【SQX】3-2 ゴースト・アドベント
襲いかかってきた虹色のウーズを斬り伏せ、残っている魔物がいなくなった事を確認してほっと息を吐く。謎の霧のようなものを浴びて意識が遠のいた時は焦ったが、何とか無事に倒す事ができた。
「治療は?」
杖に付着した魔物の体液を鬱陶しげに払いながらヘンリエッタが訊ねてくる。エノクが大丈夫ですと応えれば、彼女は何も言わずに踵を返して戦闘の前に投げ捨ててあった荷物を拾い上げた。
「おーい、大丈夫ー?」
そう言いながら足早に近付いてくるのは不思議な衣装を着た褐色肌の女性だ。その傍らには大鎌を携えた青年もいる。どうやら二人も無事に魔物をやり過ごせたようだ。武器を収め、エノクとヘンリエッタも二人の元へ近付いていく。
魔物のはびこる迷宮を歩くには少々心許ないこのメンバーが、飛竜の巣の中で生き延びていた僅か四人の生存者であった。
かねてから捜していた商人の女性と、衛士隊と共に彼女の捜索にあたっていた冒険者レオと。二人の協力者と共にエノクとヘンリエッタは飛竜の巣周辺を探索していた。連れ去られる際にアリアドネの糸を紛失した事は大きな痛手だったが、レオが地図を持っていたのは幸いだった。魔物との戦闘はなるべく避け、地図を片手に慎重に探索を進めていく。
少なからず衛士隊や冒険者の手が入っていた上層と比べると、この場所は殊更に静かで鬱蒼としている。この空間そのものが完全に野生動物と魔物の領域である事が肌で感じられ、ただ歩いているだけでも言い様の無い不安が胸の内に湧き上がってくる。
今日はもう休まない?と商人が提案したのはちょうど辺りが暗くなり始めた頃だ。幸いテントが張ってある場所まで戻れる抜け道を見付けていたため、彼女の言う通り一晩休んでまた明日探索を再開する事になった。商人が持っていた食糧を分け合い、慣れない形での探索に疲れた体を休める。
「出口、なかなか見付かりませんね……」
保存食を食べながら物憂げな表情でそう呟いたレオにヘンリエッタが鼻を鳴らす。
「何だ? 諦めるなら置いていくぞ」
「ああいや、そういう訳じゃ」
「気が滅入る。愚痴は他所で吐け」
突き放すような言葉にレオは困ったような顔で黙ってしまう。エノクは複雑な表情でヘンリエッタを見た。これまでの探索の中ではまったく口を開かなかった彼女だが、こうして遭難してからというものよく喋る。放たれる言葉は大半がとげとげしいものだが……。
「……じろじろ見るな」
「え! あ、すみません……」
帽子の下から覗く赤い瞳にじろりと睨まれ、エノクは思わず身を竦ませた。彼女も悪い人ではない事は分かるのだが、如何せん態度に圧がありすぎる。正直怖いがこんな状況ではそんな事も言っていられない。ヘンリエッタもこんな状況だからこそ無言を貫くのをやめてエノク達とコミュニケーションを取るようになったのだろうし、今は何より協力してここを脱出する事が重要だ。
自分の分の食糧を食べ終え、ヘンリエッタは荷物を抱えて立ち上がった。
「二時間後に交代だ」
それだけ言うと、彼女は商人がすやすやと眠っているテントの中へと入っていく。火を焚き、獣避けの鈴を設置しているとはいえ夜間に魔物がやってくる可能性もゼロではない。見張り番は二人立て、二時間おきに一人が交代する事に決まった。最初はエノクとレオが見張りをする番だ。
テントの中でヘンリエッタが身動ぎする気配が無くなった頃、エノクは眠気を堪えているのか隣で大きく伸びをするレオにおずおずと話しかける。こうして行動を共にする前から、彼にはずっと聞きたかった事があった。
「あの、レオ君」
「何?」
「この迷宮を一人で探索してたんだよね。その……レオ君は、死ぬのが怖くないの……?」
「…………」
エノクの率直な疑問にレオは口を閉ざして俯く。その横顔に慌てて前言撤回しようとしたエノクを片手でそっと制止し、彼は俯いたまま呟いた。
「死ぬのは怖いけど……ボクのせいで誰かが死んでしまう方がずっと怖いんだ」
「…………」
「上の階で出会った時、君達の治療を断ったよね」
エノクはひとつ頷く。地下二階でF.O.Eに追われて怪我をしていたレオを見付けた時の話だ。
「あの時はごめん。本当は嬉しかったんだけど……ボクの近くにいたら君達も危ない目に遭うんじゃないかと思ったら、……」
言葉を切り、レオは長い溜息を吐き出す。彼が今まで行動を共にした仲間達をことごとく失っている、というのは他でもない彼自身の口から聞いた事だ。果たしてその経験がどれだけの痛みを伴うのか、レオがどれほど苦悩したのか、駆け出し冒険者でしかないエノクにはその十分の一も理解できないが、それでも伝えておかなければならない事がひとつある。
