【SQX】12-3 星を見るもの
空を。光が空を埋めていた。
その日は確か、何百年に一度の流星群が見られるという日で、僕は母さんと一緒に山の開けた場所で夜空を見ていた。ひとつふたつと星が流れて、瞬く光が夜空を満たすその様子は、まるで宝石を覗いているかのようだった。はしゃぐ僕に母さんが言う。
「流れ星に願い事をすると、願いが叶うのよ」
子供の僕はその言葉を信じた。母さんの言うことはいつも正しかったから、きっと本当なんだと思った。だから願いをかけた。夜空を走る星に向かって、迷いも躊躇いもなく。
「かあさんみたいな、立派なハイランダーになれますように」
──その時の母さんの表情は、きっと忘れられない。
届かないと分かっていながら、手を伸ばさずにはいられない。そんなものばかり追いかけて生きてきた。僕はまだ路の途中に立っている。あの日の星は、今も変わらず頭上で瞬いている。
◆
極北ノ霊堂の探索は超スピードで進められた。『スターゲイザー』が探索に加わったのは迷宮の発見から三日後の事だが、その時には既に二階分の地図はほぼ完成していたというのだから驚きだ。聞くに、手練れの冒険者と衛兵隊を総動員し、詳しい調査は二の次にして最低限の地図だけを描き上げたのだという。悠長に探索している暇は無いという事だろう。今のマギニアにとっての最優先事項は、ペルセフォネ姫の奪還だ。
前線に復帰した『スターゲイザー』も、他の冒険者と協力しつつ霊堂を突き進んでいた。群がる魔物を追い払い、闊歩するF.O.Eは避けつつ急いで奥へ奥へと向かっていく。
予想通り、と言うべきか。三階にも四階にも、ブロートとペルセフォネの姿は見られなかった。探索が及んでない場所も残すは地下五階、迷宮の最深部に位置するフロアのみである。
「どこにいるんだろうね」
ぽつりと呟いたチエリに応えたのは、槍を片手にエノクの傍らに浮かんでいた少年だ。
「奥に進んでるのは確かだろうな。あのモリビト、奥に姫様を連れて行けばヨルムンガンドの封印が解けるって言ってたんだろ?」
「やっぱり奥かー。奥に何があるのかな?」
「どうせ磁軸だろう」
ヘンリエッタが吐き捨てるように呟く。霊堂の奥には次の島へ繋がる磁軸──今まで探索してきた中でのセオリーである。レムリアを構成する島々のうち四島は既に踏破されている。もしこの霊堂に磁軸があるとすれば、それは。
「……世界樹へ続く道?」
「まだ分からないけどな」
「磁軸はともかく、この先に何か重要なものが……」
あるんじゃないか、と続けようとしたエノクの口を、モモコが素早く塞ぐ。何事か分からずもごもごと口を動かす彼の耳許で、モモコはそっと囁く。
「聞こえますか」
その言葉にはっとしたエノクは辺りに耳を澄ませる。……微かに聞こえる、石畳を踏む音と、鎧が擦れるような金属音。魔物のものではない。そう遠くない場所にいる人間のそれだ。次いで扉を開く音が響き、足音は徐々に遠ざかっていく。エノクの口から手を離したモモコが、チエリの方を振り返った。
「チエリちゃん、衛兵隊に伝えてきてくれますか。標的を発見した、と」
「でも……」
「誰にも知らせないまま先行する訳にはいかないんです。頼まれてくれますね」
暫し戸惑っていたチエリだったが、やがてひとつ頷くと地図を手に駆け出した。衛兵隊の拠点となっている場所までは、先程見付けた抜け道を通れば迷うことなく辿り着ける。少女の背中を見送った一同はそれぞれ武器と荷物を持ち直し、休憩の痕跡を片付けて通路の向こう側を見やる。…遺跡の奥へ繋がる扉はすぐそこに見えている。刀の柄に手をかけたクチナが呟く。
「張ってて正解だったか」
「そうですね、行きましょう」
静かにそう言ったモモコが先導して歩きだすのを、エノクはひとつ息を呑んで追いかける。隣に浮いている少年が気遣わしげな視線を向けてくるのを横顔で受け止め、彼は扉の向こうを睨んだ。
今度は、きっと本気で斬られる。
クチナが扉に手をかけ、モモコが弓を構える。扉が開き、一行の目は確かに捉える。その向こう側、大広間の中央に立つふたつの人影を。
一人はどこか虚ろな表情を浮かべたペルセフォネだ。彼女は『スターゲイザー』の姿にも何の反応も示さず、ただぼんやりと佇んでいる。そして、もう一人は。
「……やれやれ、しつこい連中だ」
今までの軽装の剣士のそれではない、重厚な騎士風の鎧を身に纏ったブロートは、そう言いながらこちらを振り返った。
