【SQX】11-2 混戦、砂上にて

 救える命と、救えない命と。

 そのふたつを見極めて選ぶことが私に課せられた責任だった。戦争は熾烈だった。一人治すうちに三人が死んでいく。十人治すうちに三十人が、百人治すうちに三百人が。迷っている暇は無かった。私が手を止めればその分犠牲は増えるのだから。

 挫けそうになった事など数えきれない。既に息絶えた子を探し泣く母親の声を聞いた時。故郷の家族の名を呼ぶ青年を再び戦場へ送り返す時。昨日治療した兵士が路傍に転がっているのを見た時。ここにいる意味を何度も己の胸に問いかけた。そうしたところで、答えはひとつも出なかったが。

 けれど、私は決めたのだ。救える命だけは何としても救おう。他を見殺しにしたと責められても構わない。いくら詰られようと謗られようと、傲慢だと言われようと。傲慢を貫き続けなければ、きっと私の足は止まってしまうだろうから。

 三百人を四百人にしないこと。それが私の医者としての責務で、唯一の正義だ。


   ◆


 翻るマントを掠めて飛んでいった矢の気配に、スペードは足を止める。背後から聞こえる足音は明らかにわざとらしい響きを孕んでいて、彼は思わず口角が上がるのを感じた。ゆっくりと振り返りつつ口を開く。

「来るならアンタだと思ってたぜ」

「あら、それはどうも」

 呼びかけに応じるように木陰から姿を現したモモコが、そう言ってにこりと微笑む。辺りには二人以外の姿は無い。遠くから聞こえる戦闘音にも耳を澄ませながら彼女は静かに問う。

「仲間とは別れたのですね。あの子だけ先に行かせたのですか?」

 スペードは肩を竦めて応えた。対するモモコはその手に弓を構えたまま、じっと彼を見つめ続けている。

 周囲の景色は枯レ森のそれから徐々に様相を変えつつある。枯木と砂に混じる石造りの構造物は今まで何度も見てきた遺跡のそれと同じもので、四つ目の霊堂が近い事を感じさせる。恐らくブロートとペルセフォネは既にこの先へ進んでいるのだろう。あの男が何を企んでいるのかは分からないが──あまりうかうかしてはいられない。

 スペードがくつくつと笑い、矢筒に手を伸ばす。

「お互い同じこと考えてるみてぇだな」

「ええ……手早く済ませましょう」

 手袋に包まれた指先が矢を掴み、弓につがえる。どちらともなく放った矢が地を穿ち、鈍い靴音が砂を跳ね上げた。そうして音もなく、ひそやかな射ち合いでもって戦いの火蓋は切られたのだった。


   ◆


「──追い付いたぞッ!」

 一声叫べば、数メートル先を行っていた二つの人影がぴたりと足を止めた。そのうちの一人、ハイランダーの格好をした男が振り向き、背負っていた槍を手に取る。傍らの少女がそっと視線をやれば、男は彼女に向かって静かに告げた。

「先に行け」

 促されたエレオノーラはひとつ頷くと踵を返して森の奥へと向かっていく。その背中を横目で見送り、クチナは目の前の男を睨みつける。その顔に浮かぶのはいつになく剣呑な表情だ。

 明確に向けられる敵意を意にも介していないかのように、小首を傾げながら。ヘヴェルと呼ばれていたその男はきょとんと目を瞬かせる。

「ヒトじゃない……?」

「……おまえに言われたくはないな」

 ひとつ溜息を吐くとクチナは腰の刀を抜き放つ。刃を向けられたヘヴェルは少しばかり顔をしかめ、槍を持ち直して彼へと向き直った。ざわりと空気が揺らぐ。男を中心に滲むようにして漂い始めた黒い霧に、クチナの眉がますます寄った。

