【SQX】8-2 おやすみスターゲイザー
「みんな起きてよおおーっ!!」
チエリの絶叫も空しく、眠りに落ちた後衛の三人は床に倒れ伏したままで動く気配は微塵も見られない。押し寄せる水の奔流を盾で防ぎつつ、エノクは眼前に立ちはだかる白い巨体を見上げる。どこか神々しく、それでいて圧倒的な雰囲気を纏った巨大な白鯨──海嶺ノ水林の最奥部を守るその魔物に、『スターゲイザー』は今まさに追い詰められている最中であった。
運が無かった。最早そう言う他はない。恐らく最後のひとつであろう資料が落ちていたのがこの迷宮の主の縄張りで、しかもこっそり取りに行こうとした瞬間にその主が帰ってくるなど不運にも程がある。その上鯨が発する歌声のような音により後衛三人が眠らされるこの状況。もうお手上げである。いや、実際に手を上げたら死ぬのだが。
「おい! テリアカはどうしたテリアカは!」
上空で鯨に直接槍を叩き込んでいた少年が叫ぶ。そうは言われてもこっちも必死なのだ。治療しに行きたいのはやまやまだが、少しでもここを動こうものならあちらの攻撃がすぐさま背後の三人を呑み込むだろう。それだけは何としてでも避けたかった。
「うぇっちべたい! もお! 邪魔ー!」
チエリも薬の瓶を片手に一度退こうと試みてはいるものの、回避と防御で手一杯でなかなか動けない。これは大変まずい。持ちこたえている内にせめて誰か一人でも起きてくれれば──エノクの切実な願いは誰にも届かない。
後衛の誰も目を覚まさないまま、白鯨の攻撃は一層激しさを増していく。少年が至近距離から攻撃を食らわせて押し止めてくれているために何とか守りを維持できてはいるが、それも時間の問題だ。いずれ押し切られる。それに何より厄介なのは既に鎧の内側まで染み込みつつある海水だ。どこからか流れ込んだ深海の冷たい水は単に足許に纏わりついて動きを阻害するだけでなく、徐々に、しかし着実に自分達の体温を奪っている。
何とか手を打たなければ。隣にいたチエリも同じような事を考えていたらしい。エノクに向かってひとつ頷くと、彼女は覚悟を決めた表情で白鯨をきっと睨み付けて言う。
「エノクくんはみんなを守ってて。あたしが隙をつくる」
「隙って……どうやって」
会話の間にも攻撃は続いている。水飛沫と共に飛んできた珊瑚の欠片を盾で弾きつつ、エノクは問い返す。
「大きな傷を負わせれば怯むでしょ。ダメだったら……お、お母さんとお父さんに手紙を……」
「ち、チエリ……!」
「いや半分冗談。……よろしくね」
言葉にそぐわない真面目な顔で告げ、チエリは刀を収めてぐっと腰を落とす。普段は滅多に使わない居合の姿勢だ。柄に手をかけたまま、彼女は目を伏せて低い声で何事か呟き始める。
『──我が手に緋緋色金あり。此に捧ぐは勇士の御霊、聞こし召せ、聞こし召せ──』
ぶつぶつと聞こえてくる言葉はエノクには聞き取れない異国の言語だ──たとえ聞き取れていたとしても、その意味は理解できなかっただろうが。内心ぎょっとするが、今はそれどころではない。押し寄せる波とそれに混じった氷塊から仲間を守る。
「あ痛っ……!」
上空から悲鳴。はっと顔を上げれば、薙ぎ払うようなヒレの一撃を受けた少年の身体が空気に解けるようにして消えていくところだった。苦い表情を浮かべた彼の唇がすまん、と動くのが見える。これは本当にまずい。エノクは声を荒げる。
「チエリ!」
「……奥義。無双────」
怪しげな呟きを止め、かっと目を見開いたチエリが力強く水を蹴って駆け出す。鯨の懐に飛び込むようにして滑り込んだ彼女の右手が、刀の柄を強く握りしめる。刹那──。
「────『一閃』」
……全ては瞬きひとつの間に終わっていた。気付いた時にはチエリは魔物の下を潜り抜けており、その頭上、艶々と白く光る腹には無数の刀傷が走っていた。一瞬の間を置き、傷口から弾けるようにして赤い血が噴き出す。高い悲鳴が辺りに谺し、止む事なく足許に打ち寄せていた波がすっと引いていく。
同時に背後でばちゃり、と水が跳ねる音が聞こえてきた。振り返れば、身を起こしたずぶ濡れのモモコが余裕のない表情でエノクを見上げている。どうやら鯨の叫び声で目を覚ましたらしい。
「無事ですか」
「え、あっ大丈夫です!」
「すみません。苦労をかけましたね」
低い声で呟き、モモコはすぐさま弓を構えて白鯨に狙いをつける。遅れて目を覚ましたヘンリエッタも頭を振りながらもぞもぞと起き上がり、隣でスヤスヤ寝息を立てていたサヤを文字通り叩き起こしていた。
チエリが魔物から距離を取って回り込むようにして戻ってくる。その顔には疲労の色が見えたが、刀を振るだけの力は十分に残っているようであった。これならいける。パーティーを立て直せた今なら、弱った相手に止めを刺す事ができる。
