『幻想白森』。仄かに光る白亜の植物に覆われたその森は、オーベルフェ随一の実力者であるアントニカ女史のギルドと、先日第五迷宮を踏破した『アルデバラン』のみ立ち入る事が許された難関の迷宮だ。無論、内部に人影は見られない──こっそりと忍び込んできた一人の影を除いて。

 原則的な光を宿した、見た事のないような草木を観察しながら、セキレイは第六迷宮の内部を進んでいた。森の中はひっそりとしていて、獣や虫の声どころか葉擦れの音ひとつさえも聞こえない。自分の足音と鼓動の音だけがいやに大きく聞こえる空間で、彼女は慎重に歩みを進めていく。何十分歩いただろうか、やがて辿り着いたのは草木の無い開けた空間だった。くすんだ白の地面を軽く踏みしめ、対面にある森の奥をじっと睨み付ける。

 するり、と音もなく現れたのは、見慣れた黒い影だった。長袖の装束を脱ぎ、結っていた髪をほどいた姿ではあるが、見間違う筈もない。セキレイを見据え、彼はにこりと笑う。

「待っていたぞセキレイ」

「……リッカ」

「いや済まぬな、拙者からお主の元へ出向く事が出来れば良かったのだが……近頃船の警備が厳しくなってなあ。拙者は変装の術を持ち合わせておらぬ故」

 軽い調子で話すリッカの様子はセキレイのよく見知ったもので、しかしその手には妖しげに艶めく黒い刀身の刀が握られている。セキレイは何も言わず、刀に手を掛けた。リッカが肩を竦める。

「そう怖い顔をするな」

「……申し開きがあるなら聞こう。だが生きて帰れるとは思うな」

 セキレイの低い声に、リッカは何も応えない。ただセキレイをじっと見つめて微笑むだけだ──次の瞬間、セキレイは一気に間合いを詰め、リッカへと斬り込んだ。首筋を狙った一撃を難なく受け止め、彼は困ったように笑う。

 後ろに跳んで距離を取ったセキレイが袖口から取り出したのは数本の針だ。睡眠毒の塗られた『含針』を飛ばし、リッカの足元に滑り込んで腱を狙う。針を全て弾いたリッカは刀が足首を断つその寸前で足を思いかり振り、セキレイの身体を蹴り飛ばした。刃が擦った足首から血が垂れる。白い地面の上を転がったセキレイは、口の端から垂れた涎を拭いながら立ち上がる。その頬に大きな擦り傷ができているのを認め、リッカは僅かに顔をしかめた。

「……お主の顔に傷を付けたくはないのだが」

「首を獲ろうとしている相手に何を言っている?……それとも嫁に行けないなどと馬鹿にするつもりか」

「そうではなく。拙者は美しいままのお主の首が欲しいのだ。……折角手に入れても、傷物の首を愛でるのは忍びないで御座ろう」

「……戯言を!」

 叫び、再び斬り掛かっていくセキレイの攻撃を刀で受け流し、リッカは反撃に転じる。狙うのは刀を持った右腕だ。咄嗟に身を引くセキレイを追い、リッカは一歩踏み出して更に追撃を仕掛けていく。速く重い斬撃をかわしながら、セキレイは考える。あれほど首を欲しがっているのに、腕ばかりを狙ってくるのは何故だ?……『お楽しみ』を後に取っておくつもりか。

 長い袖に刀が擦り、花の紋様にぴしりと亀裂が走る。次いで、髪が数本視界の端をひらりと舞っていくのを見たセキレイは、呼吸を整えて袖の内でこっそりと印を結ぶ。そちらに気を取られて防御が疎かになった隙に、リッカの刀が右腕にめり込んだ。しかし次の瞬間、セキレイの姿がふっと消える。動揺したリッカの動きが、数秒止まる。