「そうか、この気配……おまえがそうだったのか」

「…………」

「もう逃がさないぞ、死神(リーパー)! 何故瘴気を使えるのか知らないが……何であれ、おまえのような穢れは祓わなければいけない」

 重々しい口調で告げて両手の刀を掲げるクチナの姿をまじまじと見つめ、ヘヴェルはどこかぼんやりとした様子で応える。

「よく分からないことを言うな……」

 だけど、と呟き槍を構えた──次の瞬間、周囲の霧がヘヴェルの身体に纏わりつき収束する。集まった霧が鎧のような形をなして彼の手足を覆うのを見たクチナの瞳がすっと細まる。それでも尚どこか呑気な表情で、ヘヴェルはその口許に緩い笑みを浮かべた。

「お前の"魂"は旨そうだ」

「……ぬかせ、怪物」

 瘴気の装甲を纏った黒い影に吐き捨てるようにそう告げて。クチナは一足のうちにヘヴェルへと肉薄した。刀と槍とがぶつかり合う。衝撃に辺りの空気がびりびりと震え、漂っていた瘴気が弾けるように霧散する。刀の重みに押しきられるまま飛び退いたヘヴェルは獣のような四つ足の姿勢で着地し、そのまま地を蹴ってクチナへ槍を振りかぶった。鈍い金属音が響く。

 もしこの場に彼ら以外の者がいたならば、繰り広げられる戦いを見てこう思った事だろう。まるで人ならざるもの同士の戦いだ、と。


   ◆


 チエリは迷っていた。物理的にではない。これからどうすればいいのかを決めかねていたのである。

 イワオロペネレプとの戦いを『ウルスラグナ』に任せ、エレオノーラ達一行を追って森の奥へ進んだのは良い。だが途中で仲間達とはぐれてしまったのは良くなかった。正直なところ、チエリには彼女達と本気で戦う覚悟は決まっていないのだ。

 彼女達が故郷を再興するためにレムリアの秘宝を求めている事は知っている。そしてその秘宝が、今まで自分が思っていたような、万能で便利な存在ではないという事も。止めなければいけないとも思う。エレオノーラ達と、ペルセフォネ姫を連れ去ってまで秘宝を狙うブロート……どちらも止めて、秘宝の真実を確かめなければならないと。

 だがそのために人間同士で戦うのは本末転倒ではないか。せっかく海の一族とは友好的な関係を築けたというのだから、同じように平穏に解決する事はできないものか。無論、仲間が傷付けられれば、その時は応戦するが……。

 その時だった。背後から聞こえた物音にチエリの肩が跳ねる。振り返ってみれば、茂みの中からこちらを覗いている人影がひとつ。暗い色のマントを纏い、フードで顔を隠した人物だ。チエリはごくりと唾を飲み込む。

「……あなたも、秘宝を欲しがってる人の仲間?」

 恐る恐る訊ねてみれば、深く被ったフードの下から微かな笑い声が返ってくる。低い男の声だ。

「まあ、そうだな。だが君と戦う気は無い」

 その声にどこか聞き覚えがある気がしてチエリは眉をひそめた。戸惑う少女に向かって男はもう一度小さく笑い、茂みの中から出るとゆっくりと近付いていく。チエリは思わず刀に手をかけた。

「そう警戒しなくても良い。私は君と話をしに来たのだ」

「話……」

「君達は姫君を取り戻すため、あの赤毛の男を追わなければいけない。ここで私達と争うのは時間の無駄だろう」

 そう言って男は敵意がない事を示すように両手を広げてみせる。チエリが何も答えずにいるのを肯定の意と取ったのか、彼は穏やかな声で続けた。

「私以外の仲間は早く君達と決着をつけたがっているようだが、私はそうは思わない。君達は早く姫君を助けに行くべきだ。取り返しのつかない事になる前にな……そこで、だ」

 フードの下から覗く男の口許が、緩く笑みを浮かべる。

「取引をしないか? 君はひとつ質問に答えてくれるだけでいい。望む答えが得られれば、すぐにでも私はここを退こう。無論、仲間にもそう呼びかけるつもりだ。どうだ?」

「……答えなかったら?」

「その時は……まあ、仕方がない」

 男の手がマントを掻き分け、その下に隠れていたものをそっと露にする。右肩に装着された変換器と、背中に見える金属の羽……星術器と呼ばれる錬金炉の一種だ。ここでチエリは男の意図を察した。彼は取引をしようとしているのではなく、自分を脅迫しているのだ。情報を吐かねば殺す、と。