エノクは呼吸を整え、剣と盾を構え直して駆け出した。
◆
「でもま、勝利の代償がこれっていうのもなんか締まんねえなあ……」
呑気に呟いたサヤにエノクは鼻をすする音で応えた。
白鯨──どうやらケトスという名前だったらしい──を倒して資料を回収、司令部に提出した『スターゲイザー』だったが、翌朝になって彼らを襲ったのは発熱、頭痛、鼻水……いわゆる風邪の症状であった。原因は何となく分かる。冷たい水を浴びた状態でろくに服も乾かさずに長時間過ごした事が祟ったのだ。
エノクは重い頭を動かして自身の寝床の隣にある二段ベッドを眺める。下段にはモモコが、上段にはチエリが。彼と同じように顔を赤くして寝込んでいた。普段は隣の客室で過ごしている二人も、今日ばかりはまとめて看病されるために男部屋に移っているのである。
「報告行ったらめっちゃ笑われたんだぜ?天下の『スターゲイザー』も風邪には勝てないのか、ってな」
「……最後まで寝てたサヤさんに言われたくなぁい……」
チエリの弱々しい文句をサヤは笑って受け流した。エノク達と同じように濡れ鼠になっていた筈の彼だが、何故か体調を崩す事なくピンピンしている。ヴィヴィアンにスープか何かを頼んでくると言って部屋を出ていったヘンリエッタも寝込むとまではいかずとも多少鼻や喉がやられている様子だったため、完全に無事だったのはサヤ一人だけという事になる。
「ふっふん、某はお主らとは鍛え方が違うんだよ」
得意げに言い、彼はエノクの額からタオルを回収して水に浸し直す。いつもなら突っ込みのひとつでも入れるところだが、今はそんな気力もない。
気怠さを持て余して天井の木目を数えていたエノクだったが、ふと気になっていた事を思い出す。
「そういえばさ、チエリのあれ何だったの? なんかブツブツ言ってたやつ……」
鼻声で訊ねれば、チエリはもぞもぞと寝返りをうってエノクの方を見た。あれ、とは彼女が大技を繰り出す前に呟いていた異国語の事である。明言せずとも質問の意図を汲み取ったらしいチエリは同じく鼻声で答える。
「あー、あれね。あたしもよく分かんない。お父さんから「いざって時のおまじないだ」って教えてもらったんだけど……ノリト? って言ってたかなあ」
「ノリト?」
「……祝詞、ですか。神への祈りの言葉のようなものですね」
沈黙を保っていたモモコが、毛布で顔を覆ったまま呟いた。
「お父様から教わったものなら、彼の故郷……極東の島国の言葉なんでしょう」
「ふーん……」
チエリの気の抜けた相槌を最後に会話はぷつりと途切れる。何という事はない。風邪っ引きの三人には会話を続けるだけの体力も、思考力も無いというだけの話だ。サヤが肩を竦め、絞ったタオルをエノクの額の上に乗せ直す。氷水で冷やされたタオルの心地よい感覚にエノクはほうと息を吐いた。ひんやり。
「モモコ殿もタオル替えていい?」
「いえ……このくらい自分で……」
「いーからいーから。普段世話になってるんだし、看病くらいはしないとな」
「本音は?」
「弱ってるモモコ殿めっちゃ新鮮!」
「そんな事だろうと……ああもう、分かりました。お願いします」
ついに観念して頭まで被っていた毛布を退けるモモコと嬉々とした表情でその額のタオルを剥ぎ取るサヤを見て、エノクは微笑ましい気持ちになった。二人より更に年下のエノクが言うのもおかしな話だが、年の離れた姉弟でも見ているような感覚だ。
モモコのタオルも冷やして再び額に戻し終えたサヤがさて次はチエリだと二段ベッドの梯子に足をかけたその時、部屋のドアが静かに開く。戻ってきたヘンリエッタは手に持ってきたスープ入りの小鍋と五人分のカップを机に置くと、サヤに向かって何かを差し出した。
「下で司令部のやつらが配ってた」
サヤが目を瞬かせながら受け取ったのは一枚のチラシである。書いてある内容にひととおり目を通し、彼はへえと感心したような声を上げた。
「サブクラス制度、だってよ」
「さぶ……何?」
「サブクラス。他の冒険者が持ってる技術を学べるシステムみたいだな」
「司令部主催の講習があるとか、技術指南してくれる冒険者の斡旋をするとか……条件を満たせば助成金も出るらしい。詳しくは聞いてないから分からんが」
「上手く回るかはともかく、制度としては良いんじゃね?いろんな所からいろんな奴が集まってんだ。知識や技術を共有するってのは良い考えだろ」
「なになに? 見せてー……」
興味を引かれたらしいチエリがベッドから身を乗り出す。が、それを留めたのはヘンリエッタの鋭い一声だった。
「そんなのは後回しだ。スープを飲んだら寝ろ。そしてさっさと治せ。私も寝る」
有無を言わせぬ調子の言葉にサヤもうんうんと頷く。まったくの正論である。これにはチエリも反論できず、ぐぬーと唸って大人しく布団の中へ戻っていった。