これが世界のためなのだ、と男は言う。
剣戟が響く。
斬りかかってきたブロートの一撃を、エノクは左手の盾で受け止める。地面に足が埋まるかというほどの重みを感じるが、それも一瞬の事だった。ブロートはすぐさま身を引くと左方から駆け込んできていたクチナに向けて盾を突き出す。はっとしたクチナは咄嗟に自ら振るう刀の軌道を逸らした。刃は盾の表面をなぞるに止まり、鈍く輝く金の縁取りには浅い傷が刻まれる。
防御のために突き出したその勢いのまま、剣士は盾を横薙ぎに振るう。鎧の隙間を狙って飛んできた弓矢が弾かれ、半ばから折れて石畳に落ちた。それから一呼吸も置かないまま剣を振りかぶるブロートの懐に、少年が滑り込んだ。
「下がれ!」
一声叫んで槍を思いきり跳ね上げる。身をよじって回避されるものの、穂先がかすった胸当ては砕けて破片が宙を舞った。
対人戦に慣れた動きだ、とエノクは剣を握り直しながら思う。数の利はこちらにあるが、油断はできない。
とにかく、自分が攻撃を引き付けて隙を作らねば──呼吸を整えて前線に戻ろうとしたその時だった。突如聞こえてきたのは後ろにいたヘンリエッタの悲鳴で、エノクはすぐさま振り返り、そして驚愕した。杖を構えたヘンリエッタに相対しているのは、青い影のような姿をした"ブロート"だ。
全身が淡い青色に輝いたもう一人のブロートが剣を振り下ろすより先に、急いで後ろに下がってきたクチナがその腕に斬撃を浴びせる。抵抗もなく、するりと落ちた腕の断面から、青いブロートの姿は空気に融けるように消えていく。しかしエノクはそれを見届ける事ができなかった。肉薄していた本物のブロートの剣を寸前で弾き、モモコの援護射撃が放たれた隙に数歩退く。
「──残像だ」
ぽつりと呟いた少年に、エノクは怪訝な視線を送った。『残像』といえば、これまで少年自身が何度も自分を指して言っていた言葉だ。それと今の状況とに何の関係があるのか……そう思ったが、予想外に反応を示した者がいた。
僅かに眉を上げ、ブロートは少年に視線を向けて呟く。
「……そうか、人でないモノが混ざっていると思ったが……お前もそうなのか」
「…………」
「だが、お前は誰の残像(・・・・)だ?」
神妙な問いかけに、少年は一瞬だけ目を細める。しかし不穏な表情はすぐに消え、代わりにその顔には緩やかな笑みが浮かんだ。
「今そんな事が関係あるのか? 思ったよりお喋り好きなようだな、ブロートとやら」
少年がからかうような調子の言葉を投げれば、男はひとつ息を吐いて剣を構え直す。
「……確かに、関係の無い事だな。何にせよ──全員纏めてここで始末するだけだ」
言い終わるや否や、石畳を蹴って飛び込んできたブロートの剣がエノクの胴を薙ぐように振るわれる。咄嗟に軌道上に滑り込ませた盾と刃とがぶつかり、鈍い音と共に火花が弾ける。どうにか防いだものの防御に入るのが一瞬遅かった。重みに耐えきれず、思わずバランスを崩す。そのまま押しきろうとしたブロートがはっと跳び退いたのは、足下に方陣が展開されたのに気付いたためだ。後方からヘンリエッタの舌打ちが聞こえてくる。
「──また出たぞ!」
そう叫んだクチナの視線の先には再び現れた残像の姿がある。それも一体ではない。迫ってくる二体の青い影をモモコが迎撃する。先行していた一体は矢を頭に受けてその姿を消したが、直撃を避けたもう一体はそのまま彼女の元へ駆け込み、剣を横薙ぎに振り抜いた。切っ先が掠めた腕から薄く血が溢れる。
「っ……」
「離れろッ!」
なおも剣を振りかぶる男の影に、駆け寄ってきたヘンリエッタが背後から殴りかかる。後頭部を殴られた残像はそのまま消え失せ、ヘンリエッタは荒い息を整える事もせずにすぐさま杖を鳴らして巫術を発動した。
モモコが腕の傷が癒えきるのを待たずに弓を構え直したのを確かめ、エノクはクチナと打ち合っているブロートに向き直った。あの残像とやらが倒しても無尽蔵に現れ続けるのであれば、どう足掻いても時間が経つほどこちらが不利になる。
盾での殴打を避けたクチナが二、三歩後退する。次の瞬間、なんの前触れもなく現れた残像がその背中めがけて盾を振りかぶった。そちらに気を取られたクチナの注意が逸れた瞬間、ブロートが大きく踏み込む──振るわれた剣がクチナの胸に届く前に、エノクは二人の間に割り込んで盾を構える。幾度目かの衝撃に裏側の持ち手までもがぎしりと軋んだ。そしてまた、出現した残像が間髪入れず襲いかかってくる。