 子供だからと。侮られている。

 逸る鼓動を抑えてチエリはひとつふたつ深呼吸をする。刀に手をかけるのは、まだ早い。見透かされているであろう動揺をなお隠し、彼女は男へ問い返す。

「その……質問っていうのは?」

「なに、簡単な事だ」

 歌うように応え、男は被っていたフードに手をかけた。あっさりと取り払われた布の、その下から現れた顔にチエリの表情が驚愕に染まる。

「この私の顔と、同じ顔をした男……彼がどこにいるのか、教えてくれないか」

 ──そう告げて口許に浮かぶ笑みをいっそう強めた男のその顔は。ノワールのそれと、瓜二つだった。


   ◆


 ──『スターゲイザー』がイワオロペネレプ討伐戦線を離脱して枯レ森奥地へと向かい始めたのと、ほぼ同時刻の事だった。

 治療を終えた衛兵達が前線へ戻っていくのを見送り、ようやくマリアンヌは肩の力を抜いた。怪我人はたびたび担ぎ込まれてくるものの、今のところ死者は出ていない。これまで診た怪我人にも取り返しのつかないような重傷者はいなかった。扉で隔てられた大広間の様子は時折聞こえてくる戦闘音からしか窺えないが、そうそう悪い状況にはなっていない筈だ。

「お疲れ様です」

 警護担当の衛兵が声をかけてくる。やけに親しげなその口調を一瞬怪訝に思ったマリアンヌだったが、彼の顔を見ると納得いったように声を上げた。

「ああ、貴方か! 奥さんの調子はどうだい?」

「お陰様で。今日も家を出る前に「任務だなんて聞いてない」って怒られましたよ」

 そう言って若い衛兵は笑う。彼には身重の妻がおり、数ヵ月前からたびたび夫婦揃って治療院に通ってきていたのである。家に残してきた妻の様子を語る彼の話を微笑ましげに聞いていたマリアンヌだったが、ふと眉を曇らせて口を開く。

「貴方までこんな危険な任務に就いているのか。もうすぐ子供も産まれるのに」

「ええ……ですが、前線の仲間ほうがよほど大変ですし。まだ安全な場所にいる私が文句を言う訳にはいきませんよ」

 彼が視線をやった先にあるのはテント付近の木に括りつけられた獣避けの鈴だ。冒険者向けのものより一回り大きい、迷宮内のベースキャンプなどで使われる特別製の鈴である。こうして安全に救護テントを構える事ができているのも、この鈴が魔物を追い払ってくれているお陰なのだ。

「……貴方がそれで良いならいいけどね。でもあまり奥さんを心配させないように」

「はい、それはもう……っと。では私も外を回ってきます。何かあったらお呼びしますので」

 外から聞こえる同僚の声に応え、ひとつ敬礼を残して衛兵はテントから出ていく。ひとり残されたマリアンヌはふうと息を吐いて物資の詰まった箱に腰かける。

 想像以上に穏やかだ。そもそも本来、病院とはこういう形であるべきなのだ。病や怪我に苦しむ患者など、少ない方が良いに決まっている……と、医者として働いて得た稼ぎで生活している自分が言うのもおかしな話だが。マリアンヌの口許に苦笑が浮かぶ。

 だが、彼女は本当にそう思っているのだ。かつて彼女が働いていた野戦病院には、昼夜問わずひっきりなしに患者が運ばれてきていた。今でもはっきりと思い出せる。傷を負った兵士から戦火に巻き込まれた市民まで、溢れんばかりの怪我人達が粗末なベッドに転がされて痛みに呻く光景を。少なくとも、あんな光景をもう一度見るよりは閑古鳥が鳴いている方がよほど良いだろう。そう、こうして誰もいない、静かな方が──いや待て、何かがおかしい。

