【SQX】7-3 Dance with beast

 レムリアのマイマイは、踊る。

 などとハイ・ラガードの人間に言えば、頭の具合を心配されてすぐさま薬泉院に連れていかれるだろう。しかし本当の事なのだ。レムリアの古跡ノ樹海に棲む森マイマイは群れのリーダーであるマイマイダイオウを中心に隊列を組み、独特の音を発しながら緩やかなリズムで踊るのである。誰が呼んだか『マイマイ音頭』──人間を眠りにいざなうその踊りの恐怖を、『スターゲイザー』も今しがた身をもって体験したばかりであった。

「気付いたら寝てた。いつ寝たか分からなかった」

 そう言うのは先程まで爆睡していたヘンリエッタである。彼女は戦闘中にマイマイ音頭を見て寝落ちた張本人であった。ムッとした調子のその言葉に、もう一人の張本人であるエノクもうんうんと頷く。

「いや本当にそうなんですよ! マイマイがクネクネしてるのを見てたら急に眠くなって……」

「だからって寝られても困るんだけどな」

「ウッ」

 黙り込むエノクと鼻を鳴らしてそっぽを向くヘンリエッタに呆れたような視線を向けつつ、地図を広げたモモコが言う。

「まあ、怪我が無くて幸いでした。それより問題はこれからどうするかです」

 地下三階に入って既に数時間が経過している。突貫で探索を進めているとはいえ地図の半分程度は埋まっており、にも関わらずエンリーカの姿は未だどこにも見当たらない。どこかで入れ違いになった可能性も無くはないが、あの王女がここまで来てわざわざ上階まで戻るだろうか?

「ズンズン進んでいきそうなタイプに見えたけどねえ」

「案外分からんかもだぞ? 人は見かけによらないし。……まあ、某もそう思うけど」

「あの巫医の女性も探しているようでしたから、捜索はあちらに任せるという手もありますが……」

 そこで言葉を切り、モモコは困ったように懐から取り出した時計に目をやる。薄暗い樹海の中では時間の経過が分かりづらいが、時刻はそろそろ陽が傾き始める頃に差し掛かっている。日没までには必ず街に帰還する、というのはこのギルドが発足して以来の決まり事だ。残された時間はあと僅かしかない。

 時計と、地図と、木々の隙間から覗く空とを見比べ、エノクがそっと口を開く。

「僕は時間いっぱい捜してみたいです」

「見付かるとは限らないぞ」

「うん。でも、あの人と犬だけじゃ探すのも大変だろうし……やっぱり放っておけないから」

 真っ直ぐな目で応えた彼に反論をする者はいなかった。国際問題以前に、この迷宮は一人歩きするには危険すぎる。あの少女を放ってこのまま帰っても今夜の夢見が悪くなるだけだろう。


   ◆


 どこからか響く獣の唸り声や羽ばたきの音を聞きながら樹海の奥へ奥へと進んでいく。流石にここまで奥地になると、浅い階層と比べて魔物も手強くなってきている。それにしてもエンリーカは運悪く魔物に出会ってしまったらどうするつもりだったのだろう。見たところ武器と呼べるような武器は持っていないようであったが……。

「そういう目に遭わなかったからこその『絶対幸運』なんだろ」

 やれやれといった風なサヤの言葉にヘンリエッタが舌打ちをひとつ漏らす。

「その幸運の割りを食うのは周りの奴か。大した王女だ」

「水兵の方も常々一人で出かけてしまうと言っていましたからね。上司がああだと…………今、何か聞こえましたね」

 モモコが呟いて足を止める。サヤだけが同意したように頷くが、他の三人の耳には何の音も届いていない。チエリがキョロキョロと辺りを見回すのをそっと窘め、モモコは一方向をそっと指さして言う。

「獣の声……でしょうか。狼の咆哮のような……」

「でもそんな魔物、この迷宮に……あ!」

 そこまで言いかけたところでエノクは思い出す。このフロアに入った時に顔を合わせた巫医は「ジュニアを先に行かせた」と言っていた。ジュニア……彼女が連れていた黒い犬もこの迷宮にいるのだ。

