【SQX】2-3 獣王君臨

 獣王ベルゼルケル──あの赤毛の熊はタルシスの伝承ではそう呼ばれているという。森を統べる熊の王であり、強大な力を持つ魔物なのだが、まさか二体もいるとは思わなかった……重傷を負った三人をベースキャンプへ運んだ後、タルシス出身であるという女性冒険者はそう語った。確かに、そんな大層な名を持つ魔物が何体もいるなどと誰が思うだろうか。

「つがいだったのかもしれませんね。私達の知った事ではないですけど」

 投げやりに呟き、モモコは溜息を吐く。傍らで鎧の手入れをしていたエノクは苦い顔で彼女の手元を見た。そこにあるのは探索司令部からの正式な依頼状だ。依頼の内容は当然、二体目のベルゼルケルの討伐である。

「あの……怒ってます? それ引き受けちゃった事……」

「怒ってはいません。ただ、大変な事になったな、と」

 モモコの返答にエノクはいたたまれない気持ちで身を縮こめた。事の次第を司令部へと報告した際に引き続き頼まれたミッションをそのまま受領してきてしまったのだが、やはりもう少し考えてから引き受けるべきだった。

 落ち込むエノクに視線を向け、モモコは問う。

「エノク君こそ良いんですか? 貴方の目的は試練であって、迷宮探索ではないでしょう」

「うーん、それはそうですけど……肝心の試練が何をすればいいのかはっきりしないし、それなら手掛かりを探すために迷宮に行くしかないし……」

 エノクとしても早く試練を達成したいのはやまやまだが、まず託宣にあったレムリアを覆う闇とやらが何の事かも分からないのだ。それならば、今は目の前にある壁をひとつひとつ越えていくしかないだろう。そして何より、顔見知りのオリバーやマルコが被害に遭ったというのに、見て見ぬふりをして自分達の目的だけを優先するというのはあまりにも薄情だ。

「……そうですか。エノク君がそう言うならもう何も言いません。どうにか頑張りましょう」

「すみません……」

「謝る事はありませんよ。危険なミッションになりますから、きちんと準備をしなきゃいけませんね。他の皆さんを呼んできて貰えますか?」

「はい!」

 鎧を置いて部屋を出ていくエノクの背中を見送り、モモコは渋い表情で天井を仰いだ。先程言った事に嘘は含まれていない。オリバーやマルコ、衛士隊……多くの犠牲が出ているこの状況で自分達だけ安全な場所へ退避しようという程彼女は冷酷な人間ではないのだ。モモコが懸念している事は別にある。

 二体目のベルゼルケルと対峙したあの時、エノクは重傷の三人を助けに行こうとしていた。恐らく深い考えは無く、咄嗟の行動だったのだろう。そう、彼はああいった場面に直面した時、咄嗟に誰かを助けようと動けてしまう人間なのだ。それは人間社会においては賛美されるべき事なのだろうが、樹海の中ではそうとはいかない。元より助けようとしたところで助けられない命の方が多い場所だ。いちいち他人に手を差し伸べていては自分の命が危うい。それでもきっと彼は剣を手に駆け出すのだろう。それがとても恐ろしかった。

 モモコは長い吐息をこぼし、そっと目を伏せた。彼女は知っている。かつて、そうして自らを犠牲に仲間を救ったひとの背中を確かに覚えている。


   ◆


 獣王の住処は碧照ノ樹海地下三階の最奥部にあるらしい。地下二階から逃げ出して以降の目撃情報が一切無い事を鑑みると、恐らく住処に籠って傷を癒しているのだろう。迷宮深部の探索には危険が伴うが、このチャンスを逃すわけにはいかない。ベルゼルケルの傷が癒え、再び上層を徘徊するようになってしまえば更に犠牲者は増えていくのだ。今のうちに仕留めてしまわなければならない。

 『森の破壊者』の手によって粉々になった木の破片を踏み越え、『スターゲイザー』は迷宮最奥部を目指して歩を進めていた。地図はあらかた完成し、装備も十分に整っている。ベルゼルケルの居場所が分かり次第、今日にでもアタックをかけるつもりだった。

 現在は戦いに備えて休息をとっている所だ。見晴らしの良い水辺に腰を下ろし、軽食を摂りつつこれからの作戦を話し合う。例によってヘンリエッタは少し離れた場所にいるが、恐らく話は聞こえているだろう。

