【SQX】14-1 東の雷雲

 マギニアの出立は、さらに延期される事になった。

 ペルセフォネが帰還しヨルムンガンドの脅威も去った以上は急いで本土へ戻る必要も無いと判断されたのだろう。それに、多少時間をかけてでも生活物資を補給し、迷宮から産出される稀少な素材を収集、研究してからレムリアを発った方が将来的にはマギニアのためにもなる。

「……で、お前達は相も変わらず司令部の"お使い"か」

 あからさまな皮肉にエノクは思わず苦笑する。

「まあ、僕達は冒険者なので……」

「あんな大それた事をしでかしておいて、よく言う」

 呆れたような調子でそう呟くと、ノワールはその手に握っていた木製の剣をくるりと回した。

 二人が居るのは第一迷宮・東土ノ霊堂である。ヨルムンガンドの復活に伴う再調査も終わった今、遺跡の内部はすっかり静まり返っている。人の出入りが少なく魔物もさほど強くないこの迷宮はこうした手合わせには丁度良い場所であった。

 ノワールが剣の稽古をしたいと願い出てきたのは、ペルセフォネの失踪から始まった例の騒動が一段落ついてすぐの事だった。詳しくは語らなかったが、どうやらエノクを相手に剣の修練をしたいらしい。彼が頼み事をしてくるなど珍しい。少々面食らいながらも、エノクは二つ返事で了承した。

 ノワールの剣は多くの冒険者のそれとは違い、魔物をより人間を相手にする事に特化している。それもどちらかというと正式な軍隊で用いられるような、型の整った正統な剣術だ。どこで習得したのか気になりはしたが、一度訊ねた際に何とも言えない渋い表情を返されて以降エノクはその話題を口にしていない。

 それから数度打ち合った。互いに疲労が溜まってきたところでノワールが首筋に垂れた汗を拭い、傍らの荷物に突っ込んであった懐中時計に目をやる。時刻は正午を回ろうとしていた。

「そろそろ戻るか。お前、今日の探索は?」

「夕方からです。第十四迷宮を三時間くらい」

「……ああ、地下だから昼でも夜でも大して変わらないのか」

「そういう事だな」

 唐突に割って入った声は頭上からのもので、エノクとノワールは揃って視線をそちらにやった。いつの間にか現れていた少年は、いつもと同じように余裕たっぷりの笑顔で二人を見下ろしている。

「敵は強いが、外の環境に左右されないのは良い事だ。まあ、光源が暗すぎるのは難点だが……」

「……急に出てこられると驚くな……」

「慣れると気にならなくなりますよ」

「こら、軽く流すな」

 存在を主張するようにくるりと回転する少年を、ノワールは不信感に満ちた表情で眺めた。何なんだこの浮遊霊は、とでも言いたげな視線を適度に受け止め、少年はエノクに向き直る。

「さて。探索は夕方からだが、確かモモコと昼飯を食うって話になってたんじゃなかったか?」

「あっ……そうだった……」

「おい、あちこちで予定を作るな。挙句すっぽかそうとするな」

 盛大に顔をしかめたノワールが荷物を背負い上げて足早に街へと向かっていく。エノクも慌ててその後を追った。あいつ、すごい真面目だよなあ……と傍らの少年が呟くのに内心で同意しつつ、数歩先を行く背中へと駆け寄っていく。


   ◆


 第十四迷宮の魔物は、強い。これまでの迷宮でも特に初めて見る魔物を強力だと感じる事は多々あったが、今回はそれどころの話ではない。気を抜けば全滅もありうる……と、絆創膏の貼られた頬を撫でてエノクは顔をしかめた。かぎづめモグラの爪が掠めた右頬の傷は存外に深かった。ヘンリエッタの迅速な治療のお陰でかさぶた程度には塞がっているが、それでも完治とはいかず、仕方なく彼はじんじんとした痛みを堪えながら夜の市街地を歩いている。

「買い出しなんて他の奴に任せれば良かっただろ」

 目立たないようにと地表近くまで高度を下げていた少年が、呆れたように言う。エノクは薬の瓶や食糧が詰まった紙袋を抱え直して苦笑した。

「だってモモコさんとサヤは地図の整理と報告するって言ってたし、チエリとヘンリエッタは治療院に用があるらしいし……」

「怪我人に厳しいギルドだなあ」

「そこまで言う程の怪我でもないよ」

 あしらうように応えれば少年は肩を竦めて黙り込む。しばらく歩いている内に、どうやら先程の言葉は遠回しに自分を心配してくれていたらしいと気付いたエノクだったが、それをわざわざ口に出すほど彼は野暮ではなかった。

