【SQX】2-2 赤い邂逅
空気が悪い。
何も息がしづらいだとか、変な臭いが漂っているだとか、そういった意味で空気が悪いというわけではない。碧照ノ樹海の空気はいつもと変わらず清浄だ。悪いのは場の雰囲気である。より正確に言うならば、険悪な雰囲気を漂わせているのはその場の全員という訳ではなく、特定の一人だ。
ギルドメンバーが五人になって早数日、新人であるヘンリエッタは一向に他のメンバーと打ち解ける気配を見せない。というかそれ以前に、そもそも会話すらろくにしてくれないのだ。戦闘には参加して魔物を剣で殴り倒しているようだし、誰かが怪我をしたら巫術による治療もしてくれるのだが、会話にはまったく応じてくれない。それどころか話しかけだけで睨み返される始末である。これには経験豊富なモモコもお手上げであった。
「私のいたギルドは初めからわりと仲が良かったので……こういう場合はいったいどうしたら良いのか……」
「まあ、仕事はしてくれるみたいだし放っておいてもいいんじゃね?」
サヤはそう言うが、これから一緒に探索する上で意志疎通が必要になる場面は必ずやって来るだろう。そんな時に言葉を交わせないようでは非常に困る。
「そうですね、追々きちんと話を……」
「みんな! これ見てー!」
少し離れた場所で木の実を採っていたチエリが突然声を上げる。何事かと彼女が示す方向を見てみれば、一本の樹の幹に鋭い爪のようなもので傷をつけた痕があるのが確認できた。疑うまでもなく、熊の爪痕だ。
「黒いやつの巣が近くにあるようには見えないし……例の赤熊か」
「ここも縄張りのようですね……魔物の気配はありませんが、慎重に進みましょう」
「その前に木の実食べちゃお。これ三人の分! ヘンリエッタさんにも渡してくるね」
仲間から距離を取るようにして一人佇んでいるヘンリエッタに駆け寄っていくチエリの背中を見てエノクはうーんと唸った。あのくらい積極的に突っ込んでいけるだけのコミュニケーション能力が自分にもあれば良かったのだが。そっけない態度を取られても怯まずに木の実を押し付け続ける少女に若干の羨ましさを覚えながら、木の実を口に運ぶ。がりり、と嫌な音がした。
「……硬っ!!」
「お主のだけ熟れてないじゃん。ウケる」
んふふと笑いながらサヤが掲げた木の実は真っ赤に熟れている。サヤの木の実と手元にあるまだ黄色い木の実とを見比べてエノクはがっくりと肩を落とした。チエリに悪気は無いのだろうが、あまりにもツイていない。モモコが苦笑しながら自分の分の木の実を半分に割ってエノクへ差し出した。
「どうぞ。チエリちゃんには気を付けるよう言っておかなきゃいけませんね」
「ありがとうございます……」
手に持っているだけで芳醇な香りが漂う木の実を改めて口に運べば、口の中に広がる甘みが探索で溜まった疲れを和らげてくれる。これは良いものだ。地図を広げ、今いる場合に印をつけて『木の実』と書き込んでおく。改めて眺めてみれば、地下二階の地図もかなり埋まってきた事が分かる。まだ訪れていない場所も今日中には踏破できるだろう。
出発は木の実を食べ終えて荷物の整理をしてからという事になった。戻ってきたチエリがモモコに熟れた木の実の見分け方を教わっているのを横目に、エノクはちらりとヘンリエッタの方を見た。樹に寄りかかってじっと足元を睨む彼女の手には真っ赤な木の実が手付かずの状態で収まっている。
◆
碧照ノ樹海の奥地から突如現れた赤い熊は、既にいくつかのギルドと衛士隊を壊滅にまで追い込んでいる。この迷宮の主であるらしいこの熊の討伐作戦は、どうにも上手くいっていないというのが現状だ。熊の出没が最も多い地下三階は未だ完全に踏破されていない場所である。地図が未完成である以上、いくら熟練の冒険者といえども捜索は難しい。『スターゲイザー』も司令部からのミッションを受領してはいるが、今のところ熊の討伐よりも地図の作成を優先している状況である。被害の拡大は心配であるが、だからといって無理に突貫するのはあまりにも無謀だ。
故に、今日は地図を描き終え次第帰還する予定だったのだが。
「先程、オリバーとマルコがこの先に進んでいった」
閉ざされた扉の前に立つ衛士が固い表情を浮かべて言う。扉の先にあるのはこの地下二階でまだ探索していない場所──そして恐らくは、下層へと繋がる階段があるであろう場所──である。
「偵察から帰ってこない小隊を迎えに行っている筈なんだが……一向に戻ってこないんだ」
「それって、まさか……」