「今回はあっちも満身創痍って訳じゃないからな。とにかく動きを止めたいよなあ」

「攻撃はまともに受けないように。とことん撹乱しましょう。腕を封じられれば随分と楽でしょうから、チエリちゃんは腕を……」

 サヤとモモコがてきぱきと話を進めるのを、エノクは唖然としながら聞いていた。熟練冒険者のモモコはともかくサヤは迷宮初心者だという話だったが、彼には戦闘に関してはエノクなど比ではない程の経験があるようだった。"シノビ"というのがどんな職業なのかはよく分からないものの、彼の存在はこのギルドにとってなくてはならないものとなっている。

 機会があれば、どういう経緯でマギニアに乗り込んだのか訊いてみようとぼんやり決意するエノクの肩を、隣に座っていたチエリがちょんちょんとつつく。

「エノクくん、余裕そうだね」

「えっ!? いや、そうでもないけど……」

「あたし、すごい緊張してる……エノクくんは怖くないの? 失敗したら死んじゃうかもしれないのに」

 沈んだ顔のチエリの問いかけに、エノクは困ったように頬を掻く。

「確かに、怖いけど……」

「けど?」

「……きっとこれも試練のひとつなんだ。乗り越えなきゃ、僕は"ハイランダー"にはなれない」

 内容こそ違えど、里の先人達が乗り越えてきた試練はどれも命の危険を伴うものだ。身ひとつで断崖を登ったり槍一本だけを頼りに山に籠ったり……それらの試練とこうして迷宮に潜って魔物と戦っている状況と、己の力と勇気が試されるという点では何も変わらない。

「だから自分にできる限りの事をやるよ。僕はまだ未熟者だけど、せめて里の教えに恥じない自分でありたいんだ」

 エノクの返答にチエリはぱちりと目を瞬かせた。いつの間にやらサヤとモモコも作戦会議を中断して彼の言葉を聞いている。何かまずい事でも言ったのかと焦るエノクを見つめ、チエリがぽつりと呟いた。

「エノクくんってさ、…………ううん、何でもない」

「え……何?」

「本当に何でもない。頑張り屋さんだねってだけ」

 いや、さっきの声は明らかにそんなトーンではなかった。一体何なのかと再度問おうとしたところで、一同を呼ぶ声が聞こえてくる。声の主は探索に同行し、単身で周囲を見て回っていた踊り子の女性冒険者だ。

「『スターゲイザー』! 見付けたよ! ヤツの住処だ」

 彼女の言う場所は固く閉ざされた扉の奥にあった。こっそりと忍び込み、息を潜めて辺りを見回す──大部屋には辺りを警戒する『森の破壊者』が二体と、彼らを従えるようにして奥部に鎮座するベルゼルケルの姿があった。『森の破壊者』は間断無く周囲を見回しては鼻をひくつかせ、侵入者の気配を感じ取ろうとしている。このまま考えなしに突っ込めば彼らを相手取る羽目になってしまうだろう。チエリが眉を下げて呟く。

「三体も戦えないよぉ……」

「仕方ないですね。どうにか見付からないようにこっそりと……」

 と、その時である。パキ、と何かが弾けるような小気味の良い音が部屋に響き渡った。二体の『森の破壊者』が一斉にこちらを向く。信じられない、といった表情を浮かべる仲間達と二体の熊の敵意に満ちた視線を受けつつ、うっかり木の枝を踏み抜いたエノクは青い顔で呟いた。

「すみません……」

「馬鹿野郎ー!!」

 サヤが絶叫するのとほぼ同時に、『森の破壊者』達が唸り声を上げて襲い掛かってくる。どうにかかわして距離を取るが二体は依然として攻撃態勢のまま、しかも彼らの立ち位置はちょうど出入口を塞ぐ形になってしまっている。一度撤退する事も不可能だ。となれば、このまま獣王を討つより他に道は無い。

 仕方ないね、と呟き、踊り子が前へ出る。

「私がヤツらの相手をするよ。その間にベルゼルケルをお願い」

「でも……」

「大丈夫! これでも剣には自信があるの。……頼んだよ、『スターゲイザー』」

 ひとつ微笑みを残し、彼女が二体の魔物の前へ躍り出るのを見送ると『スターゲイザー』もまた駆け出してベルゼルケルの元へと向かう。獣王もこの騒動には気付いていたらしい。ゆっくりと腰を上げ、眼前に現れた闖入者達を見据える。五人もまたそれぞれの得物を手に取り真っ直ぐにその鋭い視線へと対峙する。

