【SQX】12-1 理想のあとさき

 まずいな、と。急に聞こえてきた苦々しい声にエノクは思わず足を止める。

 彼は仲間達がそれぞれの戦いを始めた後もエレオノーラを追って森の奥へと進んでいた。距離は随分と離されてしまっているが、彼女が森を抜けた先にある霊堂へ向かった事は分かっている。追い付くのは不可能ではない筈だと走る速度を上げようとした、その矢先の事だった。

 いったい何事かと声の主──少し後ろをついてきていた少年を振り返り、彼はぎょっとする。ただでさえいつも朧気な少年の手足が殊更に存在感を失っている。端的に言えば、彼の姿は消えかけていた。

「どうしたの!? まさか攻撃が、」

「いや違う。これは……うん、ちょっと近すぎた(・・・・)んだな」

 そう呟き、少年は進行方向とは反対側の空を仰ぎ見る。エノクがどういう事かと訊く前に、彼はひとつ息を吐いて口を開く。

「ここから先はお前一人で行け。俺は無理そうだ」

「えっ……?」

「ところでお前、誰が正しいと思う」

「え……いや、何……?」

「マギニアか、海の一族か……誰がレムリアの秘宝を手に入れるのが正しいかって話だ」

 少年の表情はいつになく真剣だ。答えあぐねている間にもエレオノーラの背中は見えなくなっていき、少年の姿も徐々に薄れていく。エノクは頭を掻いて唸りながら答えた。

「分からないよ。皆に皆の言い分がある訳だし、誰が正しいなんて言われても……。でも……でもヨルムンガンドを手に入れたいからって、姫様を拐ったりモリビトの人達を傷付けるのは……間違ってると思う」

「そうだな、今はそれでいい」

 少年はするりとエノクに近づいてくる。

「自分の立場に溺れるな。正義の前に立つのは悪ではなく、別の正義だと胆に命じておけ。何を信じ、何を否定するか、常に己に問い続けろ。そう在る限り、」

 鎧に覆われた胸を、少年の消えかけた指がそっと示した。不安げに自分を見上げる青年に向かって彼は静かに笑む。

「総ての正義はここにある」

「……!」

「それじゃ、後は頼んだ! 死ぬような事だけはするなよ……」

 言い残して宙に溶けるように消えていく少年の姿を、エノクは半ば唖然と見送った。そのまま暫し立ち尽くしていた彼だったが、遠方から微かに聞こえてきた破壊音にはっと我に返る。あの少女を追わなければ。

 ぺちぺちと頬を叩き、森の奥をきっと睨むと彼は再び走り出す。


 足下を覆う砂が徐々に薄まり、代わりに硬い石畳の感触が靴の裏にぶつかり始める。いつの間にか周囲を取り巻く景色は何度も目にした霊堂のそれへと変わっていた。周囲を見回しながら駆けていたエノクは、遠景に佇む人影を見つけて足を止める。ひとつ、ふたつ深呼吸をして乱れた呼吸を整え、彼は彼女の元へと歩み寄る。

 生え伝う蔦の下、壁に刻まれた紋様を指先でなぞっていた少女は、彼が来るのを待っていたかのようにゆっくりと振り向いた。

「こうして会うのは西方の霊堂以来ね。……お互いに、もう自己紹介は必要ないでしょう」

「……エレオノーラ」

「あなたが来るんじゃないかと思ってたわ、エノク。不思議ね、この島で起きてる事件はすべて、あなたを中心に回ってるような気さえする……」

 頭を振って呟きながら、エレオノーラは自身の剣に手をかける。今すぐにでも斬りかかってきそうな彼女に向けて、エノクは困ったような表情で語りかける。

「きみと戦いたい訳じゃないんだ。ただ、話がしたくて」

「話す事なんて何もないわ。私の事はもう聞いているでしょう?それが全てよ」

「でも、きみの口からは聞いてない」

 第十迷宮で起こった一部始終についてはヘンリエッタから聞いている。スペードの言葉や、クチナがメルセデスから聞き出した情報も含め、彼女達の素性については『スターゲイザー』だけでなくマギニア司令部にも既に周知されていた。その目的も、手段も、掲げる理想も。