「私は見張りの役目があるため動く事はできないが……彼らが心配だ。見てきてはくれないか」
エノクはちらりと仲間達に目をやった。視線だけで事の是非を問いかけるが、モモコが肩を竦めた以外にこれといった反応はない。リーダーのお好きなように、という空気を感じ取ったエノクは息を吐き、衛士に向かってひとつ頷く。
「分かりました。僕達で見てきます」
「よろしく頼む。仲間に伝令を頼んであるから、そのうち応援が来るだろう。どうかそれまで無事で」
衛士の敬礼を背に受けながら、扉を潜り抜けて先へと進む。景色自体は今までと何ら変わりないものだったが、異変はすぐに現れた。どこからか、血の匂いが漂ってきている。
匂いの出所はすぐに分かった。大部屋の中心付近にある水辺に、一人の衛士が座り込んでいる。見れば、彼の全身は包帯で覆われており、その下からは赤黒い血が滲み出しているのが分かった。一行が駆け寄って救助しようとするのを制し、彼は苦しげな様子で口を開く。
「オレは大丈夫だ。それより……オリバーとマルコを」
そう言いながら震える腕を上げて示した先にあるのは下層へ続く階段だ。彼の背中の傷の具合を見ながらモモコが問う。
「例の赤毛ですか」
「ああ……オレを助けた後、二人はヤツを追って行ってしまった。二人を助けてやってくれ!いくら凄腕でも、あの獣は……」
衛士の言葉に頷きつつもモモコの表情は険しい。戸惑うように立ち尽くしていたエノクの頭を、サヤがぺちりと叩く。いつもは軽い調子の彼も今回ばかりは真剣な表情を浮かべていた。エノクは慌てて鞄を開き、薬品の数を確認する。メディカやネクタルは通常の探索を行うぶんには十分な量があったが、果たしてこれで足りるだろうか。
オレはいい、早く、と繰り返す衛士に獣避けの鈴をひとつ渡し、部屋の奥へと進んでいく。下層へ繋がる階段の先はひどく静かだ。先頭を歩いていたモモコが一度ちらりと背後へ視線をやり、それからゆっくりと階段へ足を踏み出す。彼女の手に構えられた弓には、既に矢がつがえられていた。
階段を下りた先に獣の姿は無い。しかし安堵するより先に目に飛び込んできた光景にチエリが思わずといったように声を上げる。
「オリバーさん! マルコさん!」
「……、おお……『スターゲイザー』か」
「よくここまで辿り着けた、ね」
血塗れで地面に倒れ伏し、弱々しいながらも返事をする二人の体を淡い光が包む。振り返ってみれば相変わらず無愛想な表情のヘンリエッタが巫剣を掲げて治療術を発動させていた。悪いな、と呟いて起き上がろうとするオリバーをエノクが慌てて支える。
「上で衛士を襲ってる所に出くわしたらヤツが逃げ出しやがってな。慌てて追いかけたらここで襲ってきて戦ったんだが……また逃げられちまった」
「追いかけたいが、こちらはもう限界でね……」
「だが、ヤツに手傷は負わせた。傷が癒える前に追い詰めて倒すのが得策だろう。……オレ達の後始末をさせるようで、気が引けるが……」
「大丈夫です。任せてください」
エノクの返事を聞いたオリバーは汗と血で汚れた顔に微かな笑みを浮かべ、ふらつきながら立ち上がる。そして未だぐったりとした様子のマルコを支えると、ゆっくりと階段へ向かって歩き出した。
「ボクらは上で休んでいるよ」
「ヤツを倒したら、うまいステーキでもご馳走するぜ」
多少覚束ないがしっかりとした足取りで去っていく二人を見送り、残された『スターゲイザー』は緊張した面持ちで辺りを見回す。逃げ去ったという熊の姿は近くには見えない。どこかで息を潜めているのだろうか。ふと、マフラーを口許まで引き上げたサヤが無言で地面を指し示す。西へと続く通路に、新しい血痕が残っていた。各々が武器に手をかけ、警戒しつつ通路を進んでいく。
点々と残る血痕は、通路の先、突き当たりのT字路で急に途切れていた。周囲には大きな獣が隠れられるような茂みや物陰は無い。奴はいったいどこへ──瞬間、戸惑いを切り裂くようにモモコが叫ぶ。
「上ですッ!!」
その声に咄嗟に構えるのと、上空から差した影が視界を暗く染めるのとはほぼ同時だった。地面に降り立った赤毛の熊は敵の姿を認めると大口を開けて絶叫にも似た咆哮を轟かせる。その声は噂に聞く通り脳を揺さぶるような恐ろしい響きでもって獲物の身を竦ませる。が、一瞬の差で奇襲に備えられた事が彼らにとっては大きなアドバンテージだった。