 仕事終わりの一杯を求める人で賑わう通りを抜け、宿へ続く近道へと足を踏み入れる。表通りから一本入った路地裏は時間帯のせいもあって非常に暗いが、ここを通れば宿までの距離が格段に短くなるのだ。

「足下気を付けろよ」

「分かって……うわ!?」

「言ったそばから!」

 段差に躓きかけたエノクの首根っこを少年が慌てて掴む。寸でのところでバランスを取り戻し、責めるような目をした少年を振り返って一言謝ったところで、ふとエノクは辺りから聞こえる微かな声に気付いた。堪えるような、くつくつという笑い声である。

 同じく声が聞こえたらしい少年が辺りを見回す。耳を澄ましたエノクは顔をしかめた。声は、頭上から聞こえてきている。

「……あの、どちら様ですか?」

「──くくく。どちら様、ときたか!」

 返ってきたのは聞き覚えのある声だ。思わず閉口するエノクの隣で少年が手の内に槍を出現させる。そのまま流れるように投擲の体勢に入れば、今度はどこか焦ったような声が降ってきた。

「おいおい街中だぞ落ち着けっての!」

 声を追うようにして、影がひとつ頭上から下りてくる。大した音もなく着地したそれは、エノク達の方を向いてにひらりと片手を振った。

「久しぶりだな。……あのアマはいねぇな?よしよし」

 飄々とした調子でそう言う影──帽子を被った見覚えのある男を、エノクは冷ややかに見つめ返す。

「スペードさん……でしたっけ。何のご用ですか?」

「ちょっとな。その前に武器しまえよ。別に喧嘩売りに来たわけじゃねぇんだ」

「それは無理だな」

 右手の槍をくるりと回しながら応える少年の声色は淡々としている。スペードはひとつ肩を竦めた。

「ま、それもそうだ。……手短に話すぜ。お嬢がオマエを呼んでる。話がしたいそうだ」

「……エレオノーラが?」

「場所はマギニアを降りてすぐの水源池。日付が変わるまでは待ってるってよ。分かったらさっさと行った行った」

「いや、ちょっと待ってください! どうしてエレオノーラが僕を、」

「知らねぇよそんなの。確かに伝えたからな」

 そう言うとスペードはすぐ傍を伝っていた配水管に足をかけて軽やかに壁をよじ上る。屋根の上まで辿り着いた彼はそのまま立ち去ろうとし、ふとエノクを見下ろして声を上げた。

「お嬢を待たせんじゃねぇぞー!」

 と、言い残して今度こそ去っていく影を見送ったエノクは、困惑しつつ少年を振り返る。いつの間にか槍を手放していた少年は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてうーんと唸った。

「明らかに怪しい」

「でも、待ってるって言ってたよね」

「……お前も大概お人好しだよなあ……」

 重い溜息をひとつ吐き、彼は呟く。

「何かあったらすぐに呼べよ」


 夜の平原はただただ広く、涼やかな静寂ばかりが満ちている。時折吹く風が草葉を揺らす音を聞きながら、エノクは一歩一歩確かめるような足取りで水源池へと向かっていた。傍らに少年の姿は無い。街を出る前に「俺がいると話しづらいだろ」と姿を消してしまったのである。呼べば出てくるとも言っていたため、どこか近くにはいるらしいが。

 足下を照らす月光は明るく、ランプを持たずとも辺りの様子がよく見える。故に、エノクの目ははっきりと捉えていた。少し離れた池のほとりに佇む、水色のマントを纏った小柄な人影を。

 意識して足音を立てながら近付いていけば、暗い水面を眺めていたエレオノーラは静かに振り返る。

「こんばんは。……本当に来たのね」

「きみが呼んだんじゃないか」

「呼ばれたから素直に来るっていうのがおかしいのよ」

 呆れたように言い、エレオノーラは目を伏せる。闇夜によく映える金糸が白い横顔にかかるのを、エノクは言葉もなく見つめた。沈黙が下りる。

 さて、こうして言われた通りやって来たはいいが、エレオノーラがいったい何を話したいのかエノクには皆目見当がつかない。そもそもよく考えたら彼女と顔を合わせるのは極北ノ霊堂で剣を交えて以来だ。何だかんだ長い付き合いがあるものだと勝手に思い込んでいたが、そう考えると気まずいというか……。

