【SQX】13-3 ハイランドの亡霊
たいへん気まずい。
エノクは内心そう独りごちて、少し距離を置いて隣に座っている男をちらりと見やる。彼は槍を手にしたまま膝を抱いてぼんやりと中空を眺めていた。尻の下に雑に敷かれている緑色のキルトには点々と赤黒い染みが付着していて、エノクは幾度もそれ魔物の血ですよねと訊ねようとして思いとどまっている。いや、だって、否定されたら怖いし……。
ヘヴェルと名乗ったこの男との距離を、エノクは測りかねている。どうしてここにいるのかは分からないが、彼はエレオノーラの仲間だった筈だ。彼女に言われて助けに来たと言うが、果たして本当に信じて良いものか。
悶々とするエノクをヘヴェルは横目でちらりと見て、ぽつりと呟く。
「腹が減ったのか?」
「えっ……?」
「俺もすぐ腹が減る」
そう言ってうんうんと頷き、彼は腰のポーチを探る。少し間を置いて取り出したのは透明な袋に入った干し肉らしき物体だった。ヘヴェルはしなびたそれをかじりながら、袋をエノクに差し出す。
「うまいぞ」
「……は、はあ……」
有無を言わせぬ態度に思わず干し肉を手に取ったエノクだったが、流石に口に運ぶのは躊躇った。見たところ手作りのようだが、何の肉なのだろうこれは。恐々としながらしわしわの肉を眺める彼をヘヴェルはじっと見つめている。妙な眼力のある金の瞳に気圧され、エノクは覚悟を決めて干し肉を口に放り込んだ。
「…………兎?」
「そうだぞ。たぶん」
たぶん、とは。口の中に広がる淡白な味を噛みしめながらエノクは何とも言えない表情を浮かべる。
こうして地下四階に落下してきてから、早くも一時間近く──あくまで体内時計での計測であるが、恐らくその程度の時間だ──が経過しようとしている。仲間達は今頃どこにいるだろうか。こちらに近付いてきていると信じたいが。
暗い遺跡には魔物の息遣いだけが響いている。頭上から『吶喊する鼎角』が壁に激突したらしき音が微かに聞こえてくる。よくもまあ飽きもせず突進ばかり……と他人事のように考えるエノクの隣で、ヘヴェルがふと立ち上がった。何事かと驚いている内に彼はてくてくと歩いて通路の奥へ行ってしまう。
ヘヴェルはすぐに戻ってきた。唖然としているエノクに向かって突き出されたのはまだ微妙に生きている血塗れの木の葉だぬきである。
「魔物がいた」
「……えっと、ありがとうございます……?」
「食べるか?」
「食べませんけど……」
「そうか」
残念そうに呟いて木の葉だぬきを遠くへ放り投げるヘヴェルを、エノクは動揺を隠しつつ見ていた。肉だったり狸だったりと行動には突拍子が無いが、彼なりにこちらを気遣ってくれているのだろうか。狸が飛んでいった方向といそいそと元の場所に戻るヘヴェルとをしばし見比べ、エノクは意を決して口を開いた。
「あの、ヘヴェルさんはどうしてここに?」
「エレオノーラに言われたから」
「その辺りをもう少し詳しく……」
ヘヴェルはひとつ、ふたつ瞬きをしてからぽつりぽつりと語り始める。
「よく分からないけど、エレオノーラは落ち込んでた。でもお前のことは怒ってないそうだ。お前達が死ぬのは嫌だから、危ない時はこっそり守れって言われた。それでこっそり着いてきたんだけど、お前が急に落っこちたから、危ないなーって思って助けに来た。そんなかんじだ」
「エレオノーラが、そんな事を……」
「そうだ。エレオノーラは優しいだろう」
何故か得意気なヘヴェルから視線を逸らさないまま、エノクは複雑な表情で思考を巡らせる。エレオノーラがヘヴェルに自分達を守るよう命じた、その真意を窺い知る事はできない。だからといって知らない振りをする訳にもいかないだろう。故郷を背負ってここまでやって来た彼女の希望を砕いたのは、他ならぬ自分なのだから。ひとつ息を吐いて、次の質問をする。