体勢を立て直したサヤが短刀を手に獣の足許へ滑り込み、腱を狙って素早く斬りつける。がむしゃらに振り下ろされた爪はエノクの盾が防いだ。その隙に死角から飛び出したチエリが太い腕の関節部分に刀を突き込んで無理やり捻る。ごき、と骨が削れる音。熊の口から悲鳴が漏れる。痛みに暴れた勢いのままに振り払われ、チエリは地面に投げ出されて転がった。
「チエリ、」
「前見てろ!」
チエリが吹き飛ばされた方向へ気を取られたエノクにサヤの叱責が飛ぶ。はっとして盾を構え直す彼を再び鋭い爪が襲う。しかし、関節を抉られた腕で繰り出す一撃は先程よりも幾分か軽い。爪を受け止めるエノクの脇をすり抜けて熊へと肉薄すると、サヤは先程斬りつけた脚の傷を更に深く抉り込んだ。熊の注意が彼に向いている中、近場の樹の上で機を窺っていたモモコがここぞとばかりに矢を放つ。風を切って放たれた矢は真っ直ぐに飛んで行き、熊の右目に深々と突き刺さった。熊はその巨体を僅かに丸めると二、三歩後退してよろめく。エノクはその懐に飛び込み、傷だらけの胴を盾で思い切り薙ぎ払った。
傷口から血を吹き出して倒れた熊は暫くの間起き上がろうともがいていたが、やがて糸が切れたように動きを止めてそれきり沈黙した。頬に垂れた返り血と汗を拭い、エノクは背後を振り返る。吹き飛ばされていたチエリはヘンリエッタの治療を受けている。多少ぐったりした様子だが、意識ははっきりしているようなので大丈夫だろう。
「あーびっくりした。しぶとい奴だったなあ」
口許を覆うマフラーを引き下げ、サヤがほっとした表情で言う。まったくその通りである。だが、恐ろしい魔物はこうして討ち果たされた。これで冒険者や衛士が犠牲になる事もなくなるだろう。
「……さて、それじゃあ戻りましょうか」
熊の死骸から巨大な爪を剥ぎ取り終えたモモコがそう言いながら立ち上がる。すっかり回復したチエリがはあい! と元気よくそれに続き、残りのメンバーもも各々が荷物を持って後を追った。いつもならばアリアドネの糸を使って街へ帰還するところだが、今回に限っては二階に残してきたオリバーとマルコ、そして衛士の事が心配だ。
魔物に警戒しつつ上り階段のある部屋へと戻っていく。途中でモモコが森がやけに静かですね、と首を傾げたが、魔物と戦わなくて済むのはありがたい事だ。階段を上りながら、隣を歩いていたチエリが明るい表情でエノクに話しかけてくる。
「オリバーさんとマルコさん、喜ぶかなあ」
「うーん……そうだね。でも怪我してるんだし、それどころじゃないかも」
薄暗い階段の先、地下二階から漏れる光まであと少しというところでチエリは思わずといったように駆け出した。先程まで地面に転がって伸びていたというのに、元気な事である。モモコとサヤが苦笑するのを横目にエノクも慌てて後を追う。彼女は階段の出口で足を止めていた。微動だにしない背中に向かって彼は怪訝な表情で声をかける。
「ちょっとチエリ、どうしたの……」
言いかけて、エノクは目の前の光景に動きを止めた。あまりの事態に思考が追い付かない。背後の足音が止む。誰かが息を呑む音。鼻をつく鉄錆の匂い。水辺に折り重なるようにして横たわる三人分の人影。辺りに広がる鮮血。
赤毛の巨大な熊が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「ひ、」
チエリの口からひきつれたような悲鳴が漏れた。咄嗟に剣を抜こうとしたエノクの肩をサヤが強く引く。
「退くぞ」
「でも!」
「無理だ。勝てない」
熊は突如現れた人間達を新たな獲物と捉えたらしい。腰を上げてじりじりと迫ってくるその巨体に傷はひとつも見当たらない。モモコが硬直したチエリの腕を引いてアリアドネの糸を取り出す。エノクは赤毛の向こう側に倒れる三人に目をやった。置いてはいけない。サヤの手を振り払って駆け出す──。
「──危ないっ!」
その時、勇ましい声と共に獣の背後から斬撃が浴びせられる。斬り裂かれた赤毛が宙を舞い、熊は突然の出来事に驚いた様子で辺りを見回した。背後に現れた人影の姿を認め、ひとつ咆哮を上げると身を翻して茂みの奥へと駆け込んでいく。
「大丈夫? 怪我はない!?」
長剣を手にそう声をかけてきたのが司令部で顔を合わせた事のある女性冒険者である事に気付き、ようやく一同は全身から力が抜けていくのを感じた。脱力しきったチエリがずるり、と座り込み、モモコが慌ててそれを支える。
剣を収めた女性が血塗れの三人に駆け寄っていくのを呆然と眺めながら、エノクは剣に手をかけたままその場に立ち尽くしていた。
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