 と、そこでサヤがこれ見ろ、と声を上げた。何事かと振り向いた四人も、彼が示した先にあるものを見て息を呑む。地面に点々と落ちているのはまだ乾いていない血痕だ。

 血は南の通路へと続いている。その痕を追って周囲に警戒しつつも足早に進んでいけば、血痕を残した主の姿はすぐに見付かった。予想通り、魔物達の死骸に囲まれて草葉の陰に隠れるように座り込む黒い獣……『ジュニア』である。彼はどうやら傷を負っているらしい。艶やかな毛皮は赤く濡れていた。

 『スターゲイザー』の姿を見るなり、ジュニアはぐっと身体を起こしてワンと一声吠えた。ヘンリエッタが杖を掲げて静かに語りかける。

「動くなよ。治りが悪くなる」

 言葉が通じているのかいないのか、手当てが始まった途端にジュニアはじっと動きを止める。しかしその間、彼の視線はある方角にのみ注がれていた。ジュニアが見つめる先、樹海の西をモモコが険しい表情で見やる。

「あちらの方向に……いるんですね?」

 訊ねれば小さな吠え声が返ってきた。ますます眉をひそめて鞄の中身を確認し始めるモモコをよそにヘンリエッタはジュニアの体を確認し、ほっと息を吐いた。応急処置は完了したようである。

「これでひとまず安心?」

「ひとまずはな」

「良かった良かった。んで、これからどうする?モモコ殿」

「……西へ向かいましょう。それと戦闘の準備を。嫌な予感がします」

 低い声で言ったモモコの言葉に他のメンバーも神妙な表情を浮かべる。嫌な予感、とそれだけならただの予感だろうと笑い飛ばす事のできる言葉も、モモコが言うと急に現実味を増してくるのだから不思議なものだ。

 弓を構えながら先行して歩き出した彼女の背中を追って通路を先へ先へと進んでいく。突き当たりには少し広い空間と、その先へ繋がる扉がひとつ。ここまで来れば気配に敏感でない三人にもすぐに分かった。扉の向こうから、聞き覚えのある声がする。

 逡巡する暇すら無かった。扉を蹴り開けて部屋へと飛び込む──途端に目に飛び込んできたのは形容しがたい容貌の巨大な獣と、それに向き合って立つエンリーカの後ろ姿だ。乱入者の存在に気付いたエンリーカは何を思ったのか笑顔で振り返り、すぐにそこにいるのがマギニアの冒険者だと気付いて驚きの表情を浮かべた。

「……『スターゲイザー』」

 彼女が二の句を次ぐのを待たず、先頭にいたモモコが魔物に向けて素早く弓を引く。その姿を見て我に返ったエンリーカはダガーを構え直して大声を上げた。

「マギニアの手を借りる気はないわ! 下がりなさい! この魔物は──」

「それはこちらの台詞です! 貴女ひとりで"キマイラ"が倒せるとでも!?」

 声を荒げたモモコの視線の先で、三つの頭と蛇の尾、蝙蝠の翼を持つ獣──キマイラが轟と吼える。つんざくような声に身を竦ませたエンリーカの肩をエノクがぽんと叩く。振り向いた少女の体は微かに震えていた。エノクは剣を抜き、彼女を背に庇いながら告げる。

「無理はしないでください。ここは僕らに任せて」

「あなた達……」

 エノクの言葉にエンリーカは一度ぐっと唇を噛んで俯いたが、数秒の後に顔を上げて小さく頷いた。

「ええ……でも気を付けて。その魔物は恐ろしい毒を使うわ!」

 頷き返し、エノクは既に戦闘体制に入っていた仲間達の元へ駆け出す。チョロチョロと駆け回る侵入者達に腹を立てたのか唸り声を上げて周囲を薙ぎ払うキマイラから距離を取りつつ、サヤが叫ぶ。

