【SQX】4-2 彼方の背を追う
両親は物語の登場人物だった。
ラガードの世界樹を踏破した勇者、蒼天へと到った英雄。物心つく前から冒険譚を聞かされて育ってきた。君のご両親はすごい人だったんだよと、彼女を取り巻く多くの人がそう言った。
父は勇敢な剣士だったという。刀を振るって未踏の路を切り拓いたのだと。母は気高い薬師だったという。旅の終わりまで仲間を支え続けたのだと。勇気と苦悩と希望と死と。多くのドラマに彩られた、彼女には想像もつかないような物語を語った後で、誰もが言うのだ。
君も、ご両親のようになれるといいね。
◆
喉元を切り裂かれたオオヤマネコが甲高い悲鳴を上げて地面に崩れ落ちる。暫くのあいだ鮮血を吹き出しながら痙攣していたそれがついに動かなくなるのを見届け、チエリはほっと息を吐いた。噂通りの手強い相手だったが、何とか倒す事ができた。
腰に差してあったナイフを引き抜いたモモコがオオヤマネコの死骸に歩み寄り、素早い手つきで四肢から爪を外していく。小刀を握ったままのサヤはその傍らに立って周囲を警戒しているようだ。少し離れた場所では手甲の上から手を噛まれていたエノクがヘンリエッタの治療を受けている。他のメンバー達の様子をひととおり確認し、彼女は大きな溜息を吐いた。みんな何だか余裕そうだ。自分はいつあの凶悪なネコに飛びかかられて頭からかじられるかと気が気でなかったのに。
やっぱり皆はすごい。それに比べると自分はどうだろう。知識も経験も無いのに前線に立って、足を引っ張っているだけではないのか。本格的に迷宮に入り手強い魔物と戦うようになってからずっと思っていた事だが、近頃は特に強くそう感じる。ただ自分がそう思い込んでいるだけだという事は分かっている。だが万が一、思い込みでは無かったとしたら?
その時、手元の刀を見つめてじっと立ち尽くすチエリの肩をぽんぽんと叩く手があった。振り返れば、盾を手にしたカリスが疲れた顔に笑みを浮かべて立っている。
「大丈夫デスか? ぼーっとしてるデスけど……」
「だ……大丈夫! カリスちゃんこそお疲れ様。盾職って大変でしょ」
「何のこれしき、へっちゃらデス!」
そう言ってカリスはぐっと拳を握るが、チエリには彼女が無理をしているようにしか見えない。チエリが神妙な表情を浮かべているのに気付いたカリスは眉を下げて困ったように笑った。
「本音を言うと、ちょっと疲れちゃったデスね」
「……だよね。あたしも……」
「皆さんすごいデス。手強い敵もすぐにやっつけちゃって……チエリちゃんもアタシより年下なのにそんなに戦えるなんて、尊敬するデス」
その言葉は素直な賛辞だったが、今まさに思い悩んでいる最中のチエリには逆効果であった。そっと俯いたチエリを見て不思議そうに目を瞬かせるカリスに何か訊かれる前に、彼女は慌てて顔を上げて口を開く。
「あのさ、カリスちゃんはどうして強くなりたいの?」
「きゅ、急な質問デスね……」
カリスは顎に手を当ててむむむと唸り、目を閉じて考え込む。少し離れた場所で地図を広げて作戦会議をしていた他の四人が何事かと視線を向けてくるのに手を振って何でもないと応えながら、チエリは彼女の答えを待った。暫しの沈黙の後、カリスはゆっくりと言葉を選び取るようにして喋りだす。
「追い付きたい人がいるから……デスかね」
「追い付きたい人……」
「半分以上はアタシのわがままなんデスけどね。せめて、隣に並べるくらい強くなりたくて……」
でもなかなかうまくいかないデス、と笑う彼女の横顔はどこか寂しげだ。
「追いかける背中があるのは、何も目標が見付からないよりは幸せな事デスけど……やっぱりたまに苦しくなるデスね。……って言ったら、勝手な事言うなって怒られるんだろうなあ……」
後半の呟くような言葉は果たして誰に向けたものか。少なくとも今カリスが見ているものが自分ではない事を感じ取りながら、チエリは彼女の言葉を慎重に噛み砕いて飲み込んだ。
続けて何か言おうとしたカリスが口を開く。が、それは会議を終えたらしいサヤのおーいという呼びかけに遮られた。
「そろそろ行くぞー。次の階探すんだろ?」
「はーい! 今行くデス!」
元気に返事をしたカリスは、一度チエリに向き直って困ったような笑顔を浮かべると荷物を手に四人の元へ歩いていく。残されたチエリは俯いて自身の足許をじっと睨み付けた。胸の奥に何かが引っかかるような感覚がある。腹の奥から湧き上がってくるのは漠然とした焦燥感で、息が詰まって足が動かなくなるような気さえする。
……そうやってじっと考え込んでいたものだから、チエリは頭上にそっと落ちた影に気付く事ができなかった。彼女のいる場所の真上、林から突き出た木の枝でもぞもぞと動く黄緑色のそれにいち早く気付いたサヤが声を上げる。