「くっ……」
「その程度の力で……私を止められると思うな!」
残像の剣と、ブロートの放った冷気を纏った斬撃と。立て続けに繰り出された攻撃をいなしきれず、避けきれなかった左の籠手が砕けた。残像の首を斬り落としたクチナがエノクの元へ近付こうとしたが、広がった冷気の余波を受けて足が止まる。
飛んできた少年が、よろめいたエノクの鎧の隙間に差し込まれようとしていた剣を弾く。その隙に体勢を立て直したエノクが振るった剣を受け流し、ブロートは二人から距離を取ると目を伏せて口の中で何事か呟く。次の瞬間、彼の剣を赤黒いオーラが包んだ。まずい、とエノクも剣を掲げて意識を集中させる。
ブロートが剣を振るう。放たれた呪いの波動を、すかさず発動させた生命力の盾で打ち消した。平静を保ってきた男の表情が驚愕に歪むのを、エノクは確かに見る。
「その技は──」
「技がどうした?」
場にそぐわない軽い声で問いながら、少年が槍を振るう。鋭い突きを盾で流し、反対側から斬りかかってきたエノクの攻撃を剣で受け止めたブロートは思わずといったように歯噛みした。
「……覚えがある。ハイランダーとやらか」
「ご存知とは光栄だ」
「綺麗事ばかり語る田舎者の部族……ここでも総ての正義とやらを説くつもりか?」
棘のある言葉に少年の顔から笑みが消え、エノクが眉をひそめる。戦闘前に見せた敵意を再び露にしながらブロートは続ける。
「お前達の同胞を見た事がある。大層な理想を掲げながら、何も成そうともせず傭兵などに身をやつす、口だけの民族だったな」
「そう思うなら勝手に思ってろ。俺達の教義は大事を成すためのものじゃない。己の生き様を決めるためのものだ」
「戯言を」
小さく吐き捨てるとブロートは剣と盾を強く振るい、エノクと少年を払いのける。張り詰めた空気の中で対峙する三人の背後から、残像を相手にしていたモモコ達の叫び声が聞こえてくる。
「クチナさん! 右の残像から潰しなさい! 衝撃波が来ます!」
「了解!」
「どうして分かった!?」
「彼らは出現する直前の本体の動きだけをコピーしてるんです。面倒な動きをする個体から潰します!」
「なるほど……っヘンリエッタ! 方陣頼む!」
「今やってる……!」
杖をつく音と鋭いものが空を切る音、次いで金属同士がぶつかり合う気配。残像についてはあちらに任せてしまっても良さそうだ。エノクは細く息を吐いて眼前の男を見据えた。……彼にはひとつ、訊きたい事がある。
「あなたは何のために世界をひとつにしたいんですか」
ブロートの目が僅かに細まる。傍らの少年がこちらに探るような視線を寄越した。エノクは、静かに続ける。
「ヨルムンガンドが目覚めて、世界の脅威になって、人間は争いをやめて、協力して立ち向かって……その先に何があるんですか」
「真の平和な世界だ」
「本当に? ……その平和な世界で、また争いが起こったら?」
「その時はまた強大な敵を用意するだけだ。何度でも……どれだけの犠牲を出そうとも」
「……あなたは世界を平和にしたいんじゃない。この世界を滅ぼしたいだけだ」
「──分かった風な口を!」
一声叫んだブロートが、再び呪言を紡いであの赤黒い波動を振り撒く。少年がすぐさま反応して生命力の盾で防ぐが、その間にブロートは次の動作に入っていた。
掲げた剣を、盾の内側に挿し込む──駆動音と共に合体した剣と盾は、一本の大剣へ。エノクははっとした。あの武器はエレオノーラの扱っていた大剣と同じものだ。だが……彼女とは、纏っている気迫が明らかに違いすぎる。
ブロートの周囲の空気が、ざわりと波打つ。
水色の光を纏った彼の剣の一振りで、空を裂いた衝撃波が広間を囲む木々を揺らした。風圧に思わず目を閉じかけるのを堪え、盾を強く握り直して衝撃に備える。刹那、疾風のごとき速さで斬り込んできた一撃に、エノクは思わず奥歯を食いしばった。先程までよりも、重い。
少年が槍を構えてこちらに向かってくる。しかしそれを阻むように現れた残像が彼の行く手を塞いだ。もういちど剣が振り上げられる。もはや片手では防ぎきれない。盾を両手で支え、右方から襲ってきた斬撃を何とか受け止める。
「お前達に何ができる」
金属製の盾ごとエノクを圧し斬ろうと力を込めながら、呻くようにブロートは言う。
「世界平和、と。言うだけなら簡単だ。だがお前達に何ができる?これ以上に良い方法があるとでも?あったとしてもそれは夢物語だ」