「モモコ殿! こいつと戦った事が!?」

「十何年も前の経験をあてにしないで下さい!」

 ヤケ気味に返答しながら目を狙ってモモコが放った矢は、魔物がぐっと背を反らしたために側頭部を掠めるだけに止まった。天を仰ぎ、息をいっぱいに吸い込んだキマイラは再び頭を下ろすと大きく開いた口から紅蓮の炎を吐き出す。咄嗟に突き出した盾の裏側にじりじりと熱が伝わってくるのを感じつつ、エノクはすぐさま炎の中から脱出して獣の逞しい前肢を殴り付けた。毛皮が裂け、血が滴る。

 その間にサヤが死角に回り、キマイラの攻撃の届かない場所に入り込む。三つも首があるとはいえ背後にまで目を向ける事は流石にできまい。対魔物用の太い針を取り出して毛皮の薄い部分に狙いをつけたところで、彼ははっとしてその場を跳び退いた。次の瞬間、先程まで立っていた地面が鋭く抉り取られる。

 思わず舌打ちをこぼすサヤに向かい、齧り取った土を吐き出した大蛇が鎌首をもたげてちろりと舌を出す。新たな魔物が現れた訳ではない。キマイラの尻尾の蛇が自ら動いて攻撃してきたのだ。

「こいつ……動くのかよ! くっそズルいな!?」

「そいつよ! そのヘビが毒を持ってるの!!」

 瓦礫の陰に隠れたエンリーカから飛んできた言葉にサヤはますます顔をしかめ、蛇に向かって含針を放つ。真っ直ぐに飛んでいった四本の針のうち二本は命中したが、痛みにのたうち回る蛇に睡眠毒が効いている様子はない。

 尻尾が攻撃を受けた事に気付いた本体が背後を振り向いて低く唸る。前肢の爪が周囲を薙ぎ払うより早く身を翻して回避したサヤは苛ついたように声を上げた。

「チエリ、手伝え! この蛇から落とす!」

「わかった!」

「エノク! 陽動頼んだ!」

「了解……!」

 呼びかけに応え、エノクは盾を構えたままこれ見よがしにキマイラの前へと躍り出た。視界の端にチエリがサヤの元へ駆けていくのを捉えつつがら空きになっていた左肢に剣を突き立てる。傷の痛みに反応した獣はぐるりと正面に向き直り、エノクをじろりと睨み付けた。

 怒りの咆哮を上げ、再び炎を吐き出そうと身を反らすその顔面に、空を切って飛来した物がある。樹上から虎視眈々と好機を窺っていたモモコがついに放った矢は今度こそ逸れる事なく左目に命中し、キマイラは戸惑いと苦悶の混じった声を上げて首を振り回した。

 今だ、とエノクは暴れるキマイラの懐に飛び込んでたてがみに覆われた首筋に剣をねじ込む。今度は確かな手応えがあった。勢いのままに引き抜けば、滴る血が顔を濡らす。

 着実に手傷を負わせる事はできている。ただ、傷を与えるに従って相手の攻撃が激しくなっている事にエノクは気付いていた。手負いの獣の抵抗は恐ろしいというが、それがキマイラ程の敵となれば尚更だ。これ以上激しく暴れだす前になるべく一撃で息の根を止めなければならない。しかし、そんな方法があるだろうか。

「……エノク、エノク!」

 と、そこで唐突に鼓膜を揺らしたのはもはや日常の一部と化した少年の声であった。急いで距離を取りつつ、仲間達に聞こえないような声で応える。

「っなに、今忙しいんだけど!」

「分かってる。お前、氷の起動符って持ってるか? 突術とか……物理術式のやつでもいい」

「え?」

 急な問いかけに慌てて荷物の中身を探る。その間もモモコの狙撃が途切れる事はなく、離れた場所からはチエリとサヤの剣戟が聞こえていた。

「……無い。氷のやつは一枚だけ持ってきてた筈だけど、僕は持ってない」

「誰が持ってる?」

「えっと……うわ!?」

 思考を邪魔するように突如飛んできた一撃に咄嗟に盾を突き出したエノクだったが、防ぎ切れなかった。額に鋭い痛みと衝撃が走り、視界の半分が赤く染まる。

「っ……」

「エノク! っこの、邪魔するな!」

「何やってる!」

 少年が槍を振り回して追撃を防いでいる間に、駆け寄ってきたヘンリエッタが踞るエノクの治療を始める。裂けた額が少しずつ治癒していくのを感じながら、エノクはマントを手繰り寄せて口許まで垂れていた血を拭う。考え事に気を取られて油断するなんて、情けない。