 つんざくような咆哮が、戦闘開始の合図だった。

 サヤが目にも留まらぬ速さでベルゼルケルの足許へと滑り込み、以前と同じように腱を斬りつける。が、その傷は脚を封じるまでには至らない。サヤに意識が向いた隙にモモコが目を狙って放った矢は寸でのところで顔を掠めた。切れた赤毛が宙を舞う。一度後ろへ退こうとするサヤを狙って振り下ろされた一撃はエノクが盾で受け止めた。やはりと言うべきか、このベルゼルケルの攻撃は一体目のものよりも速く、重い。衝撃にぐ、と息を詰まらせるエノクにモモコが叫ぶ。

「まともに受けないで! 流しなさい!」

「ッはい!」

 すぐさま飛んできた追撃を、今度は真っ向から受け止めるのではなく爪に添えるような形で盾を構えて受け流す。勢い余って僅かにバランスを崩したその一瞬、駆け込んできたチエリが太い右腕に向かって一撃を浴びせた。以前と同じ、関節を狙った刺突である。さしもの獣王もこれには悲鳴を上げて暴れる。がむしゃらに振り回された腕を何とか避け、チエリはだらりと垂れ下がった右腕に更に斬撃を叩き込んだ。

 右腕を封じられたベルゼルケルは怒りの咆哮と共に背後へ下がる。そして左手で近くに転がっていた大きな岩を掴み上げて握り潰し、そのまま思い切り投げ付けた。石の礫が雨のように降り注ぐ。盾で顔を守りつつ耐えていたエノクは、勢いよく飛んできた石がサヤの頭に命中するのを視界の端に捉えて思わず叫んだ。

「サヤさん!」

「ぐ、……あー駄目だ! ヘンリエッタ!」

 呼び掛けに応じるように、後列へ退いたサヤの周囲を巫術による癒しの光が包む。傷はすぐさま癒えたがどうやら血か、もしくは石の欠片が目に入ったらしい。目元を押さえて踞るサヤを守るようにエノクはベルゼルケルの前に立つ。いつの間にか巨大な熊の右目にはモモコが射った矢が一本突き刺さっていた。完全に自由を奪われた右半身を狙ってチエリが怒濤の攻撃を仕掛けていく。対してエノクは彼女をサポートする形で左側に回り込み、相手の注意を引き付けては攻撃を受け流していく。この調子であれば、じきに決着がつくだろう──エノクの心の中に僅かな安堵が生まれる。

 しかし全身を血で染めながら獣王は尚も大きく吼え、その巨体を丸める。無傷の左腕にぐぐ、と力が込められるのを見たモモコが声を上げた。

「伏せて!」

 刹那、暴風のごとき衝撃が周囲を薙ぎ払う。渾身の力で振り抜かれた左腕の一撃を何とか受け流そうとするが、その衝撃はあまりにも強すぎた。吹き飛ばされた勢いで全身を強かに打ち付け、思わず盾を取り落とす。ぐらぐらする頭を無理やり持ち上げて辺りを見回せば、先の一撃を回避したらしいチエリと前衛に出たモモコがベルゼルケルの注意を引き付けているのが見えた。二人は陽動に向いた職業ではない。早く戻らなければ。

 痛む身体を起こして盾を探すエノクの目の前に、ふと影が落ちる。顔を上げてみれば、盾を片手に下げたヘンリエッタが薄汚れた顔で彼を見下ろしていた。彼が口を開く前に彼女は杖を鳴らして巫術を発動し、盾をそっと地面に下ろす。よくよく見てみれば、ヘンリエッタの腕や脚にも先の石礫によるものらしき細かな傷が残っていた。徐々に身体の痛みが引いていくのを感じながらエノクは盾を拾い上げて立ち上がり、ヘンリエッタに向かって不器用な笑みを作る。

「ありがとうございます」

 例によって無視されるかと思いきや、彼女はちらりとエノクに視線を向けるとひとつ鼻を鳴らした。一瞬呆気に取られたエノクだったがすぐに気を取り直してベルゼルケルを食い止める二人の元へと向かう。

「二人とも下がってください!」

 盾を手に駆け込んでくる姿を見たモモコがほっとしたように表情を緩め、すぐさま後衛に下がって矢をつがえる。チエリも一度退き、ヘンリエッタの治療を受けに向かった。獣王は既に満身創痍だ。エノクは剣を抜き、獣の未だ闘志の宿る片目を睨み返すと掛け声と共に斬りかかる。彼が振るう剣が、後衛からモモコが放つ矢が、ベルゼルケルの毛皮を裂き爪を穿つ。

 ついに巨体がバランスを失い、ゆらりとよろめく。止めを刺すために懐へ滑り込もうとするが、ベルゼルケルが咄嗟に右腕を振り抜いた拍子に飛んできた血飛沫が彼の動きを少しだけ鈍らせた。一瞬の隙が生まれたその間に、獣王の最期の一撃がエノクへ迫る──。