「あなた、ヘヴェルに何を言ったの?」

 静かに響いた声に、思考を止めて顔を上げる。エレオノーラは物憂げな表情を浮かべてこちらを見ていた。

「第十三迷宮に行かせてから様子がおかしいの。話をしたんでしょう。何を話したの」

「何……って」

 エノクは目を瞬かせる。脳裏に蘇るのはほんの数週間前の一連の出来事だ。迷宮での遭難、降ってきた男、要領を得ない会話、巨大な赤竜、頬を掴む指の感触……。質問に答えるより先に、彼はほっと息を吐いた。そうか、あの人はちゃんと迷宮から出られたのか。いくら狸が変身しただけとはいえ、あんな恐ろしい竜を相手にして無事でいられるなんてとんでもない人だ。

 と、そこまで考えたところで我に返った。怪訝な目を向けてくるエレオノーラに、誤魔化すように頭を振り、記憶の箱をひっくり返しながら慎重に答える。

「ええと……干し肉を貰ったのと、あと記憶喪失だって話もしたかな」

「記憶……」

「詳しい事情は聞いてないよ。どこの里の出身か訊ねたら分からないって言われて、その流れで。……ああ、それと……」

「それと?」

「どこかで会ったことがあるかって訊かれた」

 エレオノーラの表情がにわかに曇る。薄い唇から漏れた本当にそれだけ?という呟きにエノクがひとつ頷けば、彼女はそっと視線を逸らして何事か考え込むように深く俯いた。ただ事ではなさそうなその様子に慌てて声をかける。

「もしかして、何か悪い事した?」

「……いいえ。あなたは悪くない」

 小さく首を振り、エレオノーラは長く息を吐き出す。

「でも事情は分かった。教えてくれてありがとう」

「……役に立てたなら、良かったけど」

「もう話す事は無いわ。あなたも早くマギニアに戻りなさい」

 淡々と告げ、少女はマントを翻して歩きだす。林の中へ消えていこうとしたその背中に、エノクは半ば反射的に声を投げた。

「ありがとう」

「──……何の話?」

「第十三迷宮にヘヴェルさんを送ってくれたのは、きみなんだろ。あの人がいなかったら、僕は今ここに立ってないから……だから、ありがとう」

「…………」

 頭上の月に雲がかかる。這うように広がった暗闇が辺りを呑み込み、振り向いたエレオノーラの表情も黒く覆い隠してしまう。

 ひとつ、ふたつ、呼吸を置いてから聞こえてきたのは、ひどく強張った声だった。

「もうじき、レムリアを発つわ。マギニアにも海の一族にも頼らない方法で」

「え、でも……」

「来るときもそうだったの。心配しないで。……もうあなた達の前には出てこないわ。だから……、……迷惑をかけて、ごめんなさい」

 さよなら──と掠れた声を残し、今度こそ少女は闇へ消えていく。揺れる金色と水色が暗がりに溶けて見えなくなるのをじっと見ていたエノクは、エレオノーラの気配が完全に消えた後もしばしその場に立ち尽くしていた。ひときわ強く吹いた風が草葉を揺らし、水面にさざ波を立てる。

 レムリアを出て、本土に帰ったところで。彼女の帰る場所はもうどこにもない。

「──あまり気に病むな」

 前触れなく耳元で囁かれた言葉にもエノクは動じなかった。じっとエレオノーラが去っていった方向を見つめ続ける彼の頭を、音もなく現れた少年がぽんと撫でる。

「帰ろう」

「……うん」

 控えめに促され、エノクはようやく重い足を上げた。踵を返し、夜空に浮かぶマギニアの巨大な影へとまっすぐに歩いていく。あんなに明るかった月は今やその姿を隠し、薄雲の向こうから射す光は細く頼りない。頬を撫でる風は湿っている。夜のうちに雨が降り始めるかもしれない。

 辺りに満ちる静寂をまるで嵐の前兆のように感じながら、二人は帰路を急いだ。互いの顔すらもよく見えないままに。

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