 奪われた国を取り戻す──あまりにも大きな責任を背負う彼女の心境を、エノクには窺い知る事ができない。彼はこの秘宝を巡る戦いに偶然居合わせたというだけで、何か大きな理想を持っている訳ではない。ハイランダーとして、総ての正義を掲げる民として、何をすべきかもまだ分かっていない。

 だからこそ知りたいと思う。自分と歳も変わらないようなこの少女が、何を思い、何を信じてここまで来たのか。

「聞かせてほしいんだ。何のために、何を成そうとしているかじゃなくて……きみ自身の話を」

 言葉を選びながら、ゆっくりと告げたエノクの表情はひたすらに真摯だ。エレオノーラは何度か困ったように瞬きをして、小さく息を吐く。

「あなた、優しいのね。……いいえ、ただ甘いだけかしら。彼があなた達を隠れ蓑に選んだのも分かる気がするわ」

「エレオノーラ」

「でもさっき言った通りよ。もう話す事は何もないの」

 どこか物憂げに、しかしはっきりと言いきり、彼女は腰に下げていた剣をするりと引き抜く。掲げた刀身越しに見え自分の顔を真っ直ぐに見つめてくるエレオノーラの表情にエノクは唇を噛んだ。

 真紅の瞳を細め、少女は言う。

「あなたにその気がなくても、私は違うわ」

 エノクが応えるより先に、彼女は紫色に煌めく細身の剣をそっと宙に掲げた。そして右手に構えていた盾も同じように掲げると、盾の裏側に刃を隠すような形で剣を差し込む。刀身と同じ紫の光が盾の溝に走り、組み合わさっていた表面部分が重い駆動音と共に展開する──剣と盾が合体し、一本の大剣へ。

 縁を飾る金装飾と、刃を走る紫色とに彩られた赤い大剣を構えたエレオノーラの瞳は、痛いまでに真剣な光を宿している。

「剣を取りなさい。追いかけっこはここで終わりにしましょう」

 エノクはぐっと表情を歪め、一瞬だけ目を伏せた後、意を決して剣を抜いた。戦いたい訳ではない。話し合いで解決できるのならそれが最良だ。しかし、できもしない対話に固執してむざむざ殺される道を選ぶほど彼は愚かではなかった。

 周囲の空気が張り詰める。枯レ森の方角から吹いてきた乾いた風が、遺跡を流れていく。頭上から落ちる木陰が揺れ、視界がぶれた、その一瞬の間に事は動いた。

 一気に踏み込んで距離を詰めてきたエレオノーラが剣を薙ぐように振るう。咄嗟に盾を掲げたエノクだが、左手で右方からの攻撃を受け止めるのは無理がある。盾を刃に沿わせて受け流し、一歩踏み込んでエレオノーラの籠手を狙って突きを繰り出す。すぐさま身を翻した少女のマントが浅く裂け水色の繊維が宙を舞った。

 数歩退き、互いの間合いから出たエレオノーラは両手に握った剣を顔の前に立てるようにして掲げる。刃に走る光が紫色から赤に変化し、同時に刀身を炎が包んだ。はっと身構える。次の瞬間、振り下ろされた剣から迸った炎が辺りを包み、エノクはその熱気に思わず怯む。彼の意識が逸れたその隙を、彼女は見逃さなかった。

 炎を纏ったままの剣を振り抜き、エノクの手から剣を弾き飛ばす──落下した剣が石畳を砕く音を聞きながら、エノクはエレオノーラの金色の前髪の向こう側で赤い瞳が僅かに歪むのを見た。