  はっとして立ち上がり耳を澄ませるが、テントの外からは物音のひとつもしない。マリアンヌは息を呑み、出入口の隙間から外の様子を窺う。付近には何の気配もない。恐る恐るテントを出て辺りを見回してみれば、林の中に衛兵らしき人影が佇んでいるのが見える。微動だにしない人影へゆっくりと近付いた彼女は思わず言葉を失った。

 人影の正体は、衛兵の石像──否、石化した衛兵そのものだった。

 背後から物音。弾かれるように振り向いたマリアンヌの目に毒々しい色合いの見慣れぬ低木の姿が映る。それが木に擬態した魔物であると気付くまでに数秒かかった。回避が遅れたマリアンヌに、魔物の瞳から放たれた光が浴びせられる──が、予想に反して何事も起こらず。状況が飲み込めないまま、一瞬の隙をついてマリアンヌはその場を離れる。

 なぜ魔物がここに。獣避けの鈴の効果が無いほど強力な魔物は、この辺りにはいなかった筈だ。他のフロアからわざわざ縄張りを離れてやってきた? いったい何のために。いや、そんな事を考えている場合ではない!

 魔物の動きは遅く、林から出たマリアンヌをすぐに追ってくる様子は見られない。テントの傍まで戻った彼女は、ある事に気付いて血の気が引くような感覚に襲われた。テントを囲む木々に紛れ、こちらを見つめるいくつもの眼……完全に包囲されている。これでは逃げる事も敵わない。

 思わず後ずさったマリアンヌの肘にあるものがぶつかる。振り向いて見てみればそれは石化した衛兵だった。硬化したエーテルの膜に包まれ、仮死状態となった彼のその顔は、先程言葉を交わした若い衛兵のもので。

「っ……!」

 すぐさまその身体を隅々まで確かめる。"欠け"は無い。先に見た衛兵もそうだったが、あの魔物には石化させた人間をどうこうしようという意志は無いらしい。だがこのまま放っておけばどうなるか。

 魔物達はじりじりと足を進めてマリアンヌへ迫ってくる。いくら格闘の心得があるとはいえ、複数のF.O.E.を相手にできるだけの力は彼女には無い。アリアドネの糸はテントの中だ。全力で走れば取りに行けるだろうが、しかし。

 こめかみを汗が伝うのを感じながら思考を巡らせるマリアンヌの目の前で、魔物が枝のような腕を振りかぶる。が、その直前に飛び込んできた影が、魔物の顔面へ一撃を食らわせた。声もなく痛みにもがく魔物を林の奧へ突き飛ばし、その人物はマリアンヌを振り返る。彼女の顔には、見覚えがあった。

「……メルセデス隊長(・・)……」

「……そう呼ばれなくなって久しいけれどね。無事で何よりだよ、ドクター」

 拳に付着した汚れを払い、メルセデスは重々しい声で応えた。マリアンヌは呻くように呟く。

「貴女は、秘宝を……いや……あの国を再興すると……」

「敵対する立場の相手だとしても、こんな状況で見殺しにするほど腐ってはいないよ。……だが、もう無理だろう」

 メルセデスがそう言いながら、先程吹き飛ばした魔物が身を起こそうとしているのをちらりと見る。その手にいつの間にか握られていたのは変位磁石と呼ばれる小型の磁軸だ。

「兵士は置いて、早く脱出しなさい。貴女までここで命を落とす事はない」

「──、……な、にを」

「あの呪言師は貴女のような市民が巻き込まれようが気にしないだろう。彼が何のために秘宝を求めているのかは分からないけどね。わざわざ後方部隊まで潰そうと──」

「私に患者を捨てて逃げろと言うのかッ!」

 メルセデスの言葉を遮るように、マリアンヌは叫んだ。緑色の瞳が彼女を見やる。落ち着き払った視線を向けてくるメルセデスを睨みつけ、鞄から試験管を取り出して傍らの衛兵へ処置を施し始める。