「ヘヴェルさんってハイランダーなんですよね。どこの里の出身ですか?」
「さと」
おうむ返しに呟き、ヘヴェルは振り返る。怪訝に思うエノクを前に、彼は困ったような表情を浮かべる。
「分からない」
「分からない……って」
「覚えてない。記憶喪失ってエレオノーラは言ってた」
「記憶喪失……」
呟けば、ヘヴェルはひとつ頷いて膝を抱え直した。
俯く彼にどう言葉をかけるべきか迷いながら、エノクはふと、その手の内にある槍に目をやった。見慣れたハイランド式の槍の、刃を固定する留め具の部分。そこに小さな刻印のようなものがある。あれは確か、どの氏族によって作られたかを示す刻印だ。目を凝らし、どんな紋様が刻まれているかを確かめる。
「……あれ?」
「どうかしたか?」
「あ、いえ……」
顔を上げたヘヴェルに誤魔化すように手を振り、エノクは動揺を隠すように視線を逸らす。少し間を置いてもう一度刻印を見ようとしたが、ヘヴェルが身動ぎしたためにちょうど見えない角度になってしまった。
見間違いだったのだろうか。掠れてはいたが、あの刻印は自分が育った里のものだったように見えたのだが。
考え込むエノクに何を思ったのか、もう一度干し肉が入った袋を取り出そうとしたヘヴェルだったが、突如その顔が曇る。槍を手に素早く立ち上がる彼の視線を追えば、高台の上で動く小さな影が見えた。もぞもぞと動く、丸い物体……やがてひょっこりと顔を出したのはどこか愛嬌のある狸の顔で、ようやくエノクはその物体が木の葉だぬきであった事を理解した。
木の葉だぬきは高台から二人──否、ヘヴェルの姿を見下ろし、クン!と一声鳴いて足下に置いていた何かを咥える。それは血塗れの葉っぱであった。目の前の狸が頭に乗せているものと同じ、しかし赤く染まってしまっている葉っぱを見て、エノクはあっと声を上げる。脳裏に浮かぶのは探索中に雑学を披露するクチナの笑顔である。
『狸は夫婦仲が良い動物で、一度つがいになったらどっちかが死ぬまで一緒にいるんだ。おれも昔、つがいの仇討ちをされてなあ……』
「……復讐されてるじゃないですかー!?」
「えー」
慌てて剣を抜くエノクと呑気に首を傾げたヘヴェルの前で、木の葉だぬきは短い手足を伸ばして謎のポーズを取る。丸々とした身体が煙に包まれ、その向こうの影がみるみるうちに大きくなり──天を衝くような巨体の赤い竜に姿を変えた。
聞いた事もないような恐ろしい声で咆哮する赤竜を見上げて言葉を失うエノクの隣で、ヘヴェルが槍を構える。
「お前は隠れてろ」
「あれと戦うんですか!?」
「なんかすごいでかいけど、中身は狸だ」
と、ヘヴェルが言い切らない間に、頭上の竜が大きく口を上げて息を吸い込む。慌てて壁の陰に隠れた二人の目の前に広がったのは一面の炎で、エノクは思わず頬を引きつらせた。
「……炎のブレスとか吐いてますけど」
「すごーい」
「いや感心してる場合じゃ……!」
「だからお前は逃げていいぞ。たぶん、そろそろ仲間も来るんじゃないか?」
「そんな……」
その時だった。どこか遠くから響いてきた呼び声にエノクの目が大きく見開かれる。遺跡の内部は声が反響するため、どの方角から聞こえたのかは分かりづらい。しかし、今のは。
ほらな、とヘヴェルが言う。
「はやく行け。……あ、その前に」
「むぐ!?」
無骨な指が伸び、エノクの頬を挟み込むようにしてつまむ。予想外の行動に目を白黒させるエノクの顔をまじまじと覗き込み、彼は困ったように眉を下げて呟いた。
「──どこかで会った事、あるか?」
「え……」
どういう事かと訊き返そうとした声は轟く咆哮に掻き消された。ヘヴェルは頬から指を離すとちらりとエノクを見て、それから槍をくるりと回して壁の陰から飛び出していく。身を乗り出せば、黒髪を翻して跳び上がった男が赤竜に向かって繰り返し槍を叩きつけている姿が見えた。一瞬だけ迷った。ほんの数秒にも満たない時間、エノクは逡巡し、そして踵を返して走り出す。赤竜がいる方向とは反対側へ、全速力で。