 少女の掲げる剣が首筋に添えられる。刃に残る熱が皮膚をじりじりと焦がすのを感じながら、エノクは乾いた唇を開く。

「エレオノーラ……きみはどこまで知ってる?レムリアの秘宝の事を」

「……何の話かしら」

「この島に住むモリビトは、ヨルムンガンドを『破壊を司る生き物』だと言ってた」

 エレオノーラの眉が微かに寄った。彼女が口を開く前に、エノクは言葉を続ける。

「レムリアの秘宝はきみの思うようなモノじゃないかもしれない。それでもきみは先に進むのか」

「…………」

 重い沈黙が下りる。エレオノーラの睨むような視線を、エノクは内心の焦りを抑えながら受け止める。

 彼は『レムリアの秘宝』を信じていない。マキリはヨルムンガンドを地上最悪の生物だと言った。島の四方を囲む霊堂はその封印のために造られたのだとも。ここまで言われるような存在が、本当に国の繁栄をもたらすとはとても思えない。……そしてブロートは、それを承知の上でヨルムンガンドの力を求めている。

 ならば、この少女はどうなのか。

「僕には……ヨルムンガンドの力できみの国を取り返せるとは、とても思えない」

「──それでも、」

 圧し殺したような低い声に今度はエノクの眉が寄る。エレオノーラの真紅の瞳には強い光が宿っている。鮮やかで苛烈なその光は、まるで彼女自身すら燃やし尽くさんとする炎のようにも見えた。

「それでも構わないわ。ぜんぶ壊して更地にして、それから建て直せばいいだけ。どれだけ犠牲が出たとしても、私は私の故郷を取り戻す」

「っ……!!」

「そのためにも……あなたにはここで退場してもらうわ!」

 エレオノーラの剣が、首筋へ向かって振るわれる──その直前に、エノクは右手に持ち変えていた盾を思いきり跳ね上げた。寸前で弾かれた刃はマントごと皮膚を浅く裂いただけに留まり、予想外の方向からの力にコントロールを失った刃が宙を舞う。思わず剣を取り落としかけるのを堪えて柄を握り直したエレオノーラの胴を狙って盾を薙ぐ。咄嗟の回避により攻撃は空を切ったが、その間に身を翻して駆け出したエノクは石畳の上に転がる剣に手を伸ばしていた。

 手の内に収まった柄の感覚を確かめながら、彼は叫ぶ。

「本当にそれでいいのか! 犠牲の上に築いた国で、きみは……!」

「だってそうでしょう、私の国はそうだった。何もなくなったのよ。跡形もなく壊されて……やられた分をやり返して悪い事がある?」

「報復を理由にして犠牲を増やすのが、正しい事とは思わない……!」

「……随分と偉そうな事を言うのね、正義の民(ハイランダー)!」

 一声叫んで地を蹴ったエレオノーラが叩きつけるように振り下ろした剣を、両手に構えた剣で受け止める。刃と刃が擦れあう音が耳を刺した。

「あなたに何が分かるのよ! 外から偽善ばっかり言って、それで何が変えられるって言うの!? 何もしてくれないくせに……何を背負う覚悟も無いくせに!!」

 少女の細腕に込められた力は、強い。剣にかかる重みに押しきられそうになるのを、エノクはぐっと踵に力を入れて堪えた。

「そうよ、戦争を始めたのは私の父……だから私が始末をつける。勝手に仕掛けて、返り討ちにされて滅んだ被差別民の国なんて、誰も助けてくれないわ。行き場を無くして苦しんでる民がたくさんいるの。お伽噺みたいな伝承にでも頼らなきゃ……何もできない。何も変えられない。私が……私が!」

 ──エレオノーラの言うとおりなのだろう。エノクにとって彼女はどこまで行っても他人だ。彼女の苦悩も、覚悟も、決して理解する事はできない。国どころか、人の命も……信念すら背負った事のないエノクの言葉はあまりにも軽く薄っぺらい。偽善だと言われるのも当然だ。だが、それでも。

