【SQX】6-3 あの日の花の下

 人生は積み上げた小石に似ている。初めは無邪気に積んでいた。ひとつ、ふたつと重ねるたびに自分を誇らしく感じた。みっつ、よっつと重ねたところで少し不安になってきた。いつつ、むっつ、ななつ、積み上がった小石の塔を前にしてついに私は動けなくなった。

 子らは変わらず小石を積んでいる。私の姿に目もくれず、天に向かって塔を建てている。私は恐ろしいのだ。笑顔で積み上げたその塔が、無慈悲に崩れ落ちる瞬間が。いつか来るかもしれない喪失の時が。だから私はただ立ち尽くす。手の内の小石を積む事も捨てる事もできず、握りしめたまま。

 ふと見上げた空は晴れていた。ああ、あの頃見た青空はあんなに遠かっただろうか。


   ◆


 世界樹の向こう側に沈んでいく夕陽を眺めながら、モモコは広場の花壇に腰かけて商会で買い込んだ道具類をひとつひとつ確かめていた。回復薬やアリアドネの糸を丹念に数えて袋に詰め直すその手つきは鈍く、時折吐き出す息はひどく重い。通りを行く人々は彼女の姿に気付いているのかいないのか、視線もくれずにただ通りすぎていくばかりだ。

 夜までには宿屋に帰らなければならない。分かってはいるのだが、いつまで経っても重い腰は重いままで花壇から立ち上がる事すらできなかった。赤い日射しが目に眩しい。帽子の鍔をそっと下げて俯く。

 ふと、広場に長い影を落とす彼女の背中に近付いてくる足音がある。石畳を跳ねるように駆けてくるその音に振り向いてみれば、見覚えのある小さな影がそこに立っていた。

 片手にクレープを持ったマナは、振り向いたモモコの顔を見てぱっと目を輝かせる。

「やっぱり! ノワール! ノワール! モモコさんだったー!」

「マナちゃん……こんにちは。お買い物ですか?」

「うん。あのねーこれおやつなの。みてみてー」

「マナ! お前はまた勝手に歩き回って……!」

 食べかけのクレープを突き出してご機嫌に近付いてくるマナを、紙袋を抱えたノワールが慌てた様子で追ってくる。モモコと視線が合うと彼はいつもと変わらずの仏頂面で軽く会釈をした。そのままマナの腕を引いて連れていこうとしたノワールだったが、少女はやーん! と声を上げて唇を尖らせる。

「モモコさんといっしょにたべる」

「勝手な事を言うな。迷惑になるだろう」

「たーべーるーのー!」

「私は構いませんよ。隣に座りますか?」

 モモコが苦笑しつつ荷物を退けて隣のスペースを空ければ、マナは嬉しそうに笑ってちょんと座った。そのままクレープを頬張る彼女の姿にノワールは頭を抱えて溜息をひとつ吐き、自身もマナの隣に腰を下ろす。

「マナねー、いちごのクレープたべるの」

「苺が好きなんですか?」

「うん! いちごはあまくてかわいいから」

「口に物を入れたまま喋るな。服にもこぼして……まったく……」

 ノワールの小言にはあいと応え、それからマナは静かにクレープを食べ始めた。モモコは二人の様子を微笑ましく見守っていたが、やがて表情を曇らせてマナの服に落ちた食べかすを払い落としていたノワールに声をかける。

「ノワールさん。少し話に付き合って貰えませんか。聞いてくれるだけで構わないので」

「……何故私だ。ギルドの奴らに話してやれ。ヘンリエッタが何だかんだと心配していたぞ」

 思いもよらない返答に少しばかり面食らう。そういえばヘンリエッタが治療院に薬草を納品しに行っていた、という事を思い出してモモコはああ、と嘆息した。人づてに話が広まってしまうほど心配されているという事実は素直に心苦しい。