しかし先程の声がどこから聞こえてきたのかはまったく見当がつかない。運良く合流できるのが先か、闇雲に走って魔物とかち合うのが先か。獣避けの鈴の効果は既に切れている。危機的状況だが、どうせ立ち止まったところで事態が好転するわけでもない。曲がり角を抜け、周囲に視線を走らせる。聞き覚えのある声がすぐ近くで響いたのはその時である。
「……っおおお!? やっと出られた! 無事かエノク!」
ぎょっとして振り返る。いつの間にか傍らに浮いていたのは見慣れた少年の姿で、エノクは思わず声を上げた。
「は!? ……きみ、今までどこに!」
「いやずっといたけど出てこれなかったというか、まあ何というか……とにかく、早くモモコ達と合流するぞ!」
ヤケ気味にそう叫ぶと少年は高く飛び上がって身を翻す。遠目にもよく見える赤いキルトがぶわりと広がって、先程と同じ声がもう一度聞こえてきたのは、それから間もなくの事だった。
「おばけくんだ!!」
チエリの叫びである。今度はしっかりと分かった。降下してきた少年があっちだと指さした方向へ駆け出す。
通路を一本抜けたところで、自分のものでない複数の足音が聞こえてきた。そこでようやくエノクはほっと息を吐く。瞬間、今まで無意識に押し込まれていた疲れがどっと襲ってくる。壁にもたれて深呼吸をする彼の頭に、馴染みのある怒号が降る。
「お前!安静にしてろって言っただろ!」
「そうもいかなくなったんだよ、ヘンリエッタ……」
高台から飛び降りたヘンリエッタがすぐさま杖を鳴らして巫術を発動させる。全身の重みが少しずつ和らいでいくのを感じながら、背後を振り返る。壁に隠れているのか、それとも既に倒された後なのか、赤竜の姿はどこにも見えない。ヘヴェルは無事だろうか。今からでも加勢に行った方が良いかもしれない。
そう結論付けたエノクが仲間達に事情を説明するより先に、辺りを見回した少年が口を開く。
「レオはどうした?」
「この階に下りる前に別れました。街に帰した、の方が正しいでしょうか。彼、そこそこ無理していたので……」
「某らも早く帰ろうぜ。流石に迷宮全力疾走は堪える……」
「そだねー。えーと、糸は……」
「あ、ちょっと……」
あっちに人が残ってて、と言おうとしたエノクを、またも少年が止める。今度は直接的に口を塞がれた。いったいどうしたのかと抗議の視線をやれば、彼は有無を言わさぬ目でこちらを見ていた。初めて見るその表情にエノクが困惑している間に、チエリがアリアドネの糸を広げ終える。
そのまま押し込まれるようにして街へ帰還する間も少年の顔は険しく歪められたままで、ついにエノクは何も言えずに終わった。
◆
その日の夜は大騒ぎだった。とにかくエノクはしこたま叱られた。どちらかと言えばエノクに非は無いのだが、それでも叱られた。一人でいる間に何があったのかを話せば、今度はしこたま心配された。まあこれは当然だろう。ヘヴェルはエレオノーラの仲間で、枯レ森での一件ではクチナと交戦していたと聞く。敵対していた相手と迷宮で二人きりなど、本来ならば死んでいてもおかしくない状況だ。
「……でも僕は生きてる」
それは何故か? ……助けてくれたからだ。ヘヴェルが。
店主がサービスだと言って運んできたスープ──「事情は知らないけど頑張ってるみたいだからご褒美だよ~」との事だが、あの狸親父の事だから全てお見通しかもしれない──を飲んでいたサヤが顔をしかめる。酒場の空気はいつものように賑やかで、隅の席でこうして言葉を交わす『スターゲイザー』の事など気にもしていないようだった。
「それ本当か? 某の知る限りでは、あの人そんな事するタイプじゃないんだけどな……」
「出戻りのお前が言うと含蓄があるな」