 エノクは歯を食い縛って受け止める。少女の剣を、悲鳴のような叫びを。

「──私が『ヒーロー』にならなきゃ、誰が皆を救えるの!!」

 その覚悟が取り返しのつかない絶望を生む前に。彼女を止めなければならないと──そう決めたのだ。

 手の内の柄ごと、指を強く握りしめた。皮膚の内側に燻る熱を一ヶ所に集めるように、体内を巡る生命力を腕から剣へと伝播させる。刀身が淡く輝き始めるのを見たエレオノーラの目が大きく見開かれる。エノクは鋭い呼吸と共に剣を振り抜いた。

 光が爆ぜる。

 弾き飛ばされた大剣が、空中で元の剣と盾に分離する。鎧に刻まれた裂傷を押さえて膝をついたエレオノーラの姿を、エノクは何も言わず見下ろした。未だ生命力の光が纏わりついている剣を下げ、一歩踏み出す。

「どうして邪魔をするの」

 ざらついた石畳に引っかけて穴のあいたタイツを睨みつけながら、エレオノーラは呻くように呟いた。ひとつ頭を振り、応える。

「許せとは言わないよ。でも、ごめん」

「……前言撤回するわ。あなた、酷い人ね」

 そう吐き捨てて、少女はゆっくりと立ち上がる。その身体に大きな傷は見当たらない。エノクの放った一撃は、彼女の武器を弾くと共に鎧だけを砕いていた。

 その気になれば命を奪える間合いだった。そうしなかったのはエノクには人間を手にかけるだけの覚悟が無かったからだ。そして、自分の行為が相手への侮辱ともなる事を、彼は理解している。

 俯いたまま握った拳を震わせるエレオノーラに、エノクが何か言葉をかけようとした──その時だった。

 遺跡の外、森の中から飛んできた衝撃波がエレオノーラに直撃する。巻き上げられた石片と土埃の向こう側で吹き飛ばされた少女の身体が倒れ伏すのを見たエノクは、身構えながら振り返る。そこに立っていたのは、見覚えのある赤毛の剣士だ。

「な……」

「赤の娘。その程度の覚悟ならば、お前はこの場に立つべきではない」

 応えるように聞こえてきたエレオノーラの微かな呻き声にブロートはひとつ息を吐き、エノクへと向き直る。

「……『スターゲイザー』。お前達は何故ここまでやって来た? マギニアにそこまでの義理があるのか」

 問いかけてくる声は鋭い。エノクは躊躇した。答えるべきか、エレオノーラの様子を確認すべきか、それとも──そしてその一瞬の隙は、この場においては命取りだった。

 弾き飛ばされた身体が、咄嗟に掲げた盾ごと地面に叩きつけられる。何とか受け身は取ったものの、鎧の内側で強かに打ち付けた全身は酷く痛む。まずい、と思った。剣も盾も、手の届く範囲に見当たらない。……ブロートは彼を見下ろして淡々と告げる。

「ここらで潮時だろう。退くがいい、冒険者。命まで奪うつもりは無い……お前達も、ペルセフォネもな」

 剣を収め、身を翻して去っていく背中をエノクは痛みに滲む目で見る。姫様はどこに、と訊ねようとした声は咳に変わって肺から漏れた。それでもなお遺跡の奥に消えた男を追おうと何とか身を起こすエノクの背後から、唐突に足音が聞こえてくる。

 痛む首を動かして振り返る。そこに立っていたのは、緑色のキルトを血に染めた、傷だらけのハイランダーの男だった。


   ◆


 はっとしたネロが頭上を見上げる。視線の先に見えたものに彼は顔をしかめ、次の矢をつがえようとしていたスペードに声を投げた。

「おい、合図だ」

「あ!? ……チッ、結局ダメだったのかよ」

 促されるまま空に視線をやり、悪態をついたスペードの腕を掠めるように矢が飛来する。攻撃を放った張本人の影を睨み付けた彼だったが、持っていた矢を矢筒に戻すとすぐさま身を退いた。