「チエリ!」
はっと顔を上げた時には枝から飛び降りたお化けドリアンが目の前に迫っていた。刀を掲げて防御する暇もなく、落下してきたドリアンが額に衝突する。予想外に重い一撃にチエリは脳が揺れるのを感じた。ぐふ、という悲鳴と共に、衝突された勢いのまま背中から地面に倒れる。
「うわーっ! チエリちゃーん!!」
「何ボーっとしてるんだ馬鹿か!」
カリスとヘンリエッタが慌てて駆け寄ってくる。チエリの額を蹴飛ばして着地したお化けドリアンはモモコが放った矢に貫かれて動かなくなった。ヘンリエッタの治療を受けながらううーんと呻くチエリを見てサヤが呆れたように言う。
「本当に大丈夫かよ……」
小さな呟きにはモモコが溜息で応えた。そんな中、にわかに慌ただしくなる仲間達の姿をエノクは一歩退いた場所から眺めている。
◆
『スターゲイザー』が拠点にしている宿・湖の貴婦人亭はマギニアの中でも他の宿屋や酒場が多く集まる区画に位置している。そのため夜になると冒険者達の酒盛りが始まるなどして周囲が騒がしくなる事がしばしばあるのだが、どうやら今日はちょうどその日であるらしい。風に乗ってどこからか聞こえてくる歓声に耳を傾けながら、装備を外して身軽になったエノクは静かに客室を出る。
客室が並ぶ二階から階段を下りてロビーへと向かえば、いつもと同じように受付嬢がカウンターに座ったままうつらうつらと舟を漕いでいた。よくよく見てみれば、その傍に座り込むマーリンは自分が代わりに店番をしているとでも言うかのように背筋を伸ばしてずっしりと鎮座している。エノクは思わず苦笑した。そっと歩み寄り、少女の肩を揺らす。
「ヴィヴィアンさん、起きてください」
「んん~……? ぅんー……おはよ……」
「おはようではないですけど……あの、チエリ見ませんでした?」
控えめに問いかければ、ヴィヴィアンは半分しか開いていない目を擦って小さく声を上げた。
「あー見た見た、チエリさんね。さっき出てったと思うよー。一人でどこ行ったのかね……ふぁ……」
「ありがとうございます」
頭を下げれば、机に突っ伏して再び睡眠の体勢をとり始めたヴィヴィアンの代わりにマーリンがまーおと鳴いた。玄関を出たエノクはぐるりと周囲を見回す。通行人はちらほらと見えるが、その中に見知った姿は無い。しばし考え込んだ後、エノクは静かに歩き出した。はっきりとした行き先がある訳ではない。どこかから聞こえる喧騒から遠ざかるようにして足を進めていく。
人もまばらな通りを抜けて辿り着いたのは小さな広場だった。ささやかな花壇とベンチがあるだけの空間に捜していた後ろ姿を見付け、エノクはそっと声をかける。
「チエリ」
振り返った少女の表情は今までにないほど沈んでいた。すぐ側まで歩み寄りって隣いい?と聞けば、チエリは無言で頷く。彼女の横に腰かけたエノクはひとつ息を吐き、ふと視線を上に向けた。上空には雲ひとつ無く、満天の星空に欠けた月が浮かんでいるのが見える。こうしてマギニアから見る空も綺麗ではあるが、やはりハイランドの山から見える澄みきった空と比べると少し見劣りするように思う。
故郷の景色に思いを馳せつつ、エノクはどこか居心地悪そうに身動ぎするチエリに向き直って問いかける。
「今日のこと気にしてる?」
「……気にするよ。ぼんやりして奇襲されるなんて、情けない……」
呟くように答え、チエリは微かに腫れの残る額を指先で撫でた。どうやら相当落ち込んでいるらしい。ええと、と頬を掻いてエノクは再度問う。
「やっぱり、この間言ってた悩みっていうのが原因……だよね」
「…………」
「その、僕でよかったら、もう一回詳しく話してくれないかな。力になれるかもしれないし……」
段々と自信なさげな響きになっていくその言葉をチエリは黙って聞いていた。暫しの沈黙が下りる。エノクは俯きがちの横顔を見つめて彼女が口を開くのをただ待っている。
広場を通り抜けて家路を急ぐ市民を何人か見送った後、ようやく少女は話を始める。
「……あたしのお父さんとお母さんね、ラガードの辺りでは有名な冒険者なの」
知ってる? という問いかけと共に告げられた二人分の名前にエノクは首を振った。そっか、と呟きチエリは続ける。
「あたし、ずっと二人に憧れてたの。二人みたいな冒険者になりたくて……だから一人で家を出た」
「……お父さんとお母さんみたいな冒険者になるために?」
「でも、やっぱりダメだよ。上手く戦えないし、みんなに迷惑かけるし。やっぱりあたしじゃお父さんみたいな剣士にもお母さんみたいな薬師にもなれないや……」