 そこでふとエノクは思い出した。眉をひそめて傷の具合を確かめていたヘンリエッタを見上げて問う。

「あの! 氷の起動符持ってたのヘンリエッタだったよね?」

「は?」

 唐突な質問にヘンリエッタは目を瞬かせたが、すぐさま元の険しい表情に戻って答える。

「それが何だ。いま関係あるのか」

「ああその、ええと……」

「内部破壊だ!」

 一層激しく繰り出されるキマイラの猛攻をそれとなく食い止めつつ、少年が叫ぶ。その声はエノクにしか届いていないが。

「第五迷宮のカメにやったのと同じだ! さっきお前がつけた首筋の傷に起動符を突っ込んで中で起動させるんだ。上手くいけば一撃で止めを刺せる!」

「……!」

 作戦を理解したエノクはすぐさま少年の言葉をヘンリエッタにそのまま伝える。ヘンリエッタは暫し黙り込み、やがてエノクを真っ直ぐに見返してはっきりと告げた。

「私がやる」

「え……」

「起動符なら私の方が上手く扱える」

 そう呟いて立ち上がり、ヘンリエッタは腰に下げたポーチから氷術の起動符を取り出す。ぽかんとしたエノクに飛んできたのは少年の怒号だ。

「尾が落ちたタイミングでやれと伝えろ!」

「あ、っ……ヘンリエッタ! 二人が尻尾を落としたら……」

「分かってる。お前が引き付けろ」

 表情を崩さずに応え、杖の先端に着脱式の刃を取り付け始めたヘンリエッタにエノクは内心舌を巻いた。前線に出て攻撃役を担うなど初めての経験の筈なのに、自分より余程落ち着いている。……油断して攻撃を食らった自分がますます情けなく思えてくる程に。

 否、今はネガティブ思考に陥っている場合ではない。エノクは自らの頬をぱちぱちと叩くと再度盾を構えてキマイラの前へ飛び込み、空いていた右手で背中のマントを思い切り翻す。ただ目立つだけで使い途の無さそうに見えるマントも、やりようによっては役に立つ──彼がこれまでの戦いで学んだ事のひとつである。狙い通り、キマイラは目の前ではためいた赤い布切れに気を引かれたらしい。ぎろりとエノクを見下ろした獣の瞳は殺意に濡れている。

 刹那、空を切って飛んできた爪の一撃を盾でもって防ぐ。余計な事は考えず、ただ守る事だけに専念する。モモコの放った矢が獣の鼻先に突き刺さる。悲鳴を上げて暴れた拍子に振り下ろされた羊の角は、間に割って入った少年が槍で弾いて食い止めた。一言礼を言う余裕も無い。次いで迫ってきた牙を避けて次の攻撃に備えた、その時だった。

「お、っりゃあああああ!!」

 チエリの甲高い雄叫びが響き渡り、何かがどさりと落ちる音がする。次の瞬間、キマイラが今までで一番大きな悲鳴を上げて仰け反った。エノクは背後を振り向く。ヘンリエッタが髪をなびかせて獣の懐へ駆け込んでいく。彼女は血濡れたたてがみに一度目を走らせると、すぐさま先程エノクがつけた傷に寸分違わず杖を突き刺した。先端に括り付けた起動符が傷口を割り開き、ヘンリエッタの頭上に血が降り注ぐ。

 激しくのたうち回るキマイラに身体ごと振り回されそうになりながら、ヘンリエッタは歯を食い縛って尚も起動符を武器ごと奥へと押し込む。刃が丸ごとたてがみに埋まって見えなくなったその時、濁った悲鳴と共に獣が大きく首を振り、ヘンリエッタの身体が強く引っ張られた。