「それは……そうですね。それは分かっているんですが、ある程度距離がある相手の方が話しやすいというか……」

 ほら、歳もそう離れてないですし、という言い訳じみた呟きにノワールは眉間のシワを深くしたが、やがて観念した様子で肩を竦めた。どうやら不本意ながらも了承してくれたらしい。何だかんだとお節介な彼に一言礼を述べ、不思議そうに見上げてくるマナの頭を撫でつつモモコは口を開く。

「エノク君とサヤ君が、私の息子を迷宮に連れていったようで」

「それは聞いた。とんでもない奴等だ」

「ええ。しかもその迷宮が個人的にあまりいい印象のない場所でして。それはもう、自分でもやりすぎではないかと思うくらい、叱ってしまったんですが……」

 一度言葉を切り、額にそっと手をやって彼女は続ける。

「……私にあの子を叱る権利があったんだろうかと考えてしまうんです。実の息子を放って迷宮に潜って……私の方が余程勝手なんじゃないか、と」

「…………」

「でも怖くて堪らないんです。あの子に何かあったらどうなってしまうか分からない。息子だけじゃありません。本当は探索だってしたくない。もしエノク君が、チエリちゃんが……世界樹の迷宮が、また私の大事なものを……」

 モモコは目を伏せる。顔を両の手のひらで覆い、絞り出すような声で呟く。

「夫の遺体は、形を留めていなかった」

 背を丸めて深く項垂れた彼女の姿を、沈みかけの太陽が赤く染め上げている。ノワールは何も言わず、不安そうに肩を揺らしたマナの髪を梳く。

 大通りから響く雑踏と聞き取れない話し声と、どこかで赤ん坊が泣いている声が、モモコの圧し殺した呼吸音を掻き消していた。吹き込んだ生温い風が潮の香りだけを残して三人の間をすり抜けていく。背後に咲く花々がざわりと揺れた。 夕陽に照らされた花弁はどれも赤く光り、元の色の見分けはつかない。

 細く、長く、息を吐き、モモコは再び口を開く。

「自分が嫌になります。年長者を気取っていても結局私は自分の事しか考えていない。冒険者としても、母親としても失格です。胸を張ってあの子達の前に立つなんてとてもできない……」

「……ちがうもん!」

 ずっと黙っていたマナが急に声を上げ、モモコにぎゅっとしがみついた。マナ、とノワールが諌めるように呼ぶのも気にせず、少女は驚いた表情を浮かべるモモコをきっと見上げる。

「シッカクじゃないもん! マナのことたすけてくれたでしょ」

「マナちゃん」

「だからね、だからマナはモモコさんすきだよ。だってかっこいいもん……ヒーローだもん……」

「……、……ありがとう。マナちゃんは優しいんですね」

 瞳を潤ませるマナの髪をそっと撫で、モモコはほんの少しだけ表情を緩ませた。暫しの間そうしていた彼女だったが、やがて少女を自身の身体から優しく引き離してノワールに預け、足許に下ろしていた荷物を抱え上げる。既に太陽は水平線の向こう側へと姿を消していた。じきに夜が街を覆うだろう。その前に、宿へと帰らなければ。

 花壇から立ち上がり、モモコは二人に向かって頭を下げる。

「暗い話ばかりしてしまってすみません。でも、聞いて貰えて少しだけ気が楽になりました。ありがとうございます」

 また治療院に遊びに行きますね、とマナに手を振り、モモコは踵を返して歩き出す──が、その背中を呼び止める声があった。驚いて振り返れば、声の主であるノワールはいつもの仏頂面とは少し違った眼差しでモモコを見つめていた。

「訊きたい事がある」


   ◆


 宿に戻る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。客室まで帰ってきたモモコの目に飛び込んできたのは、備え付けの椅子に腰かけて身を縮こめる息子の姿だった。面食らった彼女が何か言う前に、アリーは椅子から飛び下りて緊張した面持ちで母の前に立つ。

「お母さん、おかえりなさい」

「え……ええ。ただいま……」

「この間は勝手なことしてごめんなさい」

 息子がそう言って頭を下げたものだから、いよいよモモコは何も言えなくなってしまった。反省してくれるのは良い事だが、だからといって謝られてもどうしたらいいのか分からない。慰めてやらねばならないとは思うが、もう気にしていない、なんて今の自分にはとてもではないが言えないのだ。