「でも……だからって一人で無茶するのはやめて欲しいな。僕だって、きみが死んだら悲しいし……」
レオの肩が揺れる。痛いほどの沈黙が下り、焚き火の中で薪が爆ぜる音と微かな虫のさざめきだけが辺りに満ちる。やはり余計な事を言ってしまったかもしれない。居たたまれない気持ちでうなだれるエノクをちらりと見やり、暫し目を伏せてからレオは口を開く。
「そう……だね。誰かに死なれるのは、辛いよね」
「レオ君」
「無茶したりはしないよ。だから君達も死なないで。皆で無事に地上へ帰ろう」
「……うん、約束する」
エノクが頷けばレオも小さく笑った。迷宮上層で出会って以来、彼が初めて見せた笑顔だった。
「……街に帰ったら、一緒にご飯でも食べに行かない?」
「あ、それ良いね。美味しいものいっぱい食べたいな……ステーキとか……」
小さな声で談笑する二人を焚き火の光だけが照らしている。
◆
一行がテントを出たのは夜明けを迎えてすぐの事だった。きのう探索を切り上げた場所へ戻り、ツタが這う扉の前に立つ。
「昨日と同じようにいきましょう。僕が先行するので、レオ君はしんがりを」
「了解」
「昨日みたいに不意討ちは食らうなよ」
「は、はい……」
真ん中に非戦闘要員である商人を挟むような形で隊列を組み、慎重に扉を開ける。扉の先は中程度の大きさの部屋になっており、地面には鋭いトゲのついた草が茂っている箇所が多く見られた。商人がうぇーと嫌そうな声を上げる。
「これ、踏んだら痛いよね……」
「トゲが無い所を歩いた方が良いですね」
言いながらレオが指さした先には、トゲの生えていない地面がある。獣の通り道にでもなっているのか、この場所だけは草が根付いていないようだ。エノクは彼の言葉どおりトゲが無い場所を選んでゆっくりと足を踏み出す。赤いトゲの隙間を縫うように走る緑の道は部屋の反対側まで続いている。このまま道なりに歩いていけば安全に出口まで辿り着けるだろう、と思ったところで、エノクはふと辺りを見回した。すぐ後ろにいたヘンリエッタが怪訝な顔をする。
「何だ急に」
「あの……今、誰かの声がしませんでしたか? 子供の声みたいな……」
「こんな所に子供がいるわけ無いだろ」
それはもっともである。だが、微かに聞こえた気がしたのだ。何と言っているのかは分からなかったが……。
「……もしかして、疲れてる? ここを抜けたら一回休もうか」
レオの気遣うような言葉にうーんと唸る。確かに、自分では気付いていないだけで精神的に疲れているという可能性も否定できない。それも幻聴が聞こえる程というなら相当だろう。心を落ち着かせる巫術などは存在するのだろうかと考えつつ出口を目指して再び歩き出した、その時であった。
『後ろだ、見付かってるぞ』
「……!?」
耳許で響いた声に思わず振り返る。聞き間違いなどではない。確かに子供の声がはっきりと聞こえた──背後の三人にそう訴えるより先に、目に飛び込んできた光景にエノクの呼吸が一瞬止まる。
尾の毒針を揺らめかせ、背後から音もなく忍び寄る影──。
「レオ君! 後ろ!!」
はっとしたレオが鎌を突き出すのと、魔物が彼に飛びかかるのとはほぼ同時の事だった。突き出された尾を寸でのところで防ぎ、レオは商人を守るようにして魔物と対峙する。『密林の殺し屋』と呼ばれる巨大なサソリの魔物は鋏を鳴らしながら威嚇音を発し、縄張りに入り込んだ四人に対して殺意を向けていた。
たった三人で、しかも商人を守りながらF.O.Eを相手にするのはあまりにも無理がある。部屋の出口までの距離は決して遠くはないが、果たして全力で走ったとして逃げ切れるだろうか。いや、恐らく不可能だ。逃げたとしても床のトゲに足を取られてしまうし、だからいってトゲの無い場所を辿るのはもっと無謀だ。
エノクは奥歯を噛み締める。それならば、こうする他はあるまい。
「……レオ君! ヘンリエッタさん! 彼女と一緒に扉の先へ!」
ヘンリエッタが驚いた表情でエノクの顔を見た。レオの顔がさっと青くなる。
「でもそれじゃ、君が」
「僕もすぐに後を追います。早く!!」
「そんな……!」
言葉を続けようとしたレオの肩をヘンリエッタがぐいと引いて走り出す。不安げな顔でエノクを見ていた商人が意を決したようにその後を追うのをちらりと見送り、エノクは盾を構え直す。
逃げ出した三人に一瞬気を取られていた『密林の殺し屋』だったが、すぐにエノクへ向き直ると残った獲物を仕留めんと突撃してきた。襲いくる両腕の鋏と毒針を受け流し、そのまま盾を振りかぶって脳天めがけて殴りつける。魔物は頭部の傷に体液を滲ませながら二、三歩後退するが、その無機質な目は依然エノクの方へと向いている。どうやら相手もそう簡単に逃がすつもりは無いらしい。これからどうするか──呼吸を整えながら魔物を睨みつけたその時、背後から聞こえた葉擦れの音に背筋が凍るのを感じた。