「いつもそうだ……! 大義を謳うやつはどいつもこいつも、兵士ひとりの命なんて省みもしない!」

「ドクター」

「もう無理だと? ふざけるな! まだ誰も死んでいないじゃないか……!」

 薬品を調合し、治療術を発動させるマリアンヌの姿を複雑な表情で眺めていたメルセデスだったが、やがて頭を振って変位磁石を発動させるとどこか別の場所へ転移していった。残されたマリアンヌの背中に、じわりじわりと魔物の影が迫る。

 ──自分が愚かだなんて分かっている。

 固まっていた四肢の先端が、少しずつ元の色と温度を取り戻していく。ざりざりと砂を擦る足音が徐々に近づいてくるのが分かる。鞄に仕舞い込んでいた起動符を取り出して魔物へ向き直る。少しだけなら時間稼ぎもできる筈だ。

 ──それでも譲れないものがある。救える命は必ず救うと決めた。ここで折れてしまえば、それは今までの自分の道程と、決めてきた覚悟への否定だ。

 まだ石化が解けきっていない衛兵を背中に隠し、マリアンヌは震える手を起動符ごと強く握り込む。周囲を取り囲む魔物の眼がゆっくりと開く。今度こそ、石化の眼光が彼女を射抜く──。

「──させないっ!!」

 叫び声がひとつ。振り下ろされた一閃が魔物の腕を落とす。次いで飛んできた術式の炎に焼かれ、魔物は身体をよじってのたうち回った。背後から複数の足音と話し声が聞こえてくる。

「良かった、間に合った……!」

「オレ達はこっちを叩く! そっちは頼んだ!」

「了解デス! アタシが全部守ってみせるデスよ!」

「いいから前を向け! 速攻で片付けるぞ」

 振り向いてみれば、そこにあったのは見慣れぬ冒険者達の姿だ。呆然とするマリアンヌに白髪の青年が駆け寄ってくる。彼は既に、先程までマリアンヌの目前に迫っていた一体を倒し終えていた。

「怪我はありませんか?」

「あ、ああ……」

「良かった。本当はすぐ避難してもらいたいんですが……すみません、衛兵の皆さんの治療をしてもらえませんか。ボクもお手伝いするので」

 そんな言葉と共に差し出された手を見てマリアンヌは我に返った。すぐに立ち上がり、先程治療した衛兵の様子を確かめる。状態は安定している。まだ意識は混濁しているようだが、すぐに回復するだろう。

 魔物と交戦しつつ確実にテントから距離を取っていく冒険者達の姿を横目に、今度は林の中に残されていた衛兵の治療を始める。まだ少し震える指先を押さえ、薬液を調合していく。

 傍で作業の手伝いをしていた青年が、そんな彼女の姿を見て静かに告げる。

「あなたはすごい人だ」

「……そんな事はないよ。何もできなかった」

「でも、彼らを救おうとしたんでしょう。あんな状況の中でも」

「………」

「それは、誰にでもできる事じゃないから。……助けられて良かったです」

 そう言って青年は静かに微笑んだ。マリアンヌは何も応えられなかった。ただ深く深く息を吐き、目を伏せる。そんな大した事をした訳ではない。ただ、犠牲を出したくなかった。レムリアの秘宝発見という目的のために目の前でひとつの命が失われる事が、我慢できなかっただけだ。

 そこで彼女はやっと気付いた。そうだ、どんな理想にだって踏み台にしていい命など存在しない。どんな悲惨な死ですら尊い犠牲に変えてしまう、大義という言い訳が嫌いだった。だから一人でも生かそうとした。踏み台にされる筈だった命をひとつでも多く救うため、迷いを振り切ろうとした。

 本当は。命の優先順位なんて、つけたくなかったのだ。

「……大丈夫、ですか?」

 青年が気遣わしげに声をかけてくる。マリアンヌは白衣の袖で顔を拭い、笑顔を浮かべて応えた。

 まだ戦える。傲慢を貫く覚悟はある。私はまだ、自分の往くべき道に立っている。

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