 戸惑うモモコの顔を見てアリーは視線を泳がせ、ひとつ深呼吸をするとあのね、と少し上ずった声で言う。

「実はその、今日は……渡したいものがあって……」

「……渡したいもの?」

「うん。これ……」

 頷き、アリーは後ろ手に隠していたものをモモコに向かって突き出す。それは手作りのブレスレットだった。焦茶色の革紐に幾つかの白い水晶と、中央には大きな桃色の石があしらわれている。

 促されるがままに手に取り、モモコはあっと声を漏らす。間違いない。この桃色の鉱石は、あの桜色の迷宮の。

「薔薇石英……」

 うわ言のように呟いて黙り込む母に、少年はおずおずと告げる。

「どうしても自分で採りに行きたかったんだ。今日は……マギニアでは、母親に感謝を伝える日だって聞いたから……」

 そう言われて、初めてモモコは近頃の街の様子が少し変わっていた事を思い出した。至るところに掲げられた『母の日』の文字──故郷の似たような行事とは日付が違っているためすっかり意識から抜け落ちていた。……いや、ただ目を向ける余裕が無かっただけか。淡い桃色に光る石を照明に透かして暫しのあいだ眺め、彼女はひとつ息を吐いてアリーへ向き直る。

「そう、でしたか。ありがとうアリー。でも、どうして……」

「思い出の石なんでしょ。お父さんから聞いたんだ」

 一瞬、呼吸が止まる。

 頭を殴られたかのような衝撃に動けないでいるモモコに、俯いたままのアリーは気付かない。背中に回した両手をぐっと握りしめ、彼はぽつりぽつりと言葉を吐き出していく。

「プロポーズの時に、桜ノ立橋まで呼び出して……それで薔薇石英の指輪をプレゼントしたって。前に教えてもらったの覚えてたんだ。初めて自分で採った石で指輪を作ったんだって、お父さん、嬉しそうに言ってたから……」

 ──君のために作ったんだ。きっと似合うと思って。

 モモコの目の前に懐かしい情景が浮かんでくる。あの人が生きていた頃、まだ空が近くにあった頃。急に二人きりで樹海に入りたいと言い出して、反対を押しきって彼は桜ノ立橋へと自分を連れ出した。そして機嫌の悪い自分に笑いながら言ったのだ。舞い散る花弁を背にして、指輪を差し出して。結婚しよう、と。

 ──君と二人でなら、どんな事も乗り越えられる気がするんだ。だから……。

 どうして今の今まで思い出せなかったのか。あの人が遺してくれた、大事な思い出の筈だったのに。頭の片隅で色褪せていた記憶たちが、花開くように鮮やかに甦る。あの人と初めて出会った時。仲間と共に探索に赴いた時。最初にあの迷宮に足を踏み入れた時──あの桜舞う庭で、笑っている自分がそこにいた。

 ああ、いつの間に忘れていまっていたんだろう。

「……お母さん、やっぱり怒ってる……?」

 黙り込む母を見てどう思ったのかアリーが控えめな声で訊ねる。モモコはひとつ首を振ると床に膝をついて彼を抱き寄せた。肩を震わせ、何度か身動ぎしたアリーだったが、すぐに力を抜いて母の腕に身を任せる。

「……綺麗な思い出まで、捨ててしまう事はありませんね」

「お母さん」

「アリー、本当にありがとう。でもこんな危ない事はもうしないで」

「……うん。約束する」

「……私は駄目な母親ですね。貴方を放って自分は樹海に行っているくせに、こんなわがままばかり言うなんて」

 溜息混じりの呟きにアリーは何度か瞬きを繰り返し、困ったような表情を浮かべると小首を傾げてうーんと唸る。

「ぼくも……お母さんに危ない事はあんまりしてほしくないって思う時はあるよ」

「…………」

「でも、冒険者やってるお母さんも好きなんだ。弓を射ってるところとか、格好いいし……だから、ケガとかしなかったらそれでいいかなって」

 どこか呑気なその返答にモモコは一瞬呆気に取られ、それから思わず吹き出した。急に笑いだしたモモコをアリーはきょとんとした表情で見つめる。その顔が在りし日の夫によく似ていたものだから、モモコはいっそう可笑しくなって更に頬を緩めた。