「本筋から逸れちゃうからその話は後で!」
ヘンリエッタの野次をうんざりしたようにいなしつつ、彼は肩を竦める。
「ヘヴェルな。あの人、そういうんじゃないんだ。何て言うか……もっと単純な、某みたいな奴だよ。エレオノーラの命令以外はわりとどうでもいいし、何なら積極的に殺しに行くような感じ?」
「はあ」
「だから……何だろうな、違和感があるんだよな……そもそも枯レ森でお前を助けたのもあの人だって聞くし、そこからして……」
納得いかない様子で呟き続けるサヤを横目にふんと鼻を鳴らし、ヘンリエッタはフライドポテトを口に放り込んでエノクに向き直る。
「お前、大丈夫なのか」
「何が?」
「明日には五階に下りる。本命がくるかもしれない」
エノクは思わず口を閉じた。本命──ペルセフォネの保護、そしてヨルムンガンドの撃破。この大仕事を失敗すれば、マギニアや海の一族どころか下手をすれば世界すら巻き込みかねない事態になる。うーんと唸り、温くなったジュースを啜る。
「案外平気だよ。確かに怖かったけど、よく考えたら迷宮で遭難するのって二回目だし。慣れってやつかな」
「そんな事に慣れるな」
ヘンリエッタの眉がますます寄る。他でもない、一回目の遭難を共に経験した彼女の言葉に苦笑が漏れる。
「自分でもレムリアに来てから肝が太くなったような気がするんだよね」
「度胸がついたって事だろ。成人の儀にはふさわしい成長じゃん」
「……ああ、レムリアを覆う闇がどうとか……って、ヨルムンガンドの事だったのか」
思い出したようなヘンリエッタの言葉に二人はああ~、と声を上げる。
「霧みたいなやつも出てるし、獣云々はヨルムンガンドって訳か。なるほどなあ」
「僕も今気付いた……じゃあ、一層気合いを入れなきゃ」
すっかり忘れがちだが、エノクがマギニアに乗り込んでこの島までやって来たのは成人の儀を果たすためだ。苦節数ヶ月、ようやくそれらしい機会に巡り会えた。個人の事情よりも優先すべき事があるのは分かっているが、それでもやはり、本来の目的を果たせるとなると気持ちの入りようは違ってくる。
だが、しかし。エノクはぽつりと呟く。
「どうして僕だったんだろう」
「……どうした、急に」
「いや……僕はお告げの通りにレムリアまで来て、皆と出会って、冒険者として頑張ってた訳だけど……どうして僕があんな託宣を受けて、ここまで来れたのかなって」
サヤとヘンリエッタが顔を見合わせた。二人が何とも言えない渋い表情を浮かべているのを見て、エノクは慌ててぱたぱたと手を振った。
「あっいや、急に自信が無くなったとかそういう訳じゃないよ! ただ、こう、不思議だなーって!」
「別に文句がある訳じゃない」
「いやでも顔……」
「まあ良いんじゃないの。某はお主のそういう根暗なとこ嫌いじゃないぜ」
「な、何でそんなこと言うの……」
純粋な疑問を口にしただけだというのに、いったい何が駄目だったのか。エノクが机に突っ伏してうちひしがれている間に、後方から酒場の出入口が開く音がする。 サヤに肩を揺すられて顔を上げれば、司令部に出向いていたモモコとチエリがこちらにやって来るのが見えた。
ひとつ息を吐いて頬を叩く。明日か明後日か、いつか分からないが、近いうちにヨルムンガンドと戦う事になるだろう。多くの命の行く末を決める戦いの舞台に、なぜ自分が立つ事になったのか──答えはまだ見付からないが、それでもやらねばならない。
この壁を乗り越えた先で、いつか見た憧れをこの手に掴むために。
レムリアは大いなる空虚に
呑まれようとしている
黒き霧は数多の生命を喰らい尽くし
怒りは世界の全てを飲み込むまで
尽きる事がないだろう
深淵に眠る獣を打ち倒し
島を覆う闇を祓え
──そして、蛇は地の底へ。
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