そう言うと、チエリは重い息を吐いて再び黙り込んだ。エノクは彼女の言葉を頭の中で何度か反芻する。チエリの苦悩はよく分かる。エノクとて理想と現実のギャップに悩んだ事は一度や二度ではない。だからこそ、浮かんだ疑問を素直にぶつける事にした。
「チエリのお父さんとお母さんってさ、そんなにすごいの?」
「……どういう意味?」
「ああいや、変な意味じゃなくて。有名な冒険者って事はすごく強いんだよね」
「うん……強い魔物もいっぱい倒したんだって」
「そんなにすごい冒険者なら、すぐに追い付けなくても当たり前じゃない? 僕ら、まだ探索を始めて一ヶ月くらいしか経ってないんだし」
チエリはそうだけど、と呟いて顔をしかめる。彼女自身そんな事はとっくに分かっているのだろう。分かっていてもついつい思い悩んでしまうのが人の性というものだ。
エノクは考える。何とかしてチエリを元気付けてやりたい。彼女が落ち込んだままでは探索に支障が出るという理由もあるがそれ以前に、悩んでいる仲間を放っておく事はエノクにはできなかった。
どこか遠くから微かな歓声が聞こえる。賑やかな世界から切り離されたような錯覚を抱きながらエノクは口を開く。
「チエリはさ、お父さんやお母さんになりたいの?」
「え?」
「さっきから聞いてると二人みたいな冒険者になりたいっていうより、二人と何もかも同じになりたがってて……だから焦ってるように見えてさ。……どうかな?」
思いもよらない質問にチエリは目を丸くする。そんな事は今まで考えた事もなかった。物心ついた時には既に、彼女の夢は両親のような冒険者になる事だったのだ。そのために他でもない父の反対を押しきって剣を習ったし、母に医術の手ほどきを受けた。それを間違っていたとは思わないし後悔もしていない。今だって立派な冒険者になりたいという夢は変わらない。
ならば、『両親のような冒険者』とは?
片腕を失うまで長く前線に立ち続けた優しい父と、ギルド解散の時まで仲間を癒し続けた強い母と。チエリはそんな両親の事が大好きで尊敬していた。けれど、少しだけ辛かった。チエリは生まれた時からずっと『偉大な冒険者の娘』でしかなかった。多くの人が両親の存在ありきで彼女に接してきた。彼らが、彼女らが見ているのは、いつだってチエリ本人ではなくてその向こう側にいる両親の姿だった。それがとても悔しかったのだ。
追いかける背中があるのは幸せな事だけど少し苦しくなる──カリスがそう言っていたのを思い出す。その通りだと思った。それでも遥か遠くにある背中を追いかけ続ける、その理由は。
「……あたしがなりたいのは、お父さんみたいに強くて、お母さんみたいに人を助けられる冒険者……」
「うん」
「お父さんやお母さんと同じになりたい訳じゃない。あたしは……あたしは、あたしにしかできない事を……やりたいの」
そうだ、やっと思い出した。両親と同じ事がしたかったのではない。両親にはできなかった事を、自分の力で成してみたかったのだ。
エノクは笑いながらチエリの手を取った。戸惑うように揺れるライムグリーンの瞳を真っ直ぐに見据えて彼は言う。
「それじゃ、半分くらいはもう叶ってるね」
「え……」
「ビルギッタさんとライカを助けるのも、ベルゼルケルやワイバーンを倒すのも、きみがいたからできた事だ。きみがいなきゃ『スターゲイザー』は回らない」
だからさ、と前置いてひとつ息を吐き、エノクは照れるように頭を掻いた。
「焦る必要なんてないんだよ。向いてないなんて言わずに、これからも僕らと一緒に探索を続けてほしい。それはきみにしかできない事だから」
吹き抜けた夜風が二人の髪を揺らした。遠くから聞こえていた喧騒はいつの間にか聞こえなくなっている。夜の街に下りた静寂の空気は冷たい筈だが不思議と柔らかく、涼やかな感触をもって頬を撫でた。二、三度視線を彷徨わせ、おずおずと少女は問う。
「……あたしでいいの?」
「きみがいいんだ」
「ドリアンに頭ぶつけられるのに?」
「それは……次から気を付けてほしいかな……」
困ったような返答にチエリはようやく表情を緩めた。着物の袖でごしごしと目許を拭い、エノクに向きなおって笑みを浮かべる。
「ありがと。……『ヒーロー』にそう言われると、なんか元気でてくるね」
「そ、それ今関係ないよね!?」
あはは、と声を上げて笑うチエリを見て、エノクも釣られて笑った。ひとしきり笑った後にひとつ息を吐いた彼女が、もうちょっと頑張ってみる、と呟く。エノクは応えなかった。これ以上励ましの言葉をかけずとも、チエリは自分の力で目指すべきものを見つけ出すだろう。
並んで笑いあう二人の頭上には満天の星空が広がっている。
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