 息子の肩にそっと手を置く。いつまでも小さい子供だと思っていた彼の身体は、いつの間にか随分と成長していた。細いながらもその内側にしっかりと存在する質量を確かめながら、彼女は言う。

「ええ、貴方がそう言ってくれるなら……お母さんはまだまだ頑張れます。大丈夫、私は死なないし、誰も死なせない。約束します」

 そこでようやくアリーも笑った。モモコは彼の頭を撫でて立ち上がると淀みない足取りで部屋の出入口へつかつかと歩み寄り、ドアノブに手をかける。勢いよくドアを開くと共にぐびゃ! と情けない悲鳴と上げて部屋に雪崩込んできたのはエノクとチエリとヘンリエッタの三人だ。折り重なって倒れる三人とその後ろで「やべえバレてた」という顔で立っているサヤに、モモコは呆れたような表情を浮かべて告げる。

「盗み聞きは良くありませんが……貴方達にも心配をさせてしまいましたね。すみませんでした」

「あー……いや、丸く収まったなら良かったっす……」

「でも、もし次に同じような事があれば……分かりますね」

「ハイ…………」

 神妙に頷くサヤに肩を竦め、彼女は女子ふたりの下敷きになってアリーに助け出されようとしているエノクに目をやる。倒れた拍子にぶつけたのか、彼は赤くなった顎をさすりながら起き上がろうとしているところだった。一度目を伏せ、ひとつ息を吐いてから被りっぱなしだった帽子を取ってベッドの上に放る。

 ──私にはまだ、やるべき事がある。

 やれ誰が押しただのお前が引っ張っただのとわいわいと騒ぐ若者達の方へ、何事もなかったかのように歩み寄る。いつか彼らの行く末に待ち受けるものが恐ろしい。それはきっとこの先ずっと変わらないだろう。それでも、いつか崩れると分かっていても小石を積もうとするその意志を、守り、愛したいと思ったのだ。その意志をきっと、人は勇気と呼ぶのだろうから。


   ◇


「訊きたい事がある」

 モモコが何か問い返す前に、ノワールは鋭い口調で彼女に向かって問いかける。

「ハイランドの成人の儀……だったか。それに付き合うためにわざわざレムリアまで来たんだったな」

「ええ」

「何故お守りを引き受けた? そこまで言うならこんな所になど来なければ良かっただろうに。たかが知り合いの子供に、そうしてまで付き合う理由はどこにある?」

 一瞬、周囲の喧騒が止んだような錯覚があった。モモコは目を細めてノワールを見やった。不思議そうな顔をしたマナが口を挟もうとするのを留めながら、彼は探るような目付きで彼女を見ている。その目に宿る光に、悪意の欠片は見られない。

 ならば、と、モモコは答えた。

「私なりのけじめです」

 ノワールの表情は変わらない。彼の反応を待たずに淡々と続ける。

「頼まれたんです、"何かあったら助けてやってほしい"と。私はそれに頷きました。ずっと昔の話です。反故にしたって誰も文句は言わないでしょう。けれど引き受けた以上、私は自分にできる最大限の事をやりたかった」

 たとえそれが、と彼女は吐き捨てるように言う。

「もういない相手との約束だとしても」

「…………」

 ノワールは細く息を吐き出した。片手でマナを抱き上げ、もう片方の手で荷物を抱え、静かに立ち上がると彼はモモコを見つめてぽつりと溢す。

「あんたは信頼できる人間だ」

 そのまま踵を返して雑踏の中へ紛れ込んでいく背中と、抱えられたままばいばーいと手を振るマナとを見送り、モモコは暫しその場に佇んでいた。少女に向かって振り返していた手を下ろし、雑踏に飲み込まれていった影に向かって小さく呟く。

「それは買い被りというものです」

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