眉間のシワをいつもの三割増しで深くしたヘンリエッタがスープを分けて配り始めた。渡されたカップには琥珀色の野菜スープが満たされており、湯気と共に食欲をそそる優しい香りが立ち上っている。エノクは口の中に涎が溜まってくるのを感じた。
全員にスープが行き渡るのも待ちきれず、カップに口をつける。喉を滑り落ちた温もりが五臓六腑に染み渡り、何となく気力が戻ってきたような感覚がある。
何となく覚えのある味だとも思ったが、そうだ。母のスープの味に似ている。身体が弱く寝込みがちだったエノクのためによく母が作ってくれたスープだ。幼いエノクにとって寝床で大人しくして過ごす時間は憂鬱そのものでしか無かったが、布団にくるまりながら食べる母の手料理だけは唯一楽しみにしていたのである。
一抹の懐かしさを覚えながら、再びカップに口をつける。これを飲んで眠ればきっと風邪もすぐに治るだろう。
母の味を思い出したからか、それとも熱があるからか。
エノクは懐かしい夢を見た。懐かしいとは言ってもあまり良くない記憶である。十一歳か、十二歳か。今より幼い彼は、同じ里の子供達を遠巻きに見ながらじっと立ち尽くしていた。手には槍が握られている。訓練用の、刃を潰した小ぶりな槍だ。
『おまえ、向いてないな』
傍らに立っていた男が言う。彼は子供達に槍の技術を教える指南役だ。エノクを見る彼の目には憐憫と、それからほんの少しの苛立ちの色が見える。エノクが何も応えないでいると、男は小さな、本当に小さな声で溜息混じりに呟く。
『……やっぱり、血は争えないか……』
エノクは呼吸が苦しくなるのを感じた。肩を震わせる彼に気付かず、男はどこかへと立ち去っていく。遠くで子供達の笑い声が聞こえる。エノクは堪えきれずに膝を抱えて踞った。掌から滑り落ちた槍はからからと音を立てて地面に転がる。
母さんは里で一番の戦士だ。おじいちゃんは皆に尊敬される里長だ。でも僕は違う。身体は弱いし槍も上手く扱えない。皆が言ってる通りだ。血は争えないんだ。だって僕は母さんの本当の子供じゃない。里の外から貰われてきた余所者の子だ。どんなに頑張ったって本物のハイランダーにはなれない。僕はハイランダーにはなれないんだ……。
「──エノク」
ひやり、と。
頬を撫でた冷たい感触に目を開けた。頭がぼうっとする。滲む視界に映り込むのは暗くなった部屋と、自分を覗き込む少年の顔だ。看病してくれていた筈のサヤの姿は見えず、隣のベッドからは二人分の寝息が聞こえてくる。エノクは渇いて張り付く喉から掠れた声を絞り出す。
「……きみ、いつから……」
「いつからだっていいだろ。……魘されてたぞ」
少年は心配そうな表情を浮かべてエノクの額に触れる。いつもの事だが彼の手指はひんやりと冷たい。血が通っていないかのようだ。初めは不気味に思ったこの感触も、今は心地良い。
目を伏せて熱の籠った息を吐くエノクを暫し見つめ、少年はふと笑みを浮かべる。
「そうだ、こっそり聞いてたんだが。サブクラス? って言ったか? 冒険者同士で技を教え合うってやつ。あれ、お前もやってみないか?」
「やってみる……って……?」
「俺がハイランダーの技を教えてやる」
エノクは少年の顔を見た。彼は笑顔を浮かべてはいたが、その目がいたって真剣である事くらいは熱に浮かされた頭でも理解できた。しかし。エノクの脳裏に先程見た夢の景色が過る。
「でも、僕……槍は……」
「練習用の槍を基準に考えるな。本当の槍が大剣としても扱えるようにできてるのはお前も知ってるだろ? 剣が振れるんならあれも使えるさ。それに槍だけがハイランダーの技じゃない」
エノクの額に張り付いた髪をそっと掻き分けながら彼は言う。まるで聞き分けのない子供を諭すような、それでいてどこか懇願するような、そんな口調で。
「生まれとか育ちとかで決め付けて、最初から諦める事は無いんだ。すぐにできなくたって良い、俺が何度だって教えてやる。きっと大丈夫だ……信じてくれ」
「……、そこまで、言うなら……」
やってみてもいい、と応えた筈だ。ついに力尽きて半分眠りに落ちかけているエノクの頭では、自分がきちんと言葉を発する事ができたかすら分からなかった。瞼は鉛のように重く、意図せずとも勝手に下りてくる。視界が闇に閉ざされる直前に、エノクは少年の顔をもう一度見た。彼の顔は笑っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「おやすみ、エノク。……今度こそ良い夢を」
眠りに落ちる瞬間、そんな声を聞いた気がする。
今度は、悪い夢は見なかった。
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