「……させるかよ!」

 そんな声と共に、目前に迫っていた左の爪が指ごと斬り落とされる。エノクは振り返る事なく獣王へ肉薄し、渾身の力でその胸に剣を突き立てた。

 ベルゼルケルはそのまま仰向けに倒れ、暫しの間四肢を痙攣させた後、やがて動きを止めて血の海に沈み込んだ。それを見届けたエノクは荒い息を吐きながら剣を抜き取り、背後を振り向く。すっかり回復したサヤは自ら斬り落とした獣王の爪を掲げてにっと笑った。

「ま、ざっとこんなもんだろ!」

 サヤの後ろには矢を回収したモモコと治療を終えたチエリ、そしてヘンリエッタが安堵の表情を浮かべて歩み寄ってくる姿も見える。遠くから聞こえていた剣戟の音もいつしか鳴り止み、あの踊り子の明るい呼び声が響いていた。

 エノクもようやく肩の力を抜き、強敵を打ち倒した仲間達と喜びを分かち合うため歩き出した、その瞬間であった。

 突如、強い地響きが足許を揺らした。何事かと慌てる一同の目の前に、茂みを掻き分けて巨大な影が姿を現す。巨大な角と、艶やかな紺の毛並みを持つ二つ足の獣──彼らは知る由もないが、遥か東方の地ではケルヌンノスと呼ばれるその獣は、倒れ伏すベルゼルケルと口を半開きにして立ち尽くす冒険者達の姿を認めると高い嘶きのような咆哮を上げた。完全に、敵意を示すそれである。

「……ええ……?」

 反射的に盾を構えつつも、エノクの口から漏れたのはそんな声だけだった。実際のところ、本当に困惑した時はそんな声しか出せないものである。


   ◆


 小さな果樹林での採集を終えたノワールが同行していたマナと共にマギニアに帰還した時、街はにわかにざわめき立っていた。どうやらどこかのギルドが碧照ノ樹海の主を倒して迷宮を踏破したという話のようだが、ノワールにとっては別段興味も無い話題であった。きょろきょろと不思議そうに辺りを見渡すマナの手を引き、耳につく喧騒に顔をしかめつつ足早に通りを抜ける。

「ざわざわしてるー。おまつりかな?」

「馬鹿ばかり騒ぐという点では似たようなものだ」

 おざなりに応え、採集物を売り払うために商会へと向かおうとしたところでノワールはふと足を止めて眉間のシワをますます深くした。通りの向こう側から、見覚えのある集団が歩いてくる。

「あ! 『スターゲイザー』!」

 マナが嬉しそうにぴょんと跳び跳ねて手を振ると、相手もこちらの存在に気付いたようであった。手を振り返しながら近付いてくるその姿はよくよく見れば随分と薄汚れており、五人それぞれの表情もどこか疲れきっているように見える。駆け寄っていこうとするマナを引き留めつつノワールは不機嫌に問う。

「なんだそのナリは」

「ああ……いえ、さっきまでちょっと、魔物と戦ってたもので……」

「……汚れすぎだろう」

「しょうがないっすよ! 熊倒したと思ったらなんかデカいの出てくるし……無事に帰れただけラッキーでしょこんなん……」

 半ば泣き言のようなサヤの言葉にノワールは目を瞬かせた。熊を倒した、という事は。

「碧照ノ樹海を踏破したのか!?」

「すごーい!」

「ええ……私達、これから司令部に報告に向かうので。詳しいお話はまた今度という事で」

「疲れたぁ……早く休みたい……」

 力なく答えて『スターゲイザー』は再び歩き出す。最後尾を歩いていたヘンリエッタがすれ違いざまにじろりとノワールを睨んだが、特に何も言う事もなくそのまま通り過ぎていった。薄汚れた五つの背中を唖然と見送る彼の裾を引き、マナがにっこりと笑う。

「ねー。かっこいいね、ヒーロー」

「…………」

 ノワールは暫し黙り込み、やがて何を思ったのか何やら楽しそうな様子のマナを抱き上げると頬をぷにゅりとつまみ上げた。やーん!と暴れるマナから顔を背けつつ彼は重い息を吐く。

「厄介な縁ができたな……」

「?」

 首を傾げる少女の頭を雑に撫で、ノワールは商会へ向かうために再び歩き出す。街の喧騒は徐々に大きくなっていたが、それを耳にした彼が振り返る事はなかった。

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