「──!」

「危っ……ない!」

 勢いよく振り払われそうになった彼女の首根っこを掴んで反対側へと逃がしたのは少年だった。急に背後へ引っ張られたヘンリエッタが背中から地面に転がった次の瞬間、無数の氷柱がキマイラの首を内側から突き破る。断末魔の叫びすら無かった。引き裂かれた傷口から血を噴き出しながら崩れ落ちた巨躯の向こう側でチエリとサヤが目を丸くしているのが見える。

 何とか倒す事ができたと安心するより先に、エノクは慌ててヘンリエッタの元へ駆け寄った。呻きながら身体を起こそうとしていた彼女を支えてメディカの瓶を取り出しつつ問いかける。

「大丈夫? その、急に──」

「さっきの作戦、」

 ヘンリエッタが苦しげな声でエノクの言葉を遮る。何度か咳き込んだ後、彼女はじっとエノクを見上げて静かな声で問いかけた。

「本当にお前が考えたのか」

 ぎくり。とでも聞こえてきそうな表情でエノクは身体を強張らせた。ふよふよと傍にやって来ていた少年をちらりと見やるが、そっぽを向いて口笛を吹くばかりで助けてくれる様子はひとつも見られない。この野郎!と言いたい気持ちをぐっと堪え、背中に冷や汗をかきつつ答える。

「えー、あー、そ、そうだよ! 思いつきだったけど上手くいって良かった良かった~……それより怪我とかしてない!?」

「…………いや、お前……」

「あなた達! 無事なの!?」

 明らかに何か言いたげな表情で口を開きかけたヘンリエッタの声を、少女の大声が掻き消す。エノクは内心ほっとした。とりあえずこの場は切り抜けられそうだ。戦いの終わりを察知して駆けてきたエンリーカは血溜まりに沈んで沈黙するキマイラを見て感嘆の声を上げた。

「すごいわね……。……でも、どうして助けてくれたの? あなた達はマギニアに仕えているんでしょ? 私は敵国の王女なのよ」

 エノクとヘンリエッタは顔を見合わせる。どう答えたものか決めあぐねる二人に代わって答えたのは切り落とされた尻尾の蛇を引きずりながら歩いてきたチエリだ。

「だってあたし達が助けなかったら、王女さま今ごろ死んじゃってたでしょ」

「う……そ、そんな事は」

「てゆーか多分、ここにいたのが王女さまじゃなくても助けてたと思うよ。ねっ」

 同意を求められたエノクがこくりと頷けばチエリはにっこりと笑った。それを見たエンリーカは何度か瞬きを繰り返してからふっと表情を緩める。

「そうなのね。あなたは目の前で困っている人は誰であっても助ける、そういう人なのね」

 納得したように呟くエンリーカの表情から、初対面の時のような敵意は窺えない。恐らくこれで自分達が誘拐未遂犯だという誤解も解けただろう。ほっと肩の力を抜く一同の元に、木の上から下りてきたモモコが近付いてくる。彼女の手には何故か見覚えのあるコウモリの死骸が幾つか握られていた。

「近付いてきていたので射ち落としておきました」

「……そ、そうですか……」

「エンリーカ王女。貴女の従者がこちらに向かっているのが見えました。彼女も無事なようです」

「そう……良かったわ」

 安堵の表情を浮かべるエンリーカに軽く頭を下げ、モモコはコウモリの死骸から素材を剥ぎ取り始める。エノクは彼女を手伝いつつあの少年の姿を探すが、いつもと同じようにいつの間にかどこかへと消えてしまっていた。

 『残像』を自称するあのオバケが一体何者なのか……未だに何も分からないが、彼がいつもエノクを助けてくれているのは事実だ。最初は不気味に思っていたものの、今となってはあの少年もエノクにとって信頼のおける仲間の一人である。まあ、先程のように怪しまれた時は大変困るが……。

 次出てきた時は文句と、それから礼でも言っておこう、と決意してせっせとコウモリを解体するエノクの後ろ姿を、ヘンリエッタが少し離れた場所からじっと眺めている。薄汚れた赤いマントを暫しのあいだ睨み付けるように見ていた彼女だったが、やがて大きな息をひとつ吐くと血飛沫でべたべたになった顔を乱雑に拭った。

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