「っ……それでも、犠牲を出すのはッ……!」
「犠牲なしに手に入れられるものなど無い!」
ぴしり、と嫌な音。同時に周囲に漂い始めた冷気を感じとり、エノクはすぐさま渾身の力で盾を投げ捨てた。手から離れた盾が凍り付きながら石畳を跳ねるのを見送る暇もなく剣を握り直す。いつの間にか辺りには何体もの残像が出現していた。残像達に阻まれ、背後の三人はおろか少年すらこちらに近付けない状態だ。
策を考える間もなく斬りかかってきたブロートの剣を、自らの剣で受ける。刃の向こう側、水色に塗り変えられた緑色の瞳が激情に燃えているのが見えた。
「犠牲が無いのが最善だと? そんな事は分かっている! だがそうやって高望みばかりしている内にまた人々は争い、平和から一歩遠退く!」
噛み合った刃と刃が擦れ、圧し殺した悲鳴のような音を立てる。何も言い返す事ができずとも、エノクはブロートの言葉をしっかりと聞いていた。聞いていれば、何かしらの糸口が掴めるかもしれないと思ったためだ。
故に。続けて放たれた言葉に、彼の思考は凍りついた。
「届かないものに手を伸ばすだけでは何も変えられない」
周囲の音が急に掻き消える。自分の心音ばかりがいやに大きく響く空間で、男の声に重なるようにして幾つもの記憶が甦る。
「叶えられない理想を追い続けるなど、愚者のする事だ。いつまで夢を見ている? 現実に目を向けろ」
『やっぱり、血は争えないか』
──うるさい。
「誰も傷付かず、何も失われず……それで本当に成せるのなら、私もそうしただろう。だが、それは不可能だ。だから捨てた。不可能より可能を取った。それに何の間違いがある?」
『僕はハイランダーにはなれないんだ……』
──うるさい、うるさい……うるさい!
……届かないと分かっていながら、手を伸ばさずにはいられない。そんなものばかり追いかけて生きてきた。その上に自分は立っている。積み重ねたものは決して無駄ではなかった。だってそうだろう、だからこうして今、夢の片端を掴めているのだ。
不可能だなんて誰が分かる。
「これが最善だ。これが王道だ。これが、正義だ!!」
ブロートは叫ぶ。それは拒絶だった。彼は認めない。自分に対するあらゆる反論を、暴力による革命以外のあらゆる可能性を。彼がどんな道程の果てにこの結論に辿り着いたのかは分からない。だが、エノクにも譲れないものはある。
そうやって諦めたあなたに。
僕の夢を、否定されてなるものか。
「──それでも僕は星を見ていたい!!」
ひとつ吼えて、男の瞳を真っ直ぐに睨み返した。瞬間、彼を呼ぶ声が響く。高らかに、力強く。
「エノク!!」
その声に応えるように。両手の内の剣を強く、強く握りしめた。残像に囲まれていた少年の身体が輝き、瞬く間に光の帯へ姿を変える。無数の帯が刀身に絡みつき、剣を一回り大きな大剣へと変える。エノクはそのまま輝く剣を振りかぶる。体内の熱を、両腕からその刃に伝えながら。ブロートがはっとして身を退こうとするが、回避するには遅すぎた。
気合いと共に振り抜いた剣の、その軌道上に残された光の軌跡が、ひとつ間を置いて──閃光のように爆ぜた。背後の仲間達が咄嗟に伏せる気配がする。空気が鳴動し、衝撃に石畳が砕ける。残っていた残像が光に裂かれて掻き消える。
光の残滓がすべて消え去った頃、そこに立っていたのはエノクだけだった。しかし彼も立っているだけで精一杯だ。ありったけの生命力を込めた一撃を放ったのだ。これで勝負が決まらなければ、真っ先に死ぬのは自分だ。
痺れた両手の内で、役目を終えた剣が解けるようにして元の形へ戻っていく。同時に剣から離れた光の帯は再び収束して少年の姿を形作った。
吹き飛ばされて膝をついていたブロートが、剣を杖代わりにゆっくりと立ち上がろうとする。彼の鎧には大きな裂傷が刻まれていた。元の姿を完全に取り戻した少年が、すぐさま彼に近づいて槍をその首筋に突きつける。
「お前の負けだ」
既に回避の構えを解いて弓を握り直していたモモコが、ふと広間の出入口に視線を向ける。通路から複数の足音が響いてくる。チエリに呼びに行かせた増援が、ようやくここまで辿り着いたようだ。
少年が槍をいっそう強く首に押し当てる。未だ膝をついたままのブロートは彼を見上げてひとつ咳き込み、唇を歪めて……静かに笑った。
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