彼の後ろ、ちょうど出口のすぐ前に、もう一体の『密林の殺し屋』が立ち塞がっている。
やられた。最初の一体が身を潜めて狩りの機会を窺っていたのと同じように、他の個体がどこかに隠れている可能性を疑ってかかるべきだった。急激に加速する鼓動の音を聞きながらエノクは盾を構える。退路は塞がれた。来た道を引き返すのも難しい。二体の魔物はじりじりと迫ってきている。どうすればいい。考えろ。考えろ。僕は、まだ──。
その時だった。突如、最初に姿を現した方の『密林の殺し屋』の左目に裂傷が走る。体液を撒き散らして身を縮める同胞の姿に動揺したのか、もう片方も毒針を掲げて警戒した様子で辺りを見回す。何が起こったのかを考える暇もなく、一瞬の隙を突いてエノクは踵を返して駆け出した。勢いのままに茂みの中に飛び込み、振り返らずに走り抜ける。
さて、これからどうするか。太い樹に身を預けて荒い息を吐きながらエノクはぼんやりと考える。地図はヘンリエッタに預けてしまってあるし、そもそもこんな森の中は地図にも記さないような場所だ。手元にあったとしてもさして役には立たないだろう。当然、さっきの部屋に戻る訳にもいかない。自分が置かれている状況を考えれば考えるほど気分が沈んでいく。あまりにも絶体絶命である。生きて街へ帰る未来が見えない。
と、そこまで考えたところではっとしたエノクは後ろ向きな考えを振り払うように首を振り、頬をぺちぺちと叩く。とにかく、この場所から抜け出さなければならない。どこかの部屋か通路に出られれば、三人と合流できる可能性も少しは高まる筈だ。
方角も分からないままに木々の隙間を縫って歩き出す。森の中は静かだが、時折鳥のさえずりや小動物が草葉の間を移動する音が聞こえる。魔物がいなければ平和な場所なのになあと思いつつ歩いていると、目の前の木陰から紫色のウーズが現れた。毒霧を食らう前に慌てて剣で斬り倒す。
毒にさえ気を付ければこの程度の魔物に遅れをとる事はない。少なくとも先程のF.O.Eに比べれば、ウーズの一体くらい可愛いものであった。
「いやあ、しかしさっきのサソリは危なかったなあ」
「本当だよ……。………………え!?」
唐突に聞こえた自分のものではない声に思わず顔を上げる。声の主はすぐに見付かった。エノクの隣にその人物は呑気な表情で佇んでいた──より正確に言うならば、浮かんでいた。黒髪の子供だ。赤いタータン柄のマントを身に付けた十歳足らずの少年が、エノクの隣にふよふよと浮いている。
エノクの視線を受け、少年は驚いたようにきょとんと目を瞬かせる。
「もしかして……俺が見えてるのか?」
「え、え、え……」
「ああそうか、見えてるかー。そうか……」
「な、なん……見え……何……?」
「見えてるならしょうがないな」
にっこりと笑みを浮かべ、少年は身を翻して事態が飲み込めず混乱するエノクに向き直った。そこでようやく、エノクはある事実に気付く。少年の足首あたりから先は、霞のようにぼやけて消えていた。宙に浮いて、足が無くて、突然現れる存在……こうなれば思い浮かぶものはひとつしか無い。
幽霊である。
「うわああぁっむぐ!!?」
「わっ馬鹿! 叫ぶと魔物が来るだろ」
声を上げかけたエノクの口を少年が慌てて塞ぐ。口に当てられた手はひんやりとしていて羽根のように軽く、その人間の手にあるまじき感触にエノクはますます血の気が引く思いがした。これは、マジのオバケだ。もしくは妖怪だ。僕が本気で苦手なタイプの存在だ。
少年は顔を青くして震えるエノクにやれやれと溜息を吐く。
「そんな化け物でも見たような目をされるとちょっと傷付くな……」
そう呟いた表情はどこか寂しそうで、エノクは少しばかり正気を取り戻した。得体の知れない存在とはいえ、年端もいかない子供にそんな顔をされると良心が痛む。この青年の事を多少なりとも知っている人ならば大抵は既に気付いているだろうが、彼はたいへんなお人好しであった。
「ご、ごめん……」
「気にするな。でも化け物扱いはやめてくれよ」
少年は微笑み、エノクと視線を合わせて言う。
「まずは自己紹介だな。俺は『残像』──まあ、幽霊もどきみたいなものだ。お前にずっとついて来てた。改めてよろしくな、エノク」
エノクは暫し黙り込んだ。少年の言葉を頭の中で何度か反芻し、やがて大きく息を吸い込んで叫ぶ。
「やっぱりオバケじゃないかあー!!!」
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