 二人が撤退していくのに気付いたモモコが辺りを見回して眉をひそめる。木々の向こう側、空に上がる一筋の煙……あれは信号弾だ。傍らにいたチエリが慌てた様子で訊ねてくる。

「ど、どうするの? 追いかける?」

「……いえ、深追いは避けましょう。エノク君達の事も気になりますし」

 周囲を警戒しながら立ち上がり、林を出る。撤退したふりをして攻撃でも仕掛けてくるつもりかとも思ったが、そんな気配は無さそうだ。

「皆どこにいるのかな……」

「とりあえず先にヘンリエッタさんを、……!」

 急に言葉を切ったモモコがはっと顔を上げ、チエリを木陰に押し込んだ。何事かと慌てる少女を口許を押さえ、茂みの向こう側に視線を走らせる。誰かが、歩いてくる。

 先程しまったばかりの矢をもう一度手に取り、モモコはその人物が姿を見せるのを待った。チエリも思わず息を止めてじっと身を強ばらせる。砂を踏む足音が近付き、音の主が顔を出す──瞬間、モモコは矢を放った。引きつった悲鳴が響くが、命中した気配は無い。すぐさま次の矢をつがえようとしたモモコだったが、あれ、と声を上げて手を止めた。

「…………さっきの人では、ない?」

「な、何だ……危なかったぞ……」

 そこにいたのは銀髪に金の目を持つ、褐色肌の男……先程の星術師かと思ったが、よく見ると服が違う。というより、彼の格好には馴染みがある。

「え、ノワールさん?」

「見れば分かるだろう」

「いや……まあ、そうなんだけど……」

「貴方はどうしてここに?」

 訊ねれば、ノワールは頬を伝う汗を拭いながら答えた。どうやら彼はモリビトの里からイワオロペネレプ討伐戦線に向かって魔物の大移動を伝えた後、『スターゲイザー』が森の奥へ向かったと聞いてここまで追ってきたらしい。

「あの鳥はもう倒されているだろう。救護テントの方も冒険者が向かったようだから心配はないと思うが」

「そうだったの……あっちも大変だったんだね……」

「……ところで、何故私を射った。危うく死にかけたぞ」

「それはですね……」

 と、その時だった。そう遠くない場所の茂みが、がさりと音を立てる。一瞬身構えた三人だったが、すぐに警戒を解いた。がさがさと草葉を掻き分けながら近付いてくるのは、薄汚れたヘンリエッタだ。

「無事でしたか」

「早く戻るぞ」

 ノワールの姿は気にも止めず、焦った表情で言うヘンリエッタの背後からクチナが姿を現す。全身に傷を負った彼が背負っているのは、気絶しているらしいエノクだ。

「え! エノクくん……!?」

「鎧おもーい……」

「もう少し耐えろ。急げ!」

 状況の把握もできないまま、一行は枯レ森へと戻っていく。……緑色のキルトを纏った男が、少し離れた場所に隠れてその後ろ姿をこっそりと眺めていた事に、誰が気付く事もなかった。


   ◆


 意識が遠のきかけるのをどうにか堪え、サヤは重い足を引きずって迷宮を脱出する。いつ飢えた魔物に血の臭いを嗅ぎつけられるかと思っていたが、どうやら運が良かったらしい。魔物に見付からなかったところで、自分が死にかけているという事実は何も変わらないが。

 ブロートの鈴に操られ襲いかかってきた魔物を、彼は寸でのところで倒しきった。あまりにも強大な敵だった。勝利する事ができたのも魔物達が棲み処から移動させられて弱っていたお陰だろう。ろくに走る事もできないこの状態で、本当に勝てたと言えるのかは謎だが。