「……!? ……空蝉!」

 気付いた時には、セキレイは既にリッカの背後に潜り込んでいた。『忍法 空蝉』は攻撃を受けた瞬間に空いての背後に回り込む術だ。リッカが振り向いて防御する暇も無く、セキレイは先程から狙っていた足の腱を一刀のうちに断ち切る。激痛と共にふつり、と糸の切れたように力の抜けていく右足を無理矢理引きずり、リッカはセキレイのいる場所へと横薙ぎに刀を振り抜いた。体勢を低くしてそれをかわし、距離を取るセキレイを見て彼はふ、と笑う。

「四肢の奪い合いか。どちらが先に限界となるか」

 セキレイは応えない。どうやら右肩の傷は骨まで達しているらしい、リッカが自由に動けぬ今の内にと襟巻を包帯代わりに巻き付けるが、後から後から血が溢れて止まらない。

 リッカは恐らく持久戦を仕掛けてくるだろうとセキレイは考える。自分の方が出血が多い以上、戦いが長引けば長引く程リッカが有利になっていく。急いで決着をつけねばならない。

 刀を左手に持ち替え、セキレイはリッカの右側から回り込むようにして攻撃を仕掛ける。封じられた右足を軸にする事ができない以上、どうしても右方からの攻撃は反応が遅れる。逆手に持った刀で何とか防ぐが、それも長くは続かない。セキレイはここぞとばかりに刀を返し、リッカの手から刀を弾き飛ばそうとする。

 しかし刀を弾かれる直前、リッカは痛む右足を無理に動かして身体を反転させ、左足で彼女の腹を蹴り上げた。爪先が脇腹を抉り、思わずがは、と空気を吐き出したセキレイの身体をリッカは間髪入れずにそのまま思いきり突き飛ばす。

 背後にあった樹に頭を強く打ち付け、ずるりと力を失う彼女にすぐさま歩み寄ってその身体を地面に強く押し付けると、リッカはああ、と息を漏らして蕩けた表情を浮かべた。

「獲った──!」

 刀を振り上げ、無防備な首筋に突き立てる──その前に、リッカの手からするりと刀が抜け落ちた。あ、と声を上げたその時になって初めて気付く。……身体がいやに重く、指先が痺れている。

 戸惑ったリッカの下で、セキレイがぱちりと目を開けて左手をぐっと握る。体内で練り上げた『気』を乗せた左拳を、セキレイはリッカの腹に思いきり叩き込む──『気功拳』だ。

 身体の芯を、確かに捉えた感触があった。

 強い衝撃を受けたリッカの身体は、そのまま後ろに倒れ込んで地面に叩き付けられた。麻痺した身体を僅かに丸め、一瞬置いてごぼりと血を吐き出す。セキレイはよろめきながら立ち上がり、彼に近寄ってその胸ぐらを掴み上げた。

「……私が、何も仕込まず、お前と正面からやり合うと思ったか」

 リッカは微かに目を見開く。セキレイは元より、リッカと真っ当に戦うつもりは無かった。リッカの剣の技量はセキレイよりも上、まともにやり合っては勝ち目は無い。故に、刀に毒を仕込んでおいた。即効性の麻痺毒は腱の傷口から全身に回り、最高の瞬間にその牙を剥いてくれた。渾身の一撃は内臓を傷付けた筈だ。治療をせずに放っておけば、リッカはもう長くはもたないだろう。

 その事実をセキレイは語らなかったが、リッカはすぐに察したらしい、彼はくつくつとくぐもった笑いを溢した。

「……何だ、……拙者の目が、曇っていただけか……」

 セキレイは唇を噛んだ。襟巻を掴んでいる手が微かに震えている。

「……何故だ、リッカ」

 思わず久地から飛び出た声に、セキレイは頭の中の奇妙に冷静な部分で、ああウワバミ殿に言った事を違えてしまった、と考える。そんな思考とは裏原に、絞り出すような声は止まらずに吐き出され続ける。

「何故裏切った。何故こんな事をした。何故……」

 頭がぐらぐらする。血が足りていないようだ。視界がぶれるが、自分を見上げるリッカの表情だけがはっきり見える。それをぼんやりと不思議に思いながら、セキレイは呟いた。

「ずっと、私を騙していたのか……?」

 その言葉にリッカは細く息を吐き、重い左腕をゆっくりと上げてセキレイの頬を撫でた。

「……お主は、好い女だ。強く、気高く……まるで、かかさまのような……」

 途切れ途切れの声をセキレイはじっと聞いている。セキレイの頬を指先でそっとなぞりながら、リッカはぽつりぽつりと語り続ける。

「その強さが、好ましかった……だからこそ、お主が、誰とも知れぬ者に、……殺されると思うと、悔しかった……ならば、拙者が、殺さねばならない」

 ぼんやりする頭に、リッカの声だけが染み込んでくる。上手く回らない思考の中で、ああ、この男にとっては、首を落とす事こそが愛情表現なのか、と思うセキレイをよそに、リッカは口から血を溢れさせながら言う。

「……お主は、優しすぎる……シノビには向かぬ……いつか、その優しさが、仇となる時が……来るだろう。……そう、……このように」

 はっとした時にはもう遅かった。セキレイの腰から抜き取った一本の苦無を握ったリッカの右手が、首筋に迫ってくる。リッカは口許ばかりが赤い、土気色をした顔で微笑んでいた。苦無の鋭い先端が、セキレイの首に突き刺さる──。

 ……破裂音がした。

 セキレイが気付いた時には、リッカの右手は力を失って彼女の肩にだらりと引っ掛かっていた。苦無はリッカの腹に落ちて転がっている。自分のものでない血液が、顔から脚までべっとりと付着している。リッカの顔を見ようとする。彼の顔は、無かった。口許から上が吹き飛んでしまっている。代わりに、肉や骨の砕けたものと、血液と、よく分からない液体の混じったものが辺りに広がっていた。

 物音に振り返ると、そこには見覚えのある少女の姿があった。『アルデバラン』の銃士、ラウレアだ。彼女は構えていた銃を下げ、セキレイに近寄ると腰のポーチからメディカの瓶を取り出して投げ渡した。

「アンタを追ってきた」

 淡々と言うラウレアを見上げ、セキレイは唇を少し震わせた。何か言おうとしたが、言葉にならない。無言で薬を飲むよう示され、セキレイは黙ってそれに従う。血を失って冷えていた身体が、メディカの効能によって少しずつ熱を取り戻していく。

「……アンタらの間に何があったかは知らねえが」

 言いながら、ラウレアは少し離れた場所に落ちていた刀を拾い上げてセキレイに差し出した。受け取ってみると、その黒い刀身はあれだけの数の人間を斬ったにも関わらず、艶めき輝いている事が見て取れた。ラウレアは小さく息を吐き、問い掛ける。

「ヤツはビリーを殺そうとした。……これだけじゃ、不十分か」

 セキレイは首を横に振る。彼女は傷付いた仲間の仇討ちをしようとした。結果としてそれがセキレイを助けた。それだけの話だ。何も言う事は無い。何も。

 リッカの腰から鞘を抜き取って、刀を収めた。妖刀は無事奪還し、『辻斬り』も死んだ。ウワバミとの約束通りに事を終え、与えられた任務は全て完了した。何もかもがこれで終わった。けれど、何だろう。胸に大きな穴が空いたようだ。

 ラウレアがアリアドネの糸を取り出して街に帰還しようとしている。アンタも一緒に帰るか、という声にああ、と一声応じ、セキレイは刀を手に立ち上がった。死体は放っておけば、迷宮に住まう魔物達が残さず処理してくれるだろう。

 セキレイは死体を振り返らなかった。ただラウレアの元へと向かう間、リッカと過ごした時間の記憶だけが頭の中をぐるぐると回っていた。初めて出会った時の、一人寂しそうに空を眺める背中が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。

 こうして、オーベルフェを賑わせた辻斬り事件は、ひっそりと……そして呆気なく、幕を閉じたのだった。

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