 ゆっくりと足を進めていた彼だったが、迷宮の出入口から少し離れた場所でついに力尽きて膝から崩れ落ちる。手頃な木に身体を預け、ぼんやりと空を見上げた。霞む目に映ったのは撤退を合図する狼煙だ。

 ──命令を反故にしてしまった。

 依頼主からの呼びかけに応えないのは契約違反だ。それ以前に、依頼の通りの働きができなかった自分は解雇される事だろう。……否、解雇されるまでもなく、ここで死ぬ。

 恐怖は無い。生まれてからずっと、そんな感情は持たずに生きてきた。自分の死にすら、何の感慨もない──そう思っていたが。

『お前にとって、私達は何だ。答えろ"──"!』

 ……何だったのだろう。ただの隠れ蓑であった筈のたった四人か五人を、何故殺せなかったのだろう。考えても答えは出ない。それだけが、気がかりで仕方がない。

 まあ、今更答えを得ても、何の意味もない──内心一人ごちていよいよ目を閉じた彼の耳に軽い足音が届いたのは、それから間もなくの事だった。薄く目を開く。砂色の風景の中に、白く小さな影が浮かんでいる。考えるより先に表情筋が動いていた。人好きのする笑顔を浮かべ、掠れた声で呼びかける。

「やあ……マナ殿」

 少女は何も言わず、彼の傍らに膝をついた。落ちていた枯れ枝を拾い上げ、地面に紋様を描く。覚えのある『方陣』だ。

「マナね、ホージンでカイフクできるの。すぐにげんきになるよ」

 不恰好な線で描かれた方陣が淡い光を放ち、彼の身体を包む。本当に回復しているのかは分からない。ただ、冷えていた指先に少し熱が戻った気もする。マナは砂上に投げ出されていた血塗れの手を握って言う。

「あのね、マナ、ノワールまってたの。でもサヤがきたからびっくりした。……サヤどこいってたの? マナねえ、サヤとあそべないからさみしかったよ」

「ん……ああ、そうか……某、も忙しくて……な」

 応えながら彼は回らない頭で考える。自分は何をしているのだろう。今更『サヤ』になったところで意味は無いというのに。しかしこの子供の前で傭兵として振る舞うのは、何故か気が引けたのだ。

 胸が苦しい。視界が歪んで、意識が遠くなる。

「おきて! あのね、ねたらしんじゃうんだよ」

「……いいや、これで……良い。某が、死んだところで……」

 ぼやける感覚の中で、指先に触れる柔らかい手の感触だけが明瞭としている。縋るように言葉を紡いだ。自分が何を言っているのかも判然としないままに。

「私も、結局……失敗作だ。完璧な……傭兵……には、……なれずに……」

「……? なんのはなし?」

「何だっ、たかも……わたしは、……それがしは……、……」

「サヤはサヤだよ! スリケンおしえてくれたでしょ」

 マナが上着のポケットを探り、取り出した折り紙の手裏剣を彼の頬にぺちりと当てた。衝撃で僅かに意識を取り戻した彼にぐいと顔を近付け、少女は必死に呼びかける。

「ねちゃだめ!だめなの!あのね、マナねまだスリケンじょうずにできないからね、サヤがおしえて。それでねーいっしょにあそぶの。たのしいよ。だからね、おきて!」

「──……それは……依頼、か……?」

「イライ? ……うん、イライなの。マナしってるよ、イライっておねがいのことでしょ」

「そ、か……依頼……か……」

 依頼ならば、遂行しなければならない。たとえそれがどんな些細な内容だとしても。

 だが、その前に少し休んでおかなければ。サヤ、と己の名を呼んで胸に縋る子供の体温を感じながら、彼は暫し目を閉じる事にする。眠りに落ちる直前、こちらに駆け寄ってくる複数の足